第3話 はい、チーズ 2



 赤沼には家族がいた。

 妻と娘だ。

 ――いや、いまもいる。

 ただ、彼の生活の退廃ぶりはひどかった。QOLなど意識したことのない、一人暮らしの男のそれだった。

 洗い場に溜まり続ける欠けのある食器、出し忘れる中身のつまったゴミ袋、学生の頃から使い続けている手垢まみれの家電、一度も拭いたことのない汚れた窓、カビだらけの風呂場、寄付を催促する封書の山――。

 赤沼自身は掃除が得意だと思っているが、実際は目に入らないようにものを片付けているだけで、1LDKの部屋のいたるとろが埃だらけだ。

 そんな事実に、赤沼もうすうす気がついている。

 だからこそ空いた時間はつねに携帯端末でゲームをやり続けている。

 過敏に整理されたホーム画面がロード時間に暗転すると、自分の疲れた顔が映る。

 そこから目を背ける。

 そういうときは決まって赤沼はテレビの方に視線を向ける。

 テレビ台の上に、家族の写真がある。二年前、遊園地に行ったときの写真だ。

 妻と娘の肩に手をまわしているのは遊園地のマスコットキャラクターだ。なんど見てもかわいくはない。むしろどことなく不気味で怖い。そんなマスコットキャラに娘は、おびえ半分はにかみ半分で妻の足にしがみついている。

 赤沼はいない。

 これは赤沼が撮った写真だった。彼はカメラのこちら側にいる。

 そのことが彼と彼の家族の命運をわけた。

 赤沼がシャッターを切ったときだった。

 異種知性体による相互確証攻撃、その第一波が赤沼の住む街を襲った。

 双方がどれほどの科学技術を持っており、同時にそれをいかに適切に扱うことができるのか、その確認のための異種知性間攻撃、そのファースト・フェイズだった。

 のちに異種知性体からの攻撃勧告を本物であると考えず日本政府が黙殺していた事実が、明らかになった。このようなかたちでのファーストコンタクトを想定できていなかった当時の政権は強い批判を受けて退陣し、現政権が異種知性体との宥和政策を打ちだすことで、ようやく世論は安定したようだった。

 ただ、赤沼にはそんなことはどうでもよかった。

 この写真が、唯一残ったものだった。

 住んでいた家も、なにかもが吹き飛んでしまった。

「そんな悲しそうな顔をしないで」

 赤沼の背後に立った、妻がそう言う。

 強い怒りで眼の前が真っ赤に染まる。

 おまえが、どの顔でそんなことを言うのか。偽物のおまえが。

 赤沼は深呼吸で、気持ちを鎮める。鎮めようとする。

 娘が歓声をあげてリヴィングを走り抜ける。

「やめろ!」

 叫び、テレビのリモコンを投げつける。壁にあたって、プラスチックが砕け、妻と娘は消える――。

 テレビ台の上、写真立てと対称の位置に、手のひらサイズの黒い箱がある。

 異種知性体による相互確証攻撃の被害者に、設置が義務付けられているケアボックスと呼ばれる機械だ。被害者の心身のケアのために用いられる。攻撃以前と変わらない生活を送るための――再現するためのものだ。

 赤沼にとってそれは――妻と娘がいる生活だった。

 ケアボックスを中継機にして異種知性体の技術を用いた代替現実オルタナティヴ・リアリティが彼を、彼の暮らしを支えていた。ケアボックスが感情の起伏を察知すると、赤沼の視界には妻と娘が現れるのだ。

 確かに、そのことに赤沼は助けられていた。

 妻と娘との生活に癒やされていた。

 病院から退院し、新たなに生活を構築しなければならない。

 妻と娘を失った事実は、明らかに赤沼の心を蝕んでいた。

 怪我から快復したとはいえ、ふつうの生活に戻るには時間がかかることは明白だった。 

 沈みがちな赤沼の気持ちを支えたのは、ケアボックスがもたらす代替現実の、カメラには写らない妻と娘だった。

 彼女たちが本物ではないことはわかっていた。それでも誰かがそばにいてくれる――ただその一点から赤沼はぎりぎりのところで踏みとどまっていた。

 だが、その事実が赤沼を苛立たせもした。

 偽物の妻と娘は異種知性体の技術で生み出されたものだ。

 妻と娘を自分から奪った存在の技術によって、実際に助けられている――その事実に赤沼は苦しめられていた。

「気分転換をしたほうがいいわ、写真を撮りに行きましょう」

 妻にそう提案され、攻撃後に赤沼が撮った写真がある。たとえ誘導されたものだとしても、目的のある行動は赤沼の生活に張りをもたらした。

 いまの赤沼には金があった。いや、昔はなかった。売れないカメラマンだった。だがそのとき撮った写真がコンテストでグランプリを受けたのだ。

 うつくしい写真だった。異種知性体の攻撃による節電で光害の影響が減じた結果、撮ることができた天体写真だった。

 明るい星々と、遠くに影になっている山々の遠景とは対照的な、暗い街の姿。

 コンテストの応募したその写真は、都市の本当の美しさがあるとグランプリに輝き、攻撃からの復興の象徴とされた。様々な企業からの二次使用料で、赤沼は生活していた。依頼はあったが、もう写真を撮ることはなかった。

 そのかわりに、新しい仕事に就いた。赤沼が心から欲していた仕事だった。

 ある日、妻に言われて外出し、赤沼がカフェでぼんやりしているときだった。

 混んできた店内で、相席を請われ、見れば妙に目に力のある、若い男だった。小綺麗な格好で、まだ二十代前半か、愛想のいい笑顔を見せている。

「赤沼稜太さんですね」

 疑問ではなく確認だった。

 赤沼は席を立とうとした。写真が広まってから、こういう手合いにはうんざりしていた。

「――まだ、怒りはありますか?」

 赤沼は若い男を見下ろした。

 視線がぶつかり、若い男はうなずく。

「異種知性体を憎いと思っている?」

「おい」

 いまの日本社会で、こと誰が聞いているかわからない場所でそんなことを大ぴらに言えるはずもなかった。

 攻撃後の日本がどれだけ異種知性体の技術に助けられているのか、赤沼もそれぐらいは理解していた。

「どうなんですか?」

 赤沼は、視線だけで辺りを確認し、誰も自分たちに注意を払っていないことを確認してから、うなずいた。

「よろしい、では私たちと仕事をしませんか?」

 どこまでも柔和に、若い男はそう言った。

 男は反異種知性体を標榜している環境保護団体「ブルーアース」の構成員だった。

 赤沼は仕事を得た。自らの怒りの向かう先を、正確に知ることができた。

 異種知性体への爆弾テロ――それが赤沼の仕事だった。

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