#21 きずあと

 多少の予定外はあれど、なんだかんだで俺たちはまあまあのスタートを切った。

 デモンズチェインにも登場した地下水路跡を利用したらしい石造りの通路を、俺とアイリスは注意深く進んでいく。心がけるのは忍ぶでも存在を主張するでもない、ごくごく自然な歩調だ。

 ローンニウェルではアイリスが先導を務めていたし、俺自身も誰かについて歩く方が気が楽なのだが、今回は俺がアイリスを従えるかたちになる。理由は単純で、


「組織のボスが売り物について歩いてるわけがないでしょ。一発でバレるわよ」


 と、いうことである。

 それはそれで納得もできるんだけど、アイリスときたら構成員の皆さんにすれ違うたびにいちいち背後ですすり泣くマネをしやがるものだから、俺としてはそのたびにいたたまれない気分になる。


「……なんかさ。そういうことされるとイヤなんだよな。自分が悪い奴になっちゃったみたいでさ……」


 声をひそめて苦言を呈する。地下だけあって薄暗いけれど、蛍石――この世界に特有の物質で、大気中の魔力を吸収し発光する性質がある――による照明も配されているから、内緒話のさなかに突然誰かに出くわすということはまずないだろう。


「実際、今のあなたは悪い奴でしょ?」


 そりゃ、アイリスが皮肉にくすっと笑いながら言ってくるその通りなんだけど。

 それでも、たとえカノプスを演じる真っ最中でも、俺の心は俺そのものだ。根っから善人ってわけでもないが、女の子がすすり泣いてるのはどうも気に入らない。

 そのあたりをどうにか言い聞かせようとしていると、またも背後からすすり泣きが始まって、俺は慌てて前に向き直った。

 見ると、またもや新たな悪党が反対側から歩いてきていた。こいつもまた他と示し合わせたように黒いローブを羽織って、中には軍隊みたいな黒い行動服を着込んでいる。ファイアランスの世界で俺を追い回していた連中といい、ユニフォームみたいなもんなのかもしれない。

 その男は俺の姿を認めるや否やびしっと直立不動になり、


「お疲れ様です、カノプス!」


 震えた声でそう言って頭を下げてくるものだから、俺は面食らった。お手本のような純日本人的挨拶である。まさかとは思うけど、こいつも現代日本からの転生者か何かだったりして。

 訝りながら観察してみる。やたらと線が細くてオドオドしているせいか、どうにも悪人らしく見えない。

 付け加えるならば、こいつは実にアイリスとよく似た背格好をしている。これまで見てきた奴らに比べると明らかに背丈が低い。カノプスの部下にしてはどうにも頼りない外見だが、ひょっとすると肉体よりも頭脳労働が得意だとか、複雑な魔法の担当だとか、そういうタイプの構成員なのかもしれない。


「……あの。私が、何か……?」


 繰り返すが、俺の視線に不安を覚えたらしいそいつは実にアイリスとよく似た背格好をしていた。うん、ちょうど同じくらいだ。背丈はもちろん、服のサイズも。


 ふと、俺の頭にあるアイデアが浮かんだ。アイリスにどう伝えたものかと思案していると、彼女の方から俺の肩をぽんぽんと叩いて振り向かせ、何か言いたげな視線をこっちに寄せてきた。


「アイリスさん」


「ええ」


「たぶん、同じこと考えてるよな」


「ええ」


 言って、アイリスは俺の演技なんて比べものにならないくらいの悪い顔をした。




 そういうわけでゴッ、となってギュッ、として、哀れな彼はたちまちアイリスに昏倒させられて服を奪われた。ちょうど近くには地球から持ってきたとおぼしきロッカーが置かれていたので、俺はパンツ一丁の気の毒な男をその中に押し込む。

 具体的にアイリスが彼に何をしたのかは、どうか詳細な描写をご勘弁願いたい。あまりに恐ろしすぎて、とてもじゃないが俺の口からは説明できそうにない。


「……ほんと、ものすごく悪い奴になった気分だよ」


 ロッカーをバタンと閉めたところで思わずぼやいてしまう。気分どころか今のは完全に共犯なんだけど、まあ相手が相手だし、ノーカウントってことにしておこう。

 それじゃ行くか。アイリスもそろそろ着替え終わったころだろう、と振り返って――――俺は自分がとてつもないミスを犯したことに気づき、息を呑んだ。


 果たして俺の目の前にあったものが、下着だけを身につけたアイリスのしなやかな肢体だったから。

 ヒロインの着替えに遭遇するってのは、少年向けのお話だと鉄板のシチュエーションだ。主人公は決して望んでいないハプニングに不可抗力で遭遇して、ちょっとだけいい思いをする。

 あるあるだよな。俺自身、そういうシーンに憧れてなかったと言えば嘘になる。

 けれど。俺の異世界転生が最初からぶっ壊れていたように、降って沸いたようなこのサービスシーンもまた、お約束通りにはいかなかった。 

 確かに初めて見るアイリスの体は白くてきれいで、俺が思っていたよりもずっと女性らしくて、やわらかそうだった。


 だけど――それ以上に、傷だらけでもあったんだ。

 胸の真ん中に刻まれた、いびつな星形の傷痕。脇腹の刺し傷に今なお残る縫合痕。喉笛を狙った刃がかすめたとおぼしき首と肩の切り傷。挙げればきりがない。

 俺の視線はアイリスの体よりも、そんな痛々しい傷痕の数々に囚われていた。

 いつか、彼女は俺に言った。自分は残酷で退屈な世界の住人だと。だったらアイリスは、俺と同じあの世界でどんなに壮絶な人生を歩んできたというのだろう。


「わたしの傷がそんなに珍しい?」


 呆然としていた俺は、その一言にはっと我に返る。アイリスはそれほど気にしていないようで、服で肌を隠しながらもあくまでクールに俺を睨んでいた。


「いや。珍しいとか、そんなんじゃなくて……」


 対する俺はといえば、取り乱した。親しくない異性に裸を見られてうれしい人間なんてそうはいない。傷痕とくればなおのことだ。

 慌てて背中を向けてから、思い出したように顔が熱くなる。


「ごめん、見るつもりはなかったんだ。もう着替えてるもんだと思ってて!」


 あり合わせの謝罪と言い訳を重ねてみたけれど、背後から返ってきたのは気まずい沈黙と衣擦れの音だけだった。

 それからしばらく無心で壁だけを見ていると、ふいにとんとんと肩を叩かれる。おずおずと振り向くと、そこには今度こそ奴らと同じ黒いローブの格好に着替えたアイリスがいた。


「……謝るようなことじゃないわ。傷なんて、誰にだってあるもの」


 もう気にするな、ということか。

 確かにアイリスの言うとおりだ。大小の差こそあれ、生きている限りは傷くらい誰もが負うものだ。傷のない人間なんていない。

 しかし、だからって。誰かの傷を痛ましく思わずにいられるだろうか。人の傷をなんとも思わずにいてもいいのだろうか。


 少なくとも、俺はそこまで強くもクールにもなれそうにはなかった。

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