ストッキング撲滅

阿部 梅吉

ストッキング撲滅

 ストッキングが撲滅されたのは、2019年の春のことだった。


 第二次安部政権、アベノミクスのあと、オリンピックの前あたり。景気がいいのか悪いのか、俺には判断しづらいが、就職活動は空前の売り手市場とも言われているし、まあいいんじゃないだろうか。正直給料よりも休みの方が重要なので、何とも言えない。「働き方改革」が叫ばれて久しいが、いまだにサービス残業を課す会社は多く存在する。

 それは何も会社に限ったことではない。学校や病院だってそうだ。昨今、「先生」と呼ばれる職業の人たちは、みな青白い顔でふらふらになりながら仕事している。俺の友人は外科医になったが、彼だって当直の後一睡もしないで午前の診察を行っている。まったく、頭が下がるね。俺のもう一人の友人の教師は、転職しようとしているらしい。今後は教師は週に一度以上、必ず部活などを休まなければならないそうだ。でもどうだろうな、そんな法律ができたからと言って、仕事量が大幅に減るとも思えないし。


 俺はというと、地元の整骨院で整体師をしている。いわゆる自営業だ。たまの休みにアニメ消化とアニメグッズ漁りをするぐらいで、これといって大きな趣味はない。

 彼女も特にいない。不満はない。俗人的な欲望なら、パソコンにつなぐだけで解消できるし、お金さえ詰めば「そういう欲望」は満たされる。うちの仕事場のお得意にはいわゆるそれ系の「プロ」も通っているから、少しくらい頼めば、お金なんてサービスしてくれるんだな、正直な話。



 「ストッキング撲滅」が叫ばれたのは、そんな風に俺が生きていた、平成最後の春だった。

 それは突然叫ばれた。「働き方改革」の一環で、女性の産業担当大臣が「平成最後の年である今年度を持って、ストッキングを撲滅します」と宣言した。それはとても奇妙で、かつエモーショナルな叫びに聞こえた。それは突然の宣言であり、奇妙に練られた政治的パフォーマンスの一環でもあった。彼女曰く、「ストッキングは女性が抑圧された社会」を示す道具に過ぎないそうだ。あんな窮屈なものを穿いて仕事をするのは一種の虐待である、とまで彼女は言い切った。

 当然、マスコミは彼女の宣言をセンセーショナルに取り上げた。彼女のことをマスコミは「ストッキング大臣」などと揶揄した。


 話はこれだけで終わらなかった。マスコミが大々的に取り上げたこともあるが、この宣言に多くの女性有名人が賛同し、この文言をぜひ法律化して欲しいと語った。多くの有名人が署名活動を始めた。若く政治的知識もない女の子が、どっとそれに賛同した。署名は実に、数日のうちに10万人を超えた。

 それに焦ったのは、何を隠そう、この俺だった。というのも俺は今まで黙っていたが、ストッキングをこの世で一番愛していたからだ。


 ストッキングの良さは、何よりそのエロスにある。普段とは違う色をまとい、窮屈になって足の曲線が浮かび上がる様子は、もはや芸術と言って差し支えないだろう。それは単なる生足よりも鮮明に「肢」そのものを浮かび上がらせる。特に何といっても、女性が実際に穿いている際の「穿きムラ」が最高である。均一に伸ばされていないその皴は、その不完全さが肢の肉感を増し、かえって高揚させるのだ。


 しかしこの欲望を満たすためには、血のにじむような戦いが必要である。というのも、ストッキングはリサイクルショップなどで売ることが禁止されているからだ。俺が新品ではなく、使用済みのストッキングを手に入れるために、どれほど努力をしてきたか、みんなにはわからないだろう。とにかくあらゆる手を使う。仲良くなったお客さんに交渉することもあれば、少し不思議なルートを使うこともある。インターネットを駆使することもある。時には彼女や妻子持ちの友人にも協力してもらう。


 俺は手に入れたタイツをクローゼットの中に保管し、大切にしている。時折触ったり臭いをかいだり頬ずりしてみるが、基本的に破れやすい薄い布である、大事に扱うよりほかない。本当ならば頭に被ったり一緒に寝たりして遊んでみたいが、未だその勇気はない。就職して初めて一人暮らしをするようになったとき、一度だけストッキングと一緒に寝たことがあるが、確かに最高だった。寝ている間に爪で引っ掛けてビリビリにしてしまった点を除いては。そうやって俺は今までコツコツと、誰にも迷惑をかけずにストッキングを収集してきた。それがここにきて、ちくしょう、大打撃だ。何がアベノミクスだ、そんなことはどうでもいい。ストッキングなんて、強制されないとみんな穿かないのだ。あんなパツパツして苦しいもの、誰が好き好んで穿くものか。今までは強制されていたからみんな穿いていたが、それが法律で禁止されたら、自主的に穿く人は激減するに決まっている。


 何とかしないと、とパソコンを開く。ちなみに、壁紙は『エヴァンゲリオン』の綾波レイにしている。彼女はストッキングこそ履いていないが、ぴったりとしたプラグスーツを身に着けている。それが彼女の戦闘服なのだ。


 俺は急いでグーグルにアクセスする。誰か同志がいてほしい。いくつかのサイトを見た。おおむね、今回の「撲滅宣言」はネット民にも好評みたいだ。海外でも高い評価を受けており、その波は全世界的な革命になるだろう、とも言われていた。多くの評論家や有名人が大臣に称賛の言葉を浴びせた。


 ちくしょう。ネットでも俺は、疎外感を覚えなければならないのか。俺が今までどれほど努力をしてきたか、お前らにはわかるまい。思わず声が出そうになるが、必死に抑える。


 「5ちゃんねる」を巡回しても、出てくる言葉の多くは称賛だった。ちくしょう、こいつら男のふりした鬼女なんだ。俺は知っている。本当は男の振りをしていても、「5ちゃんねる」ユーザーは実は女の方が多い。暇を持て余した主婦が多いのは暗黙の事実だ。


 しかし偶然にも、俺は広い広いネットの海の中で、ある一つのつぶやきを見つけた。


 「ストッキングの良さが分からん奴は素人」


 俺は思わず、こいつのアカウントを探った。


 年齢はわからないが、比較的若そうだ。おそらく大学生らしい。時折レポートやテストについての言及がある。俺は震える手で、こいつのつぶやきにリプライする。


 「おお、同志ですね。」


 返事が来たのは、その二日後だった。俺はなんだかんだ忙しくしていて、そのつぶやきにリプライしたことを忘れていた。仕事の昼休憩中に携帯をチェックしたら、俺は仰天した。思わずスマホを落とすところだった。


「同志ですね。須藤さん、もしかして名前、ストッキングからですか? ストッキングを撲滅させないよう、一緒に活動していきましょう」


そうだ、俺のネット上のアカウント名は「須藤金太郎」であり、無論、ストッキングに由来する。俺は相手の名前とプロフ欄を確認する。名前は「846」とだけあった。固定プロフ欄には好きな漫画とアニメが羅列してある。やはり、若いのだろう。書かれてあるのは主に最近のアニメだ。


 俺は震える手を抑えながら、深呼吸した。


「無論、ストッキングからです。あなたはストッキングが好きなのですか?」


送信。


俺は落ち着くために、職場の狭いキッチンでお茶を沸かした。お茶を飲み始めたところで、返信が来た。心臓が波打つ。返信内容をすぐに確認する。


「はい、大好きです」


 瞬間、とてつもない快感が走った。共感してくれた。この世で唯一、ストッキングを愛しているのは俺だけだと思っていたが、同志はいたのだ。それだけで、嬉しい。全身の細胞という細胞が動いているような感覚。電気が走るような快感。俺は思わずガッツポーズする。急いで指を動かす。


「一緒に同盟を組みましょう、ストッキング存続同盟を」


すぐに、返信が来る。


「是非!」




 わかったことはいくつかあった。「846」……以下、面倒なのでこれから「やしろ君」と呼ばせていただく、は、やはり大学生だった。一人称は「僕」。なかなか朴訥とした青年みたいだ。平成になってから始まったアニメと漫画が好きで、好きなキャラは特にいないが、二次創作などでキャラがストッキングやタイツを穿いているのを見るのが好きらしい。なるほど、確かにそれらの絵には俺も日頃からお世話になっている。普段のつぶやきでも、「そういう系」の絵を「いいね」している(俺もその絵をおこぼれで「いいね」させてもらう)。


 やしろ君はなかなかどうして、淡々としたところがある。ただ単純に好きなものを彼はつぶやいているだけだ。それなのに、なぜか迫力みたいなものも感じる。「好き」に裏打ちされた、何か。絶対に覆せない感情。そんな「迫力」を俺は普段の彼のつぶやきから感じ取ることができた。



 一時、気になることがあった。それは彼が一回だけ、男性同士の恋愛ものの絵を「いいね」したことだ。それはすぐさま消去されたが、俺にはわかる。アカウントを間違えたのだ。

 人によってはいくつもの「つぶやきアカウント」を持っており、用途によってそれらを使い分けている。俺自身は一つしかアカウントを持っていないが、今やアカウント複数所持なんて誰でもやっている。一般的な話だ。やしろ君はおそらく、「腐男子」だ。つまり、男同士の恋愛が好みの男性だ。普段は別のアカウントで「いいね」しているのだろうが、今回ばかりはミスってしまった。俺はその一回を見逃さなかった。

 無論、俺としては彼が腐男子だろうがなかろうが、どうでもいいことだった。ただ純粋にストッキングのすばらしさをわかってくれる同志であれば、何ら不都合はない。しかし多くの腐男子および腐女子がそうであるように、彼らは自身の趣味を公の場ではひけらかさないようにしている。場合によっては、彼らはそれを全力で隠そうとまでする。その気持ちはわからなくもない。わからない人にとってはわからない趣味だから、わかる人たちだけで過ごそうという考えだ。それは実に賢明な判断だと思う。

 俺は彼を特に刺激しないようにした。そんなことよりも、俺にとってはストッキングの方が重要だった。俺たちは互いにストッキング画像を送り合い、仲を深めていった。


 「なあなあ、今度、ツイキャス配信しないか?」


俺は彼を誘った。


「ツイキャス? 何ですか? それ」


やしろ君は相変わらずのマイペースだ。


「つぶやきと連動してできる音声配信だよ。文字だけじゃなく、声としてダイレクトに配信できる。聞きに来てくれた人には即時的なコメントも見ることが可能だ。ストッキングを広めるのに最適だろ?」


俺は熱弁した。というのも、彼と知り合ってから「互いに仲良くなる」ことはできたが、相変わらず世界は俺とやしろ君の二人だけで完結していた。もっと俺は外の世界に、ストッキングの良さを発信したかった。このままではいけないと考えていた。かといってYouTubeみたいに動画配信で顔を晒すのは……俺ブ男だから嫌だし。ってわけで、手軽に声だけで配信できるツイキャス。


「どうかな?」


俺はやしろ君に思いのたけをぶつけた。


「ああ」


と返事があった。


「悪いけど、声の配信はNG」


「そうなのか? 別にどんな声だって気にしないけど」


俺は一瞬動揺したが、すかさず指を動かす。こう返ってくることも想像の範囲内だ。


「大丈夫だって」


ダメ押しで一言。


「そういうわけじゃない。ただ、そうやって声で配信しても、聞いてくれる人はもともとストッキングに興味のある人だけだと思うんだ。文字や絵や写真で伝えないと、多くの人には伝わらないと思う」


一刀両断だった。


「そうかな」


「そうだよ。須藤さんは絵とか字と書けないの? もっとそいういう武器で発信しなくちゃ」


そう言われると、なんだかたじろいでしまう。俺に……できること……?


「そう言われると難しいな」


「難しくなんかないよ」と彼は言った。


「ただ、難しく考えているだけさ」


やしろ君にそう言われて、途端に俺が無力な存在に思える。俺はいったい、何を表現できるんだろう……。





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 地下なのに、熱い。むわっとした人々の熱気が集う。更に熱くなるようなスポットライトが浴びせられる。音楽が鳴る。


「みんなーーーーー!!!!こんばんはーーーーーーー!!!!!!今日も元気いっぱい、やしろだよーーーーー!!!!!!!」


笑顔でステージに上る。いつものことだ。笑顔なら、もういくらでも作ることができる。今日も私は、目の前のオーディエンスに向けて全力を出す。


 けど、最近ちょっと疲れ気味。地下アイドルを初めてもう、早や四年。初めは友人にそそのかされて軽い気持ちで始めたわけだけど、なんだか最近停滞気味。固定のファンはついても、これから先、グループが爆発的に売れるような予感はない。ぶっちゃけ、結構人生の岐路。大学だって休学しちゃったし、もう後には引かないつもりだけど、復学しようかとも思っている。あーあ、なんだかこんなこと考えていると暗くなる。おまけに「働き方改革」でアイドルの年齢制限もできて、18歳以下は全員強制的にやめさせられたし、深夜まで働くことは許されないし。やってらんないっての。こっちは毎度必死なのにさ。


 それにアイドルの衣装だって、女性の社会問題だとかいって、過激な服装はできなくなったし。水着なんか一発アウト。今まで雑誌の表紙を飾っていたグラビアなんか、全部だめ。全く、何を武器にこれから戦っていけばいいんだよ。


 ストッキングだって、アイドルの衣装としてなら、という条件付きでしか使うことができないし。ストッキングもタイツも穿かないアイドルなんていないよ。あーあ、なんだかつまんなくなっちゃたな。帰って早く新刊読みたいな。きっと家に届いているはず。あき先生の新刊すごいんだよね。BLなんだけど、男だってブラ付けたり、ストッキング穿いたりするの。あーー、最高。早くこういう世界が来ないかな。

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