第3話 イザクの蜂蜜漬け
「お母ちゃん、お母ちゃん」
母は台所を片付けていた。
「握り飯も取りに来ずに、何をしてたんだい?」
各自の仕事があるジナの家では、昼食は好きな時に食べられる握り飯である。飯は玄米、麦、白米がその時々の配合でブレンドされている。具は、梅干し、菜っ葉漬、肉味噌そぼろ、天かす、切干し大根煮付、などなど、母のバリエーションは果てしない。
竹の皮に包んでおいてくれた2人分のそれを受け取りながら、ジナは母の水仕事が終わるのを待った。
ジナは4人きょうだいの末っ子であり、本来ならジナが食卓の切り盛りをして当然なのだが、これが笑ってしまうくらい向いていなかった。
均等に切るのはつまらないと、何でも大きさがバラバラの乱切りにするから火の通りにムラができるし、待てないので飯の蓋を開けては台無しにし、早く食べたいと火を焚いてはすぐ焦がす。
飯作りに関しては、母似で温厚な兄サハの方がよほど上手いのだった。
「お母ちゃん、いいから座ってよ」
「なんだい」
しかし母の方でもこのできの悪い娘は可愛いようで、何かと甘やかしてしまうらしい。
「手ぇ貸して」
日に焼けた肌に熱い飯を握り続けてきた、手のひらの皮が厚い手だ。ジナと同じように、いやもっとひび割れてしまっている。
「これ、あたしが作ったクリームっていうんだよ。すごく効くんだから」
「へぇ…」
母の手を取り、惜しみなくクリームを指にすくうと、しっかりと塗り込んでいく。働く母の手はジナの誇りだし、顔は老いて手のシワは増えても、その匂いと感触は幼い頃と変わらないと思った。
「ユルゾの実から採った油を使ってるんだよ。ユルゾの実だって役に立つんだぁ」
娘の顔を見ながら、母は切り出した。
「…ジナや、結婚のことだけどね」
少し身構えたジナに、母がかけたのは意外な言葉だった。
「お母ちゃんにはジナの言いたいことが分かる。お母ちゃんは、お父ちゃんと結婚してあんたらを産んで幸せだけど、一人の男に尽くすことだけがジナの幸せとは限らんと思う」
母は、結婚という幸せを体現している存在だ。母やミナ姉のようになれたら幸せなんだろうと思う。どうしてあたしはそうなれないんだろうと、自分なりに悩んだりもした。
「人として、自分にしかできない事を成し遂げたい。その気持ちに、男も女もあるもんか」
クリームを塗るジナの手を、今度は母の手が包みこむ。子供じゃないんだからと気恥ずかしい反面、これ以上なく安心している自分がいる。
「だから、ジナの好きなようにお生き」
「お母ちゃん…」
顔が熱くなって、喉がキュッとして、涙がこぼれた。
一人じゃなかった。あたしにはお母ちゃんがいる。お母ちゃんはちゃんとわかってくれていた。
ありがとうを言いたかったけど、言葉にできなかった。
そんなジナの手を、いつまでも母は包んでいてくれた。
「お父ちゃんと仲直りできるね?」
「うん…」
正直、父と話すのは気が進まないが、母を悲しませたくなかった。
「じゃあ、特別にだよ」
再び台所に立つと、戸棚の下から取り出したのは赤い皮のイザクの実の蜂蜜漬けだった。小さい頃、風邪をひいたときによくお湯で溶いて飲ませてくれたものだ。
そのままでは硬くて味が薄い果実だが、蜂蜜に漬けることで何か変化するらしく、驚くほど柔らかくなり、噛むと酸味と甘味のバランスがよく、じゅわっと心地よくなる。
広口瓶から2つ取り出し皿に盛ると、
「あの子と一緒にお食べ」
と渡してくれた。
「まだ作ってたんだ」
ここ何年も風邪をひくことなどなかったから、その存在をすっかり忘れていた。
「いつ誰が風邪をひいてもいいようにね」
さすがうちのお母ちゃんだ。
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