#39 たそがれは遠く過ぎて

 黎明の中に轟き響き渡るのは、ナイトラスが変形しアイリスが駆るスポーツカーの唸りだけではなかった。

 銃声は轟き魔力が疾る。咆吼と嗚咽がともに響き渡り、剣戟と呪文が入り交じる。今やスクリアルワールド内のそこかしこで、捜査局とカノプスの組織との戦闘が勃発していたのだ。


 いかなる異世界でもない、いかなる能力も魔法も奇跡も介在しないこの地球、この日本で、今まさに――


――世界観が、狂っていた。


 時折、天を衝くような光線や火柱が遠くに巻き上がる。このまま放っておけば、遠からず戦域は園外まで拡大するだろう。アイリスは眉根を寄せながらアクセルを踏み込み、本来ならば車両の通行など許されない園内を暴走する。


「強行班から位置を貰った。カノプスは次を右のエリアだ!」


 車体のナイトラスに告げられたアドバイスに従って、アイリスは思いきりハンドルを切る。恐竜の足跡が彫刻された路面を後輪が滑り、耳に突き刺さるような摩擦音を上げて、ナイトラスの野太い悲鳴が追随した。


「あわわわ! もっと丁重に扱ってくれると嬉しい!」


「局に戻ったら直してもらえますからがんばってください!」


 抗議を却下しながら方向転換を済ませるや、容赦なくアクセルを踏み込む。漆黒の車体はふたたび爆発的に加速し、ヘッドライトが電話ボックスによく似たオブジェをこする。また上司の悲鳴が続いたが、アイリスは無視した。


 やがて、タイヤが地を踏む感触が硬いものに変わる。見れば周囲は中世ヨーロッパ風の建造物や店舗に囲まれて、道路もまた土色のそれから石畳へと変化している。そういった物語の世界観をベースにしたエリアということか。 


 ……少しだけ、懐かしいと思った。ここはアイリスが生まれ育ったグラスタリアによく似ている。観光で来ることができていたなら、きっと国を傷つけた罪悪感以外の何かを感じることもできただろう。

 思えば、最初に観行を拾ったあの世界に足を踏み入れたときもそうだった。同じような懐かしさに触れて、それから罪悪感と使命感が心に絡みついて締め上げられた。


「――アイリスくん、前、前を見たまえ!」


 ナイトラス側の操作で、車体前部のハイビームが点灯する。醒めたアイリスが目をやると、ヘッドライトに照らされた先では数人の黒いローブの者たちが並び立ち、何らかの詠唱を組み立てていた。


「地の支配者たる、"荒ぶる髑髏"の名の下に告ぐ――」


「大いなる翼と、金剛の牙備え。大地を掴み、怒りの火を呑む化身たる者よ――」


 おそらくは能力臓器のレシピエントなのか、皆一様に顔色が悪い。そして彼らが重ねる詠唱は、聞き取れた部分から察するに――


 巨大な異世界の爬虫類が召喚され、大地が揺れた。


「……ドラゴンの、召喚だと!」


 揺れる車体に急ブレーキをかけながら驚き叫ぶナイトラスの言葉通り、果たして彼らが召喚し、アイリスたちが目の前にしていたのは、異世界に多く見られる災害生物のひとつ――竜であった。

 同じ竜ではあっても、空を飛び回り人を喰う飛竜とは違う。アイリスが剣と身に宿す半神的なエネルギー存在とも酷似しているが、その本質はまったく異なる。

 街路を塞いでなお足らずに建造物を踏み砕く巨体も、大地を踏みしめ掴み砕く四肢も、空すら制する翼も。街や村をたやすく壊滅しうる災火を吐き散らす大木めいたくびも。彼らはその存在そのものが災害なのだ。


「地球に生息しない生物の召喚までやりおおせるか。つくづく腹が立つわね、チート・ビジネス!」


 アイリスは思わず舌打ちした。アンベルドルクと一体化した今のアイリスに言わせればこんなものは所詮竜の擬きでしかないが、それでもこの邪魔を退かすには相応の時間を要する。

 アイリスも、ナイトラスも。一刻も早くカノプスに肉薄し、捜査局の総力をもって奴の能力を消耗させなければならないというのに……!


「……ここは、私が行こう!」


 頼もしい上司の声が宣言するや、金属が軋む音が幾重にも重なって響き渡った。同時にナイトラスの車体は次々に構造を組み替えながら、人型へと変わっていく。

 アイリスが変形の勢いで座席を飛び出してから数瞬のち、頭上で巨大な人型戦闘機械が竜の首へと掴みかかった。

 ナイトラスは拳を固め、二度三度と竜の首を打ち据える。竜は悲鳴を轟かせながら苦し紛れに炎の塊を吐き出し、それがギフト店舗の一つに着弾し炎上した。


 アイリスはその炎を背に黒ローブの一人へ飛びかかり、着地と同時に殴り倒した。慌てて杖を向けてくるもう一人の腹を、怒りに握りしめた拳で打ち抉る。


 漆黒の巨人が力任せに竜の体を脇へ投げ飛ばすと同時、アイリスはさらに三人目に向けて剣を振りかぶり――そのとき、頭上で何かが閃いた。


 直感に従って身をかわすと、一秒前までアイリスがいたそこに、巨大な剣が落下し石畳を砕いた。光の糸で編み上げられた実体のない剣ではあるが、殺傷力と脅威度は鋼のそれと変わらない。

 風を切り裂く不穏な音が耳を撫でると同時、アイリスの頭上から新たな光の剣が襲来した。

アイリスは反射的にアンベルドルクを掲げて受け止め――そして、今まで竜の巨体が隠していた遠方にカノプスの姿を垣間見た。

 眼鏡をかけた無個性な男。けれどその男の周囲では尋常ならない戦闘が繰り広げられ、敵味方を問わない多くの者たちの血が流れている。それこそは奴がアイリスの倒すべき敵であるという何よりの証だった。


「――見つけたぞ!」


 しかしアイリスが仇敵を見定める以前から、カノプスはアイリスを狙っていた。カノプスは鍵盤を弾くような動作で新たな魔方陣を描き出し、それらは躍るような動きでアイリスを左右から挟み込む。

 アイリスは頭上の光剣を受け止めたまま、禍々しき凄竜剣に裂帛の気合いと、竜の息吹を込めた。


「赤き怒りの息吹よ……!」


 たちまち刀身が赤熱し、受け止めていた光の剣を強制的に焼き尽くし霧散せしめる。さらにアイリスは剣先を力任せに振り抜き、左右を挟み込んでいた魔方陣をも焼滅させる。


「なるほど。それが守護竜の力か。この目で見ることがかなうとは……!」


 謳うように呟くカノプスの手の先に、またも巨大な剣が形成された。紙切れを薙ぐような動作で真っ向から襲い来るそれをアイリスはすんでのところで受け止めるが、さらにまた、左右上下に複数の魔方陣が展開される。

 アイリスの舌打ちと同時に、幾つもの光弾が放たれ、毒々しい色彩の汚泥が吐き出され、死霊がひねり出された。

 アイリスは足元から湧き上がるそれらの幾つかをまず回避しながら、


「ッ――――翠の優しき息吹よ!」


 念じ叫び、剣に満ちていたエネルギーを周囲に解放した。見るものすべてを慈しむような深緑の光の渦が巻き起こり、アイリスに襲い来る攻撃のすべてを弱め、時には無効化し、速度を鈍化させていく。

 事なきを得たアイリスではあるが、この緊急回避は否応なく彼女の体力を奪い去った。思わず呼吸を荒げて息をつくと同時に、最後の魔方陣が足元で妖しく光った。

 足元から這い出た巨大な手がアイリスを襲った。息を呑み、すんでのところで身をかわす――と同時に、その手はアイリスの唯一の得物をもぎ取った。


 凄竜剣、アンベルドルクを。


 主の手を離れた剣はすぐさま不埒な簒奪者を焼き尽くすけれど、断末魔とともに投げ放たれた刀身は宙を舞い、崩壊した建造物の瓦礫の中に突き刺さった。


「な、ッ――」


 むろん、竜に選ばれし姫であるアイリスには剣を呼び戻すこともできた。けれどそれは、気力体力の充実があってこそ為し得る業である。

 徹夜と連戦の疲労が積み重なったアイリスがいくら心でその名を呼ぼうとも、突き刺さったアンベルドルクが答えることはない。アンベルドルクは禍々しい刀身を軋ませ歪ませながら、徐々に元の精悍な剣の姿を取り戻していく。同時にアイリスの体からもまた、竜の力が抜け落ちる。

 往時の赤に戻っていた髪は白く退色し、かりそめの長髪と竜の鎧はそれを形作っていた力が失われたことで霧散する。そこに残されたのはただ、竜の力を用い続けて髪の色も名前も失った罪人の少女だけだ。


 その罪人の目の前に、憎むべき仇敵が立った。


「……いやはや。まさしく君は、本物の勇者だ」


 見上げるまでもない。勝利を確信したとでも言いたげな傲慢な声の主は明らかだ。


「カノプスッ……!」


 見上げた先に展開する魔方陣から、アイリスは自分が辿る数秒後の運命を思い浮かべ、破り捨てた。アルティアは、アイリスはこの男を捕まえると誓ったのだ。捜査局の存在を知り、国を蝕んだ病の正体を知ったあの日。自分を偽り捨て去ってでも、必ず捕まえてみせると。


「私は君が欲しい。君が生きる物語が」


 カノプスは妙に熱を帯びた口調で言った。アイリスの、アルティアが生きる物語。そんな大層なものが本当にあるのだろうか。


「正確には竜の恩恵を受けたのであろう、その能力臓器だが……それがあれば、私は。いや、私でなくてもいい――転生を求めるすべての者が、君と同じような勇者になれる」


 その醜悪極まる未来図にぞっとするよりも、アイリスは自分の物語について思いを巡らせた。アイゼンブライドと呼ばれるゲーム。ネットで検索すれば駄作だクソゲーだと言い捨てられていて、その評価はある意味でアイリスが辿った結末にふさわしい。


 ……いや。きっと、その結果だけがすべてではない。懸命に生きたあの日々もまた、同じアイリスの物語なのだ。滅びて、けれど立ち上がった国。愚かにも信じ抜いて、きっと実現させると誓った理想。未だ懐かしく思い出せるそれらもまた、等しくアイリスの物語であるはずだ。

 だけど、その物語はもうここにはない。あるとすれば残滓だけだ。アルティアが絶望したあとに残された、アイリスという灰色の抜け殻だけだ。


 ――それでも。それでも、もしも。アルティアをアルティアたらしめていたものが、物語が、大切な何かが、今もどこかにあるとするのなら。


 ――それはきっと、あの炎の中でつたなく叫んだ少年の胸にこそ。


 思わず、吹きだしてしまう。あまりの嬉しさにか、浮かんでくる顔の間抜けさにか、あるいは目の前のこの男にとっておきの皮肉をぶつけてやれる痛快さにか。


「残念だけど。わたしの物語はあげられない。もう、あいつに託しちゃったもの」


 不思議なことに、勇気が湧いた。目の前には圧倒的な力を持つ仇敵がいて、今この身にはなんの力も武器も帯びていないというのに。

 カノプスにはわからないのだろう。眉根を寄せ、つまらない冗談だとでも言いたげに嗤う。


「君の能力臓器はここに――」


「でしょうね。


 託したものが。伝えられたことが。ささやかでも、それを信じられることが。それらがどれほど価値あることなのか、捨てたあとになってやっとわかった。

 だから精一杯強がってみたけれど、実のところもう手は残されていなかった。周囲の仲間たちは未だ雑兵の相手に手一杯で、ナイトラスもドラゴンを相手に奮戦しているばかりだ。


 観行のことを思い出す。思えばあいつは最初から最後までバカだった。都合のいい異世界転生なんてものを夢見るくせに、心の底ではずっと大切なものを信じていた。見失ってしまったわたし以上に。そのために立ち上がって、精一杯に叫んで、最後にはあんなバカを見た。

 ああ、できるなら。もう少しだけ、話してみたかった。あなたが大切に思うことを、わたしがいつか信じていたことを。できることなら、今度はぶつかったりなんかせずに。


「……この少女。されますか?」


「もちろんだよ。グラスタリア人の検体は山ほど手がけてきた。施術は楽なものになるだろう」


 えげつない言葉を交わしながら、嫌な女が迫ってきた。カノプスに隷属し続ける者、首領に媚びを売るような服装の女、ユィリィ=アズエルが。カノプスと頷き合うその手の先に紫の光の粒が凝集し、長大な槍斧が形作られる。あれがアイリスのギロチン代わりか。


「アイリスくん!」


 どこか遠くでナイトラスが叫んだ。火器が展開し、幾つもの誘導弾が煙を吹いてこちらへ降り注ぐ。けれど光の障壁がことごとくその行く手をふさぎ、救いの手はあっけなく爆散する。


「無粋なことをするもんじゃない」


 傲慢に言い放ったカノプスに、振り上げられた斧の刃にいよいよアイリスが末期を覚悟したそのとき――カノプスの動きがぴたりと止まった。牽制に向けられていた魔方陣もまた、集中を欠いたせいなのかくしゃりと潰れて消える。


 カノプスはただ見ていた。驚愕の表情で、口をあんぐりと開け放ちながら。

 アンベルドルクが突き立った瓦礫の山の頂上、周囲を取り囲む血戦の何にも怖じることなく、その両足でしかと立つ少年を。

 捜査局の黒いジャケットの裾を戦場の風にはためかせ、たったひとりで雄々しく立つ少年を。


 アイリスが見届けてきた、一連の物語の主人公を。



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