#13 裏道にて

 密林の中に開かれた申し訳程度の小径をジープで進み、ガタガタと揺られること数十分。それまで視界を覆っていた森が急に開けたかと思うと、快晴の空と古い城壁に囲まれた街が徐々に見えてきた。

 苔むした壁にはなんとなく見覚えがあるような気もしたが、ローンニウェルというこの街の名前は初耳だった。アイリス曰く、現地の言葉では『霧の砦』という意味になるとかなんとか。

 霧が立ちこめる砦の街か。異世界犯罪者の根城があるということも手伝ってか、いかにもファンタジックな響きに聞こえてくる。その名を耳にしただけで、中世ヨーロッパ的なファンタジーの風景が思い浮かぶくらいに。

 そう、たとえば――


 夜の街路。月光さえも遮るほどに濃密に立ちこめた霧の中を、怪しげな魔術師がひたひたと歩く。石畳の街路を歩くその足がふいに止まり、背後の闇が妖しく揺らぐ。

 その闇からは次々にこの世ならぬ者が這い出して来る。骸骨、半透明な妖魔、けたたましく嗤う妖精……魔術師は煌めく杖を差し向け、叫ぶとともに杖は眩い光を放ち、怪物どもの断末魔が――


 などと、勝手な妄想をたぎらせていたのだが。


「――おらおら退け退け! 魚が悪くなっちまうだろ!」


 街に一歩足を踏み入れるや、熊を連想させる体格のおっさんが木箱の積まれた荷車を引きながら突進してきて、俺は危うく轢き殺されそうになった。すんでのところでアイリスが引っ張ってくれたので、命に別状はなかったが。

 蒸し暑い空気の中、堅い赤土の街路に尻餅をついて呆然とする俺の前を、さらに同じようなテンションの住民が何人も通過していく。おっさんと同じように、誰も彼もが殺人的な勢いで酒瓶やら果物やらを積んだ荷車を引きながら。

 これはいったいなんの騒ぎなんだ。困惑しながら周囲を見回すけれど、この状況に違和感を覚えているのは俺だけだった。周囲を歩く街の人々はこれが当たり前といった風情で、巧みにおっさんなりおばちゃんなりの暴走をかわしていく。


 もしかして、これがローンニウェルの日常風景なんだろうか。

 ……だとしたら、ずいぶんとファンキーな街である。


 蒸した空気と喧噪の中を行き交う人々は、地球でいう白人だったり黒人だったりアジア系だったり、またはそのうちのどれとも異なる容貌だったりする。服装もまたしかりで、ラテン風だったり西部劇みたいなズボンとシャツだったりで、統一感がまるでない。まるでアメリカの大都会だ。

 目を白黒させながら、アイリスの背中と人の流れに従ってメインストリートに分け入っていく。すると、その景色を目にするよりも先に大音声が俺の耳を打った。何事かと思いながら目を向けると、広々としたメインストリートに広がる大規模な市場が目に飛び込んできた。

 立ち並ぶ屋台の店先には山盛りになった果物だとか吊り下げられた乾物や香辛料だとかが山と叩き売られていて、店主たちはみな声を張り上げては通りかかる人々を呼び込んで、自分の商品がいかに高品質かつ低価格かをアピールしている。

 何と言えばいいのやら。騒がしくて、熱気があって、多彩で……

 なんか、俺の中の異世界のイメージと、違う。




 俺たちは盛り場を外れ、比較的静かな裏通りで時間を潰していた。どうやら現地の協力者との合流地点がここらしい。

 待つ以外には特にやることもなかったので、俺はかねてより思っていたことをふと呟いた。


「霧の砦って言うから、いかにもダークでファンタジーなところだと思ってた」


 そう。正直、ローンニウェルの街並みは俺が思い描いていたものとは何もかもが真逆だった。異世界と言うんだから、てっきりもっと静かで上品な西欧風の街だとばかり思っていたんだ。


「不思議なことに、異世界って聞くと誰もが中世ヨーロッパ風の街や村を連想するのよね」


 つまらなさそうに言うアイリスに言われてみれば、まさしくそのとおりだった。異世界と称するからには互いに異なる文化や風土があって当たり前だ。なのに俺たちは、妙に中世ヨーロッパ的なファンタジーを思い浮かべたがる。

 たぶん世の中に溢れる王道ファンタジーの原型がそういう世界を舞台にした海外小説とか草分け的RPGに端を発することとか、そういう色々があるんだろうな。


「そういうのもあるんだけどさ。カノプスの拠点とかなんとか言われてたから、こんなに平和で活気があるところだとは思わなかったんだ」


 犯罪組織の拠点というからには、もっと陰鬱な雰囲気だったり、住民が全員ヒャッハーなモヒカンだったりするのかとも思っていた。けれどローンニウェルには今のところそんな様子はなく、ただただ平和な市場という印象だ。ちょっとばかり元気が過ぎるような気もするが。


「何もかもが見た目通りで、悪い奴は悪い街にしかいない、か。そうだったらどれほど素敵でしょうね」 


 あさっての方向を見ながら冷たく笑むアイリスの意図を、俺は遅れて理解した。

 捜査局にとって不倶戴天の敵たるカノプスは、まさにこの俺のような奴を見繕っては、その『見た目』の中に己を隠して続けてきた犯罪者だ。カノプスがこんなややこしい手口を使うような奴でなければ、話はもっと簡単だっただろう。

 アイリスたちは普通に奴を追い詰めて、逮捕して、異世界は平和になって。そんなめでたしめでたしで済んでいたはずだ。俺が転生することもなければ、彼女たちと出遭うこともなかったはずだ。

 物事がそれだけシンプルだったら、どれだけよかったか。アイリスが言いたいのはきっとそういうことだ。

 

 ――それでも、協力してほしいの。今、自分の意志で奴らを止められる人間がこの捜査局にいるとすれば、それはあなただけだから。

 

 いつかのカフェテリアで、アイリスに言われた言葉が蘇る。あのときの彼女がどれだけ真剣だったのかも。

 カノプスを逮捕する。アイリスたちにとってのそれはきっと、俺が思っているよりもずっと重いものなんだろう。

 なのに俺はあのとき、それを撥ね付けてしまったんだよな。真剣に向き合うことすらせずに、自分の思いだけまくし立てて。

 ……いい加減、この後ろめたさとかアイリスのとげとげしさとか、そういうあれこれにまとめて決着をつけるべきだ。

 俺は裏通りの右左へ視線を巡らせた。もともと人気が少なかった道は相変わらず静かなままだ。協力者とやらはまだ来ていないようだし、無駄話をする余裕くらいはあるだろう。


「あのさ。謝っておくことがあるんだ」


 アンニュイに視線を伏していたアイリスは、俺が言うなり目を丸くした。そうだろうな。我ながらいきなりすぎる。けれど今このタイミングを逃せば、きっとまたズルズルと謝れないままになってしまう。


「ごめん。ちょっと前、俺はその……君の頼みを、ちゃんと真剣に聞かなかった。自分の思うことだけ爆発させてさ。ただ聞くことすらしなかったんだ。君たちにとって、カノプスの逮捕がどれだけ大切かもわからないでいた」


 俺は思いつく限りの過ちを並べ、頭を下げてそれらを詫びた。

「だから、ごめん」

 しばらくの沈黙に耐えきれなくなって顔を上げてみると、そこではアイリスがとても複雑な顔をしていた。


「……どうして、あなたが謝るの」


「取り越し苦労ならいいんだけど。なんか、ちょっと嫌われ気味な気がしてさ。いや、だからってわけでもないけど、ちゃんと謝っておかないといけないかなと……」


 眉根ははっきりと寄っていて、口は真一文字に結ばれ、その瞳はまっすぐに俺を見据えている。怒っているようでもあり、悩んでいるようでもある。

 もしや謝り方を間違えたか。どうしようかと戸惑っていると、アイリスはうむむむと唸りながら銀髪をわしわしとかき回した。元々長毛種の猫みたいだった髪がさらにボサボサになる。

 アイリスはそれから観念したように嘆息して、


「……言っておいたほうがフェアだと思うから、言うわね。わたしは正直、あなたたち転生者が好きじゃない。態度がおかしいように見えたのは、きっとこっちの偏見のせいよ」


 どうして、とは訊き返さなかった。なんとなくだが、理由には見当はつく。


「他の世界に生まれ変わって、能力や才能を得て人生をやり直す――わたしにはそれがあまりにも、都合のよすぎる幻想に思えてならないから」


「……そうだよな。そうかもしれない」


 俺は自分でも驚くほどあっさりと同意していた。アイリスの、俺自身の願いを真っ向から否定するはずの言葉に。

 言われてみれば、その主張はとても当たり前のことなのかもしれない。俺だって異世界転生物語を読んだり聞いたりするたびに思ったものだ。こんなにうまくいくはずがないと。現実の人生はこんなふうに報われてばかりじゃないと。


「訊いてもいい?」


 穏やかな声音で問うてくるアイリスに、俺が驚きつつ頷くと、


「仮にレプリカ作戦が成功して、あなたが別の異世界に生まれ変われたとして……あなたはそこで、どんな人生を送るつもりなの?」


 アイリスが投げかけてきたのは、これまで俺が想像もしていなかったことへの問いだった。俺は確かに理想の異世界転生を望んでこそいるけれど……正直、具体的な中身についてはまったく考えていなかったから。

 答えられないまま、しばし間が空く。俺はなんとかおぼろげな理想の異世界転生のイメージを、拙い語彙で言葉に換えた。


「いや。それは……なんでもいいんだ。できれば人並み外れたすごい力とかがあって、生きてくのに困らなくて……それで、幸せになれたらって……」


 本当に、そうだろうか?

 自分の思いを間違いなく表したはずの言葉が、やけに虚しく自分の影に落ちる。思ってもいない、間に合わせの言い訳を口にしたみたいに。


 アイリスは淡く笑って、


「チートで、ハーレム、とか?」


 ……その使い古しでテンプレな言い方はものすごく俗っぽくて、異世界転生を望む者としてはいささか軽蔑されているような気さえしてくる。

 だけど、アイリスの選んだ言葉は的を射ていた。


「まあ、それだったら。きっと言うことなしに幸せだろうと思うよ」


 否定しても仕方がない。俺の情けない望みは、きっとその程度の言葉で言い表せてしまう程度のものだ。

 それでも、埋め合わせとしては充分だ。後悔ばかりの今までと、どうにもならなくなった未来の埋め合わせには。 


「だけど――どんな世界にだって、そこで懸命に暮らしている人はいるわ。幸せもあれば不幸もある。善人がいれば悪人もいる。それはあなたが途中で降りることになった人生と変わらない」


 虚空を見つめながら淡々と語るアイリスの姿に、いつかの彼女の言葉が蘇る。


 ――あいにく、わたしは胸躍るファンタジーのヒロインなんかじゃないわ。あなたと同じ、この退屈で残酷な世界の住人よ。


 この退屈で残酷な世界、か。

 あのときの俺はただ、その言葉が地球を指したものだとばかり思っていた。戦争や犯罪や差別や格差ばかりが現実の、退屈で残酷な俺たちの世界を。

 だけど違ったのかもしれない。アイリスが言う退屈で残酷な世界はどこまでも続いていて、異世界に転生したってそれは変わらないという意味だったのかもしれない。異世界には俺たちが想像するようなロマンも幻想も何もないという。

 いや。それは違う。違うはずだ。俺の中の何かが叫ぶ。だけどアイリスは追い打ちをかけるように語り続けた。彼女にとっての真実を。


「チートだなんだともてはやされている特殊能力の付加だって、結局は世界主たちが自らに都合のいい人間を選び出して行っているだけの利己的なものにすぎない」


 ……そういうカラクリだったのか。失望する一方で、その種明かしに納得する俺がいた。ウロギリさんも言っていたんだ。異世界転生証人保護は、世界主とかいう凄そうな連中との連携によって構築されたものだと。

 言われてみれば当然だ。一点もののチート能力がそう簡単に誰にでも与えられていいわけがない。どこかでプラスマイナスの計算が合うようになっているはずなんだ。異世界転生は都合のいい夢想じゃなく、現実のものとして存在するんだから。


「異世界は――転生者あなたたちの望みを、都合よく叶えるようにはできていない」

 アイリスが語るその言葉は、必ずしも俺を否定するためのものではないのだと思う。これはただ、彼女が抱えている思いの静かな告白だ。俺が捜査局で二度やらかした爆発と同じような。


「それでも、転生やチートやハーレムという幻想を叶えたいと望むのなら。その究極は、きっと――」


 アイリスは拳を堅く握りしめた。それは彼女が言うところの幻想を望む者への、断固たる思いの現れなのか。


 そしてまた、気まずい沈黙があった。

 俺は何も言えなかった。アイリスが語ったのは否定のしようがない正論だから。

 わかってる。俺の望みはしょせん都合のいい幻想だ。レプリカ作戦が成功したからって、何もかもがハッピーになるとは限らない。

 本当はアイリスが正しいのだ。彼女みたいに、残酷で退屈な世界から逃げることなく生きている者が。正しい道を歩いていける者が。

 それでも、俺は言わずにはいられなかった。最後に残ったみじめな希望さえ否定されてしまったら、かつて遠野観行だった魂には何もなくなってしまうから。


「……今の人生を棄てて、生まれ変わりたいと望むことって、そんなに悪いことな

のかな?」


 俺は震える声でつぶやいた。自分でもどこかおかしいとわかっているはずの、みっともなく情けない言い分を。


「取り返しのつかない間違いを犯して、どうしようもなくなることなんて、きっと誰にでもあるんじゃないか。それを全部投げ出してやり直したいって願うことも、アイリスさんは許せないかな」


 俺はなけなしの勇気を振り絞ってアイリスの青い目を見た。アイリスは戸惑いを浮かべながら俺を見返した。


「それが夢とか幻じゃなく、現実として絶対に叶うなんて言われたら、きっと首を横に振れなくなるヤツは幾らでもいるよ」


 アイリスのように、正しくて格好よくて強い者にはわからないかもしれない。だけど俺みたいな小さくて格好悪くて弱いヤツには、これもまた譲れない真実なんだ。


「少なくとも、俺は……!」


 もう遠野観行でいたくないと、もうたくさんだと思ってた。いつも頭の中は失敗や後悔ばかりで、もうどうにもならないと思ってた。自分には何もできないし、自分なんて何者でもないと。


「……それでもね」 


 嗚咽じみて吐き散らす俺の耳に、アイリスの消え入りそうな声が届いた。見れば彼女は何かを訴えるような真剣な眼差しで俺を見据え、その青い瞳を潤ませている。


「それでも……」


 その言葉の先を聞き届ける前に、視界の隅でガタンと何かを蹴倒したような音がした。

 アイリスはいち早く弾かれたようそちらへ目を向けて、俺もやや遅れて同じものを見る。

 男がいた。

 眩しい金髪を肩まで垂らした長身痩躯。ぼろぼろのコートと幽霊みたいにこけた頬は、ロックスターとかギタリストとかいった言葉を思い起こさせる。そんな陰のある容貌の男が、驚愕の表情で俺たちを見ていた。

 男はなにか絶対に勝てない負けイベントのボスでも見るような目でアイリスを見て、そして俺を見た。驚愕の表情が困惑のそれに変わる。男はまたアイリスへと視線を戻して、表情にもとの戦慄が戻る。


「――待ってたわ。レオナルド」


そして男は脱兎のごとく逃げ出した。

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