玉座に捧げるトリビュート

黒月水羽

玉座に捧ぐ

 ドアを開けると、カランカランと涼やかな音がする。そのままカウンターに視線をむければ、すっかり顔馴染みになったマスターが会釈した。それに同じく会釈で返し、小堺伊織こさかい いおりはいつもの場所へと視線を向けた。

 奥まった角の席がこの喫茶店に訪れたときの伊織の定位置。平日の昼間ということもあり、伊織の他にはカウンター席に雑誌を広げた中年男性が一人座っているだけ。


 相変わらず静かな店だった。経営は大丈夫なのかと心配になるが、前にいったら伊織君が人の少ない時間にくるだけだよとオーナーに苦笑された。繁盛するときはそれなりに入っているらしい。


 いつもの席に腰を下ろして、最近読み始めるようになった専門書を開く。学生の頃の友人には「お前、キャラ変わりすぎ」と大爆笑されたが、今の自分は結構好きだ。

 昔は女の子のことばかり考えていた。どうやったら好かれるか。どうしたら楽しませられるか。そんな風に相手のことを考える思考を「女の子」から「子供たち」に枠を広げたに過ぎない。そう伊織は思っている。それでも友人に言われると大きすぎる変化らしい。


 その変化を与えたのが人との出会い、そして恋である。そう思うと伊織はくすぐったい気持ちになった。

 残念なことに、その相手とは未だに恋仲とはいえない微妙な関係のままなのだが。


「今日も勉強か。熱心だね」


 水を持ってきたマスターが伊織の読んでいる本を見て感心した顔をする。伊織はまだまだですよ。と肩をすくめる。伊織がよんでいるのは、自分で選んだものではなく「お前も読んどけ」と片思い相手に渡されたものである。伊織自身もよさそうなものを探してはいるものの、相手が見つけてくることの方が多い。しかも勧めてくるだけあって読みやすい。

 卒業したくらいで差は埋まらないかと少々複雑な気持ちになるのだが、それでも充実している。そう胸を張れる日々ではある。


「最近、木在羽きさらうさんは?」

「この間顔出してくれたよ。伊織君がいないの残念だっていってた。そろろそ連絡先ぐらい交換したら?」

「木在羽さんみたいな美人と連絡先交換したら、ただでさえ低いはじめくんからの印象がさらに悪くなるから……」

「毎回こうして会ってるんだから、似たようなものじゃないかな」


 俺が真剣に答えるとマスターが呆れたような顔をした。


「そんなことはないって。だって、お茶して話してるだけだし連絡先交換してないし、偶然たまたま会ったら世間話してるだけ。はい、健全!」

「あーうん……そうだね。そういうことにしておこうか」


 必死になって健全アピールをするとマスターが生ぬるい目を向けてきた。何故そんな反応をされなければいけないのかと伊織は不満だ。ただの一風変わった茶飲み友達だというのに、相手が女性。しかも美人というだけで周囲の目が変わってしまう。何て悲しい世の中なのか。


 そう伊織は思ったが、啓と会う前の自分だったら即連絡先を聞いて、あわよくばそれ以上のことを。と考えていた。そう思うとマスターのいう事もあながち間違いとは言い切れない。

 もしかして、啓にバレたらまずいのでは? と今更ながらに冷や汗が流れたが、木在羽と話すというのは伊織にとってちょうどいい息抜き。そして頭の整理にもなる。悩んでいると自分には思いつけないアドバイスをもらえることもあり、そのおかげで啓に褒められたということも少なくはない。


 啓に嫌われたくはない。だが、優秀なアドバイザーを手放したくはない。

 腕を組んで悩み始めた伊織を見て、マスターが先ほど以上に微妙な顔をした。何かをいおうかとマスターが口を開きかけたところで、カランカランと来店を告げるベルが鳴る。


 マスターが「いらっしゃいませ」と声をあげながら、店の出入り口まで移動する。

 伊織がいつも座っている席は、出入り口からは奥まって見えない位置にある。しっかりとパーティションによって区切られていることもあり、ゆっくり話をするにはちょうどいい特等席だ。


 少しだけ期待を込めて伊織は去っていくマスターを見た。来客したのが木在羽さんであれば、素晴らしい偶然だ。そう思って少々腰を浮かせると、姿を消したマスターがパーテイションの間から体を少しだけのぞかせてウィンクした。


「今、お水を持ってきますね」


 伊織に比べると丁寧なオーナの口調。わかりやすすぎる対応の差に、伊織は声を出さずに笑う。すぐさま、「ありがとうございます」という女性の声が聞こえた。

 普段聞いている子供に比べると低く、男にしては高い。香水のように女性らしさがにじみ出る大人の女性の声。それだけで木在羽の存在を意識した伊織は姿勢を正した。

 持ってきた本は鞄へとしまう。ここから先は必要ない。目の前には最高の語り相手がいるのだ。


「伊織さん、お久しぶりです」


 女性がこちらへと近づいてくる。明るい茶色の髪は肩くらい。綺麗なカーブをえがいた髪は、ヘアメイクに詳しい伊織から見ても丁寧に手入れされている。露出の少ない服装ながら女性であるというラインは隠さず、手元には雰囲気を邪魔しない透明度の高いピンク色のネイル。唇や目元も不自然さを感じさせないほどに色づき、イス一つ引く動作だけでも落ち着いた女性らしさが際立つ。

 男性が思い浮かべる理想の女性。そんな控えめで美しい姿が目の前にある。


 木在羽きさらうトア。

 木在羽の落とし物を伊織が見つけ出したのがきっかけで、こうして世間話をするようになった女性である。


「一カ月ぶりくらいですね。木在羽さんはお元気でしたか」

「はい。おかげさまで体調を崩すこともなく、穏やかに過ごせています」


 木在羽はそういって笑みを浮かべる。控えめな笑みだというのに、それだけで人の心をわしづかみにするような魔力がある。

 啓に出会っていなかったら、間違いなくのめり込んでいただろう。だからこそ、これほど美しい女性を目の前にしても恋愛的な意味で興味がわかなくなった自分が、伊織は少しだけ誇らしかった。


「伊織さんは最近どうでしたか?」

「相変わらず忙しいですよ」


 そう伊織が苦笑すると木在羽の瞳が好奇心で光る。

 落ち着いた大人の女性を体現したような木在羽は、時たま子供のような顔をして伊織の話に興味を持った。だからこそ伊織は初めて会ったその日から、ついつい楽しく話をしてしまったのである。何だか、話さなければいけない。話したい。そう自然と思ってしまう不思議な力を木在羽は持っていた。


「忙しそうですけど、伊織さんの周囲はいつも楽しそうです」

「たしかに。充実はしてます。あっそうそう、この間も面白いことがあったんですよ」


 伊織が話始めると、木在羽の表情が明るくなる。続きを。と輝く瞳にうながされて、伊織は話し出す。


「何度もいいますけど、俺の周りの人たちちょっと……っていうかかなり個性豊かで……」


 学生の頃、こんな未来があるなんて想像もしていなかった、小堺伊織の騒がしくも充実した日常を。

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