第八章「覚書」

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 アミスターゼが子守唄を歌わされることは免れて、ヴェルヴィオイの抱き枕にされていた頃、その縁者であるファルネンケルもまた、主君の居室を訪問していた。

 エクスカリュウトの朝廷を、その成立前から中心となり支援してきたのが、ズウェワ土侯であり帝国宰相リヨーケの一派であるとするならば、正史に載らない暗部を支えてきたのが、タンディア土侯であり皇帝参与ファルネンケルと彼が使役する隠密である。


 ゾライユ宮廷人の認識では、エクスカリュウトの陰に控えて献策する『狼心皇帝の懐刀』、悪友ロゥギに語らせれば、『歓楽都市タンディアが生んじまった変態』というファルネンケルだが、それらの評から浮かび上がる、あくの強い人物像とは裏腹に、その外見を一言で表すならば、『まるで特徴の無い男』である。


 巨躯でも無く、矮躯わいくでも無く、痩身でも無く、肥満でも無く、美麗でも無く、醜悪でも無く、若くも無く、老けてもいない。

 良くも悪くも記憶にとまる部位の無い印象の薄い目鼻立ちに、ゾライユではありがちな赤茶色の髪と薄茶色の瞳をしていて、とにもかくにも、どこもかしこも、近頃三十路半ばを越したという、年相応に平々凡々なのだ。


 そんな一見冴えない壮年男であるファルネンケルの務めが、皇帝の夜伽や抱き枕代わりであろう筈はなく、ヴェルヴィオイと衝撃の対面をして、複雑な気持ちを抱えたエクスカリュウトに、一献付き合えと呼ばれたわけである。



*****



「急な人事で、驚きました」

 気が置けない仲であるのは今さらであり、酌を取らせる愛妾や宮女も、所用を言い付ける小姓すらも、エクスカリュウトは置いていない。手酌で酒盛りに参加する、スタイレインに杯を貰いつつ、急に呼び付けておきながら心ここにあらずの様子な主君に、ファルネンケルは自分から話を振った。


「アミスターゼのことか?」

 火酒の杯を傾けながら、エクスカリュウトはファルネンケルに視線をやった。こちらも一口、杯に口を付けてから、ファルネンケルは会話を続ける。

「はい。まずはアミスが、親衛隊の位を剥奪されるとだけ連絡がありましたもので……。陛下もご承知の通り、あれは脛に疵持つ身でありますゆえ、此方ではまた、一体何をやらかしての降格かと、さすがに青くなりました」


 アミスターゼは厳密に言えば、ファルネンケルの従妹の夫の姉の長子である。縁者といってもその姻戚関係は、遠縁も遠縁のほぼ他人だ。

 それがタンディア土侯に小姓として召し抱えられていた十三のみぎりに、とある事件に巻き込まれた。心ならずも結果として、悪事の片棒を担がされてしまったアミスターゼが、怒り狂った主君から不当な扱いを受けていたものを、恩を売り付けつつ拾い上げてやったのが、従妹に泣き付かれたファルネンケルである。


 以来、ファルネンケルとアミスターゼは師匠と弟子の関係だ。

 目立つ容姿であるがゆえ、隠密にすることは早々に諦めたが、見所の多かったこの秘蔵っ子に、ファルネンケルはあらゆる知識と技能を叩き込んだ。成人を迎えたのを機に、アミスターゼが皇帝の親衛隊に籍を置いたのも、ファルネンケルの推挙によるものである。



「せっかちな遣いがいたものだ。余がアミスターゼに充てた任は、親衛隊よりも責が重い。間違っても降格などではないから案ずるな」


「はい。大任を授けられたものと後から知りました。ですが、気になったのはまさにそのことでございます。僭越ではございますが、守役にアミスをご指名になられたということは、陛下は皇后陛下のご養子君に、殊の外ご関心を寄せられたものとお見受けを致しました。取り立てて大事にも、特別扱いもせぬつもりだと仰っておられましたのに、これはどういったご心境の変化です?」


「そうだな……。あれを一目見れば、誰しも得心するであろう。のう、スレイ」

「はい」

 末席に就いていたスタイレインは、エクスカリュウトに呼ばれて、自酌をちびちび舐めることを止め、早々と赤らみ始めていた顔を上げた。


「そちが嫌がらせのように熱心につけている、『覚書』とやらが珍しく役に立ちそうだな」

「左様でございますねえ。先人の教えには、よくよく習っておくものです。趣味と実益を兼ねて、長年編纂を続けて参りました甲斐があったというもの」


 スタイレインはほくほくとそう言って、大事な古い綴りを収めてきた、上着の左胸をぽんぽんと叩いた。それをエクスカリュウトは聞き咎めた。


「スレイ、今趣味とか何とか抜かさなんだか?」

「申しました。陛下のご寝所でお乱れになるのは、百花繚乱の美姫揃い。これほど楽しい覗き趣味などそうそうございません」

「とんだ悪趣味だな」


 酒で緩んだ口を滑らせて、にんまりするスタイレインとは対照的に、エクスカリュウトは苦虫を噛み潰したような顔をした。


 乳兄弟として共に育ち、小姓以前の御伽小姓の時代から、ずっとエクスカリュウトの至近に仕えてきたスタイレインは、主君の房事に関するあれこれを、実にまめまめしく記録していた。この数冊に渡る、覗き趣味の集大成――ではなく、帝位継承に係わる極秘文書を、スタイレインはごく簡単に『覚書』と呼称している。


「なるほど陛下が、『覚書』を確かめる必要を、お感じになられるようなお子であられたわけですか」


 気心の知れた主従の会話に含み笑いを漏らしつつ、ファルネンケルは話題を引き戻した。

 エクスカリュウトはそれに頷き、向こうもまたこちらを見て、真ん丸く目を見開いていた、ヴェルヴィオイの姿を思い返した。


「他人とは思えないほど余に似ていた。男子おのこであることもあろうが、間違いなく余の血を分けたマルソフィリカよりもだ。実に何とも、奇妙なものを見た気分だ……」


 しかしただそれだけのことならば、ヴェルヴィオイがエクスカリュウトの心を、ここまで波立たせることはなかったかもしれない。

 エクスカリュウトが、今宵飲まずにおれない気分であるのは、ヴェルヴィオイが自分とは違う、淡い水色の瞳をしていたせいだ。苦さと痛みと懐かしさを込み上げさせる、いつか見たような薄氷の瞳を――。


「それほど似ておいででしたか? らしいという報告は、『兎』から届けられておりましたが」

 さして驚くこともなくファルネンケルは尋ねた。『兎』というのは、皇后付きの宮女に紛れ込ませている、ファルネンケルの手の者の秘匿名である。


 とはいえゼラルデやヨデリーンのような、后妃や妾の国許派遣の宮女とは違って、宮女長の采配により振り分けられる皇宮雇いの宮女は、結婚までの行儀見習いに上がっている娘が多数である。不審を与えぬように適度なところで入れ替えている『兎』は、折悪く四代目に替えたばかりであり、ルドヴィニアやゼラルデの信頼をまだまだ勝ち得ていないため、情報の入りは捗々しくなかった。


「ああ。血統に煩いルドヴィニアのことだ。ロジェンターの血族から、適当な子を貰い受けてくるであろうと予想していたのだが……。あのような者を引き出してくるとは迂闊であったな」


「お名前は何と申されます? そしてまた、出所は?」

「名はヴェルヴィオイという。市井の生まれであるらしい。嘘か誠か知らぬがな」


「お歳はおわかりに?」

「さあ……? とにかく見た目に驚いて、すっかりと聞き損なってしまったな。余には子供の歳はようわからんが……、スレイ、ヴェルヴィオイは幾つに見えた?」


「そうですね、私が見た感じでは十代半ば……、十四か十五かその辺り……、おそらく十六に届いてはいないでしょう。真に陛下の御落胤であれば十五ですね」


 ヴェルヴィオイの年齢をきっちりと言い当てて、スタイレインは断言した。その後半部分の自信に満ちた口振りに、エクスカリュウトは首を捻った。


「やけに確定的であるな」

「計算すればそうなります」

「……何をどう計算した?」


「嫌ですねえ陛下。何って陛下がナニをなさった記録をもとに、仮に陛下のお胤がお生まれになっていたとして、お幾つになるかならないかを、計算したに決まっているではありませんか。前後の状況を考えれば、必然的に十五です。十四や六では絶対にあり得ません」


 きっぱりと言い切るスタイレインは、ゾライユの皇統を正しく保つため、侍従の役目をきちんと果たしているともいえるのだが……。当のエクスカリュウトにしてみれば、通常秘めておくから秘め事とも呼ばれる類いの事柄を、暴き出されていい気がするわけがない。半自棄な気持ちになって酒を呷った。


「ということは、陛下が十六の折の夜伽を探らねばなりませんが、十六といえば帝位に就かれ、奥方をお迎えになられたお歳ではありませんか。新婚でございますのに並行して――ですか? それともひょっとして、夫婦の営みをお手伝わせに? いや、早くからお盛んでございますなあ」


「これ、ファル」

 自分のことはひょいと棚に上げて、エクスカリュウトをからかうファルネンケルを嗜めてから、スタイレインは宥めるように主君の杯を満たした。どっちもどっちな二人をじろりと睨んで、エクスカリュウトはそれも一息に空にした。

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