ハナ

イジス

 仕事帰りの人々でごった返す地下鉄の駅で、瀬川正史はスマホを耳に当てていた。

「プレゼンどうでしたか、重役たちに企画書読んでもらえましたか」

 はずんだ声だ。

「残念なんだが、あの案は取り上げられなかったよ」

「どうして、どうしてだめなんですか?」

 近くを歩いていた人たちが、びっくりして目を向けたほど大きな声だった。

「ムキになってもしかたがない、またがんばればいいんだよ」

 室長はこの話題をさっさと切り上げてしまいたそうだ。

「外資のHT社が市場から撤退する今こそ絶好の機会じゃないですか、上の人たちにはそれがわからないのですか」

 正史はそうはいかない、食い下がった。

「俺が決めることじゃない。集荷の拠点をニューデリーに移すより、重役たちは東南アジアからの空路を開く方に関心があるらしいよ、会議ではもっぱらその話ばかりだった」

 悪いのは自分ではなくて重役たちだと言いたいのだ。

「わかりました、このプロジェクトから下ろさせていただきます」

「え、何を言ってる。おい、ヤケになるんじゃないよ。聞いてるか? 室長の俺がきいているんだ。答えろよ、おい!」

 いきなりの反撃に室長はあわてた。

 しかし、正史は電話を切った。

 飯田橋にあるA商社では、中東までの物流ルートを新規に構築するプロジェクトが進行中で、正史の所属する営業部企画室がその案を作っていた。

 現地へ何度も足をはこんで数か月間寝る間も惜しんで作った企画書だった。自信もあった。それが取り上げられもしなかった。悔しかったし、協力してくれた同僚たちにも申し訳ない気がした。

 下からどんな意見を上げたって、決めるのは結局お偉いさんたちなのだ。現場の実情なんてちっとも知らないくせに。


 駅を出て、なんということなく振り返ってみると、地下の穴からゾロゾロと人が出てくる。まるで墓から這い出すゾンビのようだ。

 魂も自意識も失って社畜で終わる人生。そして自分だってまちがいなくそのうちの一人なのだ。

 スマホをまだ手に持ったままだと気づいたとき、反射的に番号キーを叩いていた。

「こちら転職求人の情報サイト、クリエイト企画でございます」

 もしもしと声を出そうとしたが、正史はためらった。


 高層ビルが、夜空の星を呑み込んだように輝いていた。大都会の夜景は美しい。夢や希望を、それを求める人々の手に届けてくれる。

「昔は夢があったなあ」

 ふと、嘆息した。

「仕事をお探しの方は1を、転職をご希望の方は2を……」

「音声ガイドかい!」

「まだお決まりでない方は、弊社ホームページをご覧ください」

 正史は黙った。勢いで掛けてはみたが勇気がないのを見透かされた気がした。


 帰り道の途中、街灯の明りが交錯する公園近くの歩道で、クーンと鼻を鳴らしてまるい影が、正史の足元へ寄って来た。

「なんだ」

 子犬である。正史はかまわず先へ歩こうとした。

 しかし、子犬は頭をこすりつけてきた。

「よせって、お前の主人と勘違いするなよ」

 子犬は脚をふるわせ、正史を見上げていた。その寂しそうな目に正史はドキリとした。

「お前の飼い主はどこへ行ったんだ」

 しゃがんで頭をなでてやると、首輪をしていない。

「捨て犬かよ、でも俺のマンション、ペット禁止なんだぜ」

 だが口とはうらはらに、正史は子犬を抱いて立ち上がった。

 子犬は痩せて軽かった。そして、コートの肩におとなしくあごをのせた。

「俺もたいへんだけど、お前もこの都会でたいへんらしいな」

 誰に言うともなく、そう言った。


 風に潮のにおいがした。

「さあ着いたぞ」

 次の週末、正史は生家のある町へ久しぶりに帰郷した。東北地方の小さな港町である。子犬を拾ってから三日経っていた。三日の間に、子犬はずいぶん元気になった。動物の生命力はたくましいものだ。レンタカーのドアを開けてやると、コロコロ太った小さい身体を砂地の道にはずませた。

 里山のふもとに中学校があったが、見慣れない建物に変わっていた。

「あれ、ここって俺の田舎の海辺町だよな」

一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。

「そうだそうだ、二年前くらいに新築したんだっけか」

 洋館造りのペンションみたいにケバくなった中学校が、帰郷をしてもいつも腰が落ち着かず、あたふたととんぼ返りで東京へ戻っていた正史を見下ろしていた。

「すぐには気が付かなかったよ」

 苦笑して頭をかいた。目に入っていたとしても注意して見るゆとりがなかった。それだけ会社の仕事が忙しかった。


 道の脇にある緑地に入ろうとした子犬を、正史が尻尾をつかんで引き留めた。

 突然プシュッと音がして水が勢いよく噴き上がった。

「相変わらずかよ」

 町の史跡の案内板があるところは、下に芝生が植えてあるのだが、スプリンクラーが隠れていて、知らずに近づくと水をかけられる。

 スプリンクラーの水はグルグル回って道路にまで水を振りまいた。

「この道は小学生のときから通っているんだ、なめるんじゃねーぞ」

 こんな迷惑な仕掛けをずっとほったらかしのままにしているのは、いかにも海辺町らしかった。

 正史は子犬を連れて生家へ向かった。正午の日差しが海の色をかがやくブルーに変えていた。


「これなんですが」

「あら可愛い」

 正史が押してよこした子犬に、母親のしのぶは、うっかり声を上げてしまった。

「飼ってやってください、おねがいします」

 勝手知ったるわが家ということで、いつもは挨拶もそこそこに上がり込んで来る正史が、今日に限っては手土産まで持って、殊勝らしく玄関に立っていたので、これは何かあるなと用心していたのだが、子犬の愛らしさについ笑顔を作ってしまった。

「どうしろというの?」

「俺のところ、マンションだから無理なんですよ。だから」

 重大な話があって帰るというから、心配して待っていたら、拾った犬を引き取ってくれという。

「親に甘えるのもいいかげんにしなさい。いつまで実家を頼る気よ」

 ここはどうしたって、叱るところだ。


 母親が子犬をひざにのせると、子犬は舌をだして顔をなめた。

「な、かわいいだろ」

「なんだって家に連れてきたの。東京でほかを当たってみなかったの」

「だって、うちに来れば飼ってくれるに決まってるんだし。そんな無駄なことはしません」

「小さいときから調子ばかりいいんだから、バカ息子」

 広い家だし、父親が動物好きで山羊と矮鶏と亀を飼っている。そこへ犬が一匹増えたってどうってこともないというのが正史の読みだ。

 自分の部屋へ行きかけた正史が、縁側を戻って来た。

「それから、そいつまだ名前つけてないから、母さんが好きなのをつけてやってよ」

 さっそく子犬にお手をさせていた母親へ、ニヤニヤしながら言った。


 じゃがいもを取りに物置へ行くと、壊れていた畑との境の竹の柵が直っていた。

「ついでにニンジンも二三本持ってきてちょうだい、シチューにするから」

 台所から母親が縁側に出てきた。

「親父って器用だったんだな、知らなかった。おれも何かしてもらおう、マンションのリビングの椅子の脚が壊れちゃったんだよね」

 すっかりもうけた気だ。

 どうしてこの子は、こうちゃっかりと調子のいいことばかり思いつくのだろう。母親は呆れた目で、二十歳はとっくの昔に過ぎた息子の、うすく無精ひげの生えた顔をまじまじと見つめた。

「とりあえず犬小屋はちゃんとしたのができそうだな」

 子犬と一緒に喜んでいる。

 育て方をまちがったのかもしれないが、そんなこと今さらしかたがない。


「お父さんに大工仕事ができるものですか、それは雄平くんがしてくれたのよ」

「なんだ、そうだったのか。親父にしちゃ上出来に過ぎるとおもった。雄平はちょくちょく来るの?」

「お父さんの碁の相手をしてくれるのよ。礼儀正しくて気遣いがあってほんとうに好青年だわ。あなたのことも『アニキは元気でやってますか』って、気にかけてくれてたわよ」

「あいつまだ俺のことをそんなふうに呼んでいるのか」

 雄平は一学年下の友達である。近所に住んでいて小さいころからアニキと慕ってくれていた。

「雄平くんはもう一人前の立派な船大工さん、お給料だっていいのよ。ところがあなたは相変わらずの平社員。もうどっちがアニキなんだか、わからないわね」

 口をとがらせた正史へ、それまで息子の厚かましさに耐えてきた母親は、ささやかな仕返しができたとばかり、小気味よさそうな笑い声を立てた。

「せっかくだから、顔を見せに行ってらっしゃい」


 裏口を出て畑の道をゆくと、海鳴りがきこえてきた。雄平の家は浜伝いに行ったところである。

「家にいるかな。雄平とはこのあたりでよく一緒にあそんだなあ」

 海沿いの屋根の一軒ごとに風が渡って、白い雲が浮かんでいた。

 足元で子犬が吠えた。

「おや、ついてきたのか」

 はじめて見る流木や干した網へ、子犬はキョロキョロと目を向けていた。


 浜にボートが揚げてあった。

「見てろよ」

 子犬へそう言うと、勢いよく走りだした。

 ボートの船縁に手をかけて身体を持ち上げ、跳び箱のようにして飛び越えた。

が、勢い余って着地と同時に尻もちをついてしまった。

 子犬が走ってきて、正史の周りを回り、心配そうに手をなめた。

「お前、どうして捨てられちゃったんだ?」

 覗き込んだ子犬の黒い瞳は、無心の恭順にただ潤んでいた。

「いやなことだったら忘れてしまいな。お前はこれからこの町で暮らすんだ、きっと楽しいぞ」

 正史は笑って、やさしい潮騒のきこえるなかへ、両手で子犬を差し上げた。


 雄平の家へ近づくと、急に子犬が先へ駆け出して行った。

「どうした?」

 熟して黄色くなった梅の実の枝をくぐって敷地へ入ると、この家の飼い犬である中型犬の柴犬と、子犬が向かい合っていた。

「なんだ、そうだったのか」

 子犬は不安そうに正史を見上げた。

「よう、ジロひさしぶり」

 正史が気軽に柴犬に声をかけるのを、子犬はけげんそうに見ていた。

 正史は柴犬の背中をごしごし撫でてやった。「紹介しよう、あいつは今度うちで飼うことになった、まだ名前がついてない子犬だ。これからよろしく面倒をみてやってくれ」

 柴犬のジロは眼を細め、首を上げて咽喉を鳴らした。

 それに驚いたのか、子犬は後ずさりした。

「こっちへきて挨拶をしろよ、この町の事をいろいろ教えてもらいな」

 正史はそう声をかけて、子犬をはげました。


 女子高生の麻子がひとりで留守番していた。雄平の妹である。

「ご家族のみなさんは湧谷温泉かい」

 南へ山を一つ越えたところにある昔からの湯治場である。朝から家族ででかけているそうだ。

「あそこのお湯はお肌がスベスベになるんですよ、わたしも連れてってほしかったわ」

「明日からテストじゃしかたあるまい」

「わかってます。でも、女の子には女子力も大切だと思いませんか」

 大きなまるい目の顔へ血を上せて主張した。


 母親が持たせた手作りのシフォンケーキは、麻子の大好物だった。それと東京から買ってきたお菓子の分け前を袋に入れてきた。

「里帰りだったのですか」

「ちょっと事情があってね」


「あなたコーギーね!」

 ジロと遊んでいた子犬を見つけた麻子が、大きな声をあげた。

「拾っちゃったんだ」


「尻尾があるんですね」

 ジロから子犬を奪い取った麻子が、全身を検分した。

「そうそう、獣医もそんなこと言ってたんだが、それがどうかしたのか? 犬に尻尾があったっておかしくないだろう」

「コーギー犬はもともとイギリスの牧羊犬だったのですけど、きつねに間違われないようにふさふさの尻尾を生まれた時すぐに切っちゃうんですよ。そうしないとコーギー犬として認められないし、ペットショップでも売れないんです」

 麻子は子犬に頬ずりしながら「かわいそうに」とつぶやいた。

「どうしてそいつには尻尾が残ってるんだ」

「たまたま生まれちゃったんですよ、きっと。ブリーダーが繁殖させたのじゃなくて、ほかのどこかで」


 柴犬のジロと子犬はすっかり仲良くなって、同じ皿のミルクをなめていた。

「両親はこの町で勤めたらいいって。でも、わたしもっと勉強したいんですよ。できれば動物関係の学校へ進みたいのですけど」

 卒業後のことを話して、正史と麻子は縁側に腰かけていた。午後の遅い日差しに、梅や柚の庭の木々が影を深くしていた。

「正史さんは賛成してくれますか」

「いいんじゃないか。学校を探すのなら東京へきて直接見て回るといい、俺のところに泊めてやるよ」

「ほんとうですか、相談してよかったわ」

 よろこぶ麻子へ、正史は得意げに胸を張った。

「遠慮しなくていいぞ、新しくできた豊洲市場もついでに案内してやる」


 テンションが上がり、いきなり参考書を開いて勉強をはじめた麻子に、正史は「じゃあな」と手を振った。

 そろそろ帰らなければならない時間だった。麻子は手をひらひらと振って返した。ほぼ上の空のようすだ。勉強して進学することに心を決めたらしい。

「夏休みにおじゃまします。泊めてくれるって言いましたよね」

 それでも、言質を取ることは忘れなかった。

「わかってる」

 ジロの前脚に頭をのせて寝てしまった子犬をそのまま置いて、雄平の家を出た。


 このまま東京へ帰るわけだが、気が重かった。企画書の始末が待っている。室長に聞かされる小言は我慢するとしても、同僚たちのがっかりした顔を想像するとやるせなかった。

 道伝いにある船小屋を過ぎると、大きな罌粟(けし)が咲いていた。ポピーというふつうのよりずっと大きい鬼罌粟という種類だ。背丈は正史の胸くらいまであって、花は大輪である。

「おまえ、しかし元気だな」

 この辺りでは珍しくない花だったが、正史はこのとき、呆然と気を飲まれたようにそこへ足を止めた。

 船小屋のトタン屋根は潮に錆びて朽ちかけていたが、鬼罌粟は昔と変わらない真っ赤な花を掲げていた。


 東京から乗って来たレンタカーまで来ると、鞄からスマホを取り出した。

「もしもし室長ですか、俺ですけど」

「よかった、心配してたんだよ。プロジェクトから抜けるなんて言うから、本気で困ってたんだ。正ちゃんのほかにできる人がいないんだから、頼むよ機嫌直してくれよ」

 室長はいつもこんな調子だ。不機嫌をすかしたり持ち上げたりして部下を使うのがうまいこと。

「あの企画書のことなのですが、自分が直接プレゼンしたいとおもうのですがどうでしょう」

「本気か? でも上のひとたちは頭が固いよ。無理なんじゃねーの」

「概算で十年後には年商何億もちがってくるんです」

「そりゃ、そうなんだが。十年後というと今の重役たちはもう社にいないから、そんな先のことには関心がないよ」

「でも、がんばってみます」

 正史の熱意に、室長も最後には「よし、わかった」と、背中を押す返事をした。

 正史は目を閉じてあの罌粟を思い出していた。潮風に吹きさらされても咲くことをあきらめない、燃え立つような鬼罌粟の花。この町で生まれた自分にだってあの花の強さがあるはずだ。

 正史は背筋をのばして、ハンドルをにぎった


 夜になって、マンションへ母親から電話が掛かって来た。

「ハナって名前にしたわ、麻子さんとわたしで考えたのよ」

「ふーん、いいんじゃない。よろしくお願いします」

 正史は気が付かなかったが、子犬はメスだったらしい。企画書の大事なところへ赤ペンでしるしをつけながら、正史の声は明るかった。


―終わりー

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ハナ イジス @izis

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