マーガレットとハイドレンジア
名取
少女たちと私
「ニーチェを引用する小説家の話は大概つまらない」。
初診の日、彼女が最初に言ったのはそれだった。なぜかと聞いてみると、「ニーチェを引用するような作家は、自分の文章に責任を持つつもりのないクソ野郎だから」と彼女は言った。カルテに書かれた彼女の名前は佐伯裕美子だったが、私が苗字か名前のどちらかで呼ぶと、彼女は激怒した。怒り狂いながらこう言った。
「私の名前はハイドレンジア。それ以外の何者でもない」
「ショーペンハウアーを引用する小説家の話は信用できる」。
次の日、今回が初診だった女の子が言った。またなぜかと尋ねると、「ショーペンハウアーを引用する作家はおしなべて親切ですから」と彼女は言った。カルテに書かれた彼女の名前は吉田沙都子だったが、私が苗字か名前のどちらかで呼ぶと、彼女は困ったように微笑んだ。口元におしとやかな笑みをたたえてこう言った。
「私の名前はマーガレット。それ以外の何者でもありません」
最初にカルテをよく読んでおくべきだったと気づいたのは、そのまた次の日のことだった。マーガレットとハイドレンジア……もとい佐伯由美子と吉田沙都子は、十年来の大親友であり、私に名乗った名前はインターネット上のハンドルネームだと、カルテにはちゃんと記載されていた。私は診療室の自分の椅子で、大きく伸びをし、目をこすった。仕事ばかりの日々で、少し緊張感を欠いていたのかもしれない。休息が必要だと、心身ともに悲鳴をあげているのがわかった。でもどうやって?
私は再びカルテに向き直った。なぜ彼女たちがこの精神科に回されてきたのか、それはだいたいわかっていた。「未成年の彼女らは精神に色々と問題を抱えている」と、学校の担任からの情報が入っていたからだ。私の専門は思春期の少年少女に対するセラピーとカウンセリングなので、そういう事例は珍しくもない。だがカルテをめくってみると、この二輪の花はその中でも飛び抜けて悲惨であり、そして感嘆するほどに美しい経歴を持っているのがわかった。
マーガレットとハイドレンジアは共に母子家庭で、幼い頃からとても仲が良かった。彼女らはあまり治安のよくない片田舎に住んでおり、中学二年生のある日、マーガレットがクラスメイトの男子たちに暴行を受けた。マーガレットはそれきり不登校になった。やがて、暴行を働いた者たちも揃って不登校になった。ハイドレンジアが彼らのスマホにハッキングをし、インターネット中の目立つ場所に、彼らの知られたくない秘密をばら撒いたのが原因だった。自尊心を激しく傷つけられた男たちは、ある者は引きこもりになり、ある者は発狂して精神病院に入院し、ある者は過保護で金持ちの親に助けを求め、弁護士を雇い、ハイドレンジアを激しく非難した。自分のやったことを棚に上げての、誰が見ても最低の行為だった。
マーガレットが学校に戻ったのはちょうどその頃だった。
彼女は登校するなり、教室にいたその馬鹿男の前に出て行くと、制服をはだけて自分の胸元をあらわにした。そして大声でこう言った。
「あなたが鷲掴みにしてニヤニヤと笑っていたのは、この胸よね。あなたがその薄汚い手で私に触って、ゲラゲラと豚みたいに笑っていたのよね。ねえ、あなたがしたのよね。他の誰でもない。あなたが!」
馬鹿男はうわああああと叫んで教室の窓から飛び降りたという。
マーガレットとハイドレンジアはそれから無事学校を卒業したが、カルテによれば高校にはあまり馴染めていない。なんでも、下心を持って寄ってくる者は全て返り討ちにしているらしい。それが生徒でも教師でも、あるいは女でも、お構いなしだ。過去にあんなことがあったので、彼女らの親は娘たちの全てを受け入れているというが、学校の教師たちはそうはいかなかったらしい。ガラスのように脆く、そしてエベレストのごとくプライドの高い他の生徒たちの手前、彼女たちの方を異常だとし、療法士を次々変えては様々なカウンセリングを受けさせている。
私はカルテを閉じると、コーヒーを淹れて飲んだ。彼女たちはどこも異常ではなかった。異常なのは明らかに、彼女たちを取り囲む世界のほうだ。しかし私は、まだ彼女たちを追い返すわけにはいかない。
仕事を終えて家に帰ると、妻が待っていた。妻は優しい微笑みとともに「おかえりなさい」と言い、私のコートを受け取ってハンガーにかける。私は妻の作った暖かい料理を食べ、同じ寝室で眠る。
「あなた、苦労してるね」
次の週の診察で、ハイドレンジアが言った。まるで同級生を相手にしているかのような、気安い口調だった。
「娘さん、亡くしたんだって?」
どうして知っているのかと尋ねると、「調べたの」と自らのスマホを取り出して見せてきた。保護カバーもかけないむき出しの状態のそれは、表面に小さい傷がいくつもついている。
「公園で遊んでいる最中に、川に落ちたらしいね。まだ三歳だったのに。しかもあんたはその時、仕事で遠く離れた街にいた。つらいね。それとも、もう慣れてた?」
私は静かに首を振り、精神科医に対して脅しをかけても無駄だ、という趣旨の話をした。ハイドレンジアは渋々頷き、その日は帰った。
「私、お葬式って出たことがなくて」
その次の日に来たマーガレットは、開口一番そう言って、うっとりと微笑みを浮かべた。
「喪服って素敵よね。着たことはまだないのだけど、どこまでも真っ黒で、まるで全てを優しく包みこんでくれる夜の闇みたい。ねえ、先生はお葬式に出たことがあって?」
私は頷き、娘の葬式のことを軽く話した。親戚がたくさん集まり、皆で死を悼み、私はすすり泣く妻をずっと抱き締めていた、と言うと、マーガレットは「素敵」と頬をほころばせた。
「娘さんは気の毒だったけれど、そんなに愛せる妻がいるのなら、きっと先生に乗り越えられない悲しみなんてないわ」
私はカルテに適当に数行記入して、彼女を帰した。それから帰宅すると、迎えに出た妻を抱き締めた。妻は驚いていたが、すぐに私の背に腕を回し、「おかえりなさい」と耳元に囁いた。私はその晩妻を抱いた。真夜中過ぎに彼女が深い眠りに就くと、私はベッドを抜け出し、一本の電話を掛けた。
「ありがとう」
翌週の最後のセラピーで、ハイドレンジアはさしてありがたそうでもない顔で言った。
「私たちに問題がないって診断を下してくれたのは、先生が初めてだからさ。これで学校のいくじなしの奴らも、少しは静かになってくれれば良いんだけど」
それはどうだかわからない、と正直に言うと、彼女は「いいって。これは私の希望的観測なんだから」と、わかるようなわからないようなことを言い、ひらひらと手を振って診察室を出て行った。
マーガレットの最後のセラピーの日、私はありがとうと彼女に言った。マーガレットはその名の通り、純粋無垢な笑みを浮かべた。
「こちらこそお礼をいわなくちゃいけないわ。とても楽しかった。大人の女の人と話すことなんて、最近は全然なかったから」
彼女は軽やかに尋ねた。
「先生には、初めから全てわかっていたの?」
私は頷いた。彼女はさして動揺もせず「そう」と微笑むと、自分の鞄から紙袋を取り出してこちらに手渡した。開けてみると、それは装丁の煌びやかな古い本だった。
その午後、私が帰宅すると、近所がかすかにざわついていた。自宅の敷地に足を踏み入れると、妻だった女が髪を振り乱して叫んでいた。裸足で庭を駆け回り、かと思うと、家の壁にしきりに頭をぶつけている。私が帰ってきたのに気付くと、野ウサギのごとく駆け寄ってきて、血走った目を私に向けた。
「突き落とした。突き落としたのよ。私があの子を川に突き落とした……」
私は冷静に携帯をとりだし、警察と救急に電話をした。女性が暴れてこちらを攻撃してこようとしていますと告げて、しばらくすると、彼女は検査と治療のために病院へと連れていかれた。駆けつけた救急隊の中にたまたま知り合いがいて、彼は私を見つけると、励ましの言葉をかけてくれた。
「先生、どうか気を落とさないで。前の奥さんを病気で亡くして、そのうえ次の奥さんがこんなことになるなんて……大丈夫、きっと回復されますよ」
私は頷き、妻の入院の準備をするからと言って、家に入った。彼はああ言っていたが、おそらく妻が回復することなどない。人は他人の叱責から逃れられても、自分の犯した罪からは絶対に逃れられない。
キッチンに行って、湯を沸かし、アールグレイの紅茶をつくる。前妻が好きだった茶葉で、私もこれが好きだった。窓辺のテーブルにポットとティーカップを持って行き、先程マーガレットに貰った本を取り出すと、ロッキングチェアに腰掛ける。
死という至極単純な事象に比べれば、生きることなど何でもありだ。動物も人間も変わらない。仲間を飢えさせないようシマウマを追いかけるライオン。毎朝早起きをして魚を獲る漁師。保険金のためなら、義理の娘を事故死に見せかけて殺す継母。私にはわかっていた。物的証拠こそなかったが、娘の葬式での妻の悲しみは明らかに偽りだった。他の親戚の目はごまかせても、精神科医である私の目はごまかせない。妻の犯した罪の中で特に許せないものがあるとするなら、それは私を完全に騙しきれなかったことだ。もし完璧に騙してくれていたなら、どれだけ救われたことだろう。私は生きる意味を失った。かといって、死ぬこともできなかった。私は、生と死のどちらにも寄り添うことができなかった。
その一方で、彼女たちは完璧に死の虜だった。この世のありとあらゆる形態の死に魅入られている。社会的な死、精神的な死、そして肉体的な死。彼女たちは互いを愛するのと同じように、それらを愛している。だから私の取引にも応じてくれた。ハッカーに、自分が間男に娘の金をつぎ込んでいたことが知られ、容赦のない言葉で精神的に追い詰められた結果、妻はあの姿となった。あの恐ろしくも美しい二輪の花は、きっともう死しか要らない。だから素材を提供した。それだけのことだった。
私は手元の美しい本を開いた。冒頭にニーチェではなく、ショーペンハウアーの引用をした親切な作家は、私を小説の世界へ誘ってくれるだろうか。娘の死以来、ずっとどこにも逃げられなかった私の意識は、ほんの少しでも自由になりたいと叫んでいる。
目次を開いた時、何かが膝の上に落ちた。手作りの栞だった。ラミネートされた栞には二つの可憐な押し花が入っていて、その上の部分には、青いインクで感謝の言葉が綴られている。私は栞に口付けると、そっと本に戻した。かすかに花の香りが漂ったが、それもすぐに消え去った。
マーガレットとハイドレンジア 名取 @sweepblack3
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