通り抜け禁止
研究所に行くまでの道のりの途中に、巨大な公園がある。
高低差のある場所にあるその公園には、コンクリートとレンガで作られた階段が公園の中央を貫くように通っていて、上から下まで、下から上まで、見下げることができるし見上げることができる。
ちょうどその時に階段を通っていたのは自分だけで、前にも後ろにも人はいなかった。だからなのかはわからないけど、階段の一番上から、一気に転げ落ちてみようかと魔が差しかけたことがある。前にもあった。階段からわざと落ちてみようと。
階段から転げ落ちて死ぬってのは博打みたいなもので、そう簡単にはいかない。もちろん距離は長い方がいいし、傾斜も急な方がいい。そういう階段は、山奥の整備されていない古い石階段であることが多く、だったら山へ登って転げ落ちた方が確実性は高い。
条件に合った立地と、山へ登る体力や精神があるならできる。だけどそもそもそんな健康体の人間は自ら死ににいくようなことはしない。
都会の階段は緩やかだし、人も多い。無理やり転がっても、途中で人を巻き込むし、せいぜい骨折などの軽症か、運が良くても脳震盪、もちろん死ねずに後遺症で病院生活か植物状態なのが関の山だ。
そして死にたかったわけではない。
死ぬことはおまけだとか、ラッキーなボーナスくらいに思っていたような気がする。
なんとなく人前で突然倒れてみたことはある。びっくりされるのを期待していたのだとその時自覚した。構ってほしくて自傷行為に走るのと全く同じ心理だったし、その頃は自傷行為をして周りの気を引こうとする行為を心底嫌っていたから、自分がそんなことをしていたという事実にショックを受け、以降自分は絶賛自己嫌悪に陥っている。鳴りを潜めた今でも、心の底には自分自身を消してしまいたい気持ちがこびりついている。
やり方を間違えてこれはもう助からないだろうという相談者を何人か相手をした時、いつも、死ぬまで、というか死んで以降も構ってもらえることが保証されるわけだから「よかったね。羨ましいよ」という気持ちが僅かに湧いてばかりいた。
でもほとんどの相談者は泣いていたし、悪態もついてきた。周囲に人がいればその例外になれたのに、よりにもよって自分たちに電話をかけてきたのが運の尽きであり、死ぬことができる確実な方法を案内して実行してもらった後でその気がなかったことが判明しても、その状態で救急を手配しようとしても、伝えられることは時間遅れという単純な答えだけ。それでも僕の心は羨望とか嫉妬みたいな複雑な感情だった。
公園は大きい。車通りにも面しているから、階段に通行人がいなくても、運転手が気づく。歩道にも人がいる。すぐに救急車が呼ばれる。いろんな人に構ってもらえる。
だけど、あまりにも影が薄いなら、みんな石ころが転がったみたいに気に留めないと思う。
……遠くの端の階段から勢いよく転がってきた石を無視できるかどうかという疑問はまた、別の話。
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