1-5-11

 ゾライユとロジェンターの和平交渉は、その後豪雪の季節を挟んで、翌年の春から本格的に開始された。

 新生したゾライユの代表には、ズウェワ土侯の弟である新帝国宰相リヨーケと、和睦の使者としてロジェンターに赴き、そのまま一冬を敵国で越してきた、皇帝参与のファルネンケルが立った。


 和睦の使者というものは、相当な緊張感の漂う大任であった筈、なのだが……、一度王に会見してしまえば、その後は特にやることもなく、食っちゃ寝食っちゃ寝の毎日ですっかり太ってしまいました――と、出発前より色艶の良いふっくらとした顔で、のうのうと報告するファルネンケルに、エクスカリュウトは心の底から呆れたものである。


 そんな腹だけでなく肝も太い弁士の活躍もあり、ゾライユが本当に欲しいものだけを返還させる形で、二国の間に和約が結ばれたのはその年の夏のことだ。

 そうしてその和約の象徴として、ゾライユ皇后ルドヴィニアが立てられる。


 ルドヴィニア立后の裏には、敗戦前に戻したゾライユの慣習により、多数の妾を抱えることになるエクスカリュウトに、妾腹の皇子が幾人できようと、ルドヴィニアが嫡男を産めば必ずその子を皇太子にするという、ゾライユがロジェンターに花を持たせた約束があった。ゾライユ皇帝夫妻の実情を考えれば、虚仮こけにするのも大概にしろという話だが。



 ルドヴィニアの皇后冊立式には、ルドヴィニアの異母兄にあたる第二王子――ルドヴィニアと同母なのは、第一、第二、第四王女の姉妹だけである―― マーべリックを代表とするロジェンターの使節団も参列した。固い面持ちで訪れたマーべリックは、ルドヴィニアと数年ぶりの再会を果たすと、お前の生存を確かめるために来たのだと耳打ちした。


 ロジェンターはルドヴィニアに祝いとして、生国の国威を見せつけるような金品目録を贈ると共に、新たな宮女を四人と衛士えじを一人、衛士見習いの従士を一人、ルドヴィニア付きとさせるために国元から派遣していた。

 大人数を連れてきた、輿入れの際とはうってかわって、ゾライユの後宮規範に則した謙虚な人数に感心をしながら、エクスカリュウトはこれらの受領を受諾してやった。


 エクスカリュウトの帰還の際に、皇妃の室から略奪されていったかつての宮女たちは、みなそれぞれにゾライユの男の妻か妾になったという説明をされただけで、誰一人としてルドヴィニアのもとへ帰されることはなかった。

 なすすべもなく宮女たちを、乳姉妹のメラニーアンを、奪い去られたルドヴィニアの心の傷と悲しみは癒えていなかったが、ルドヴィニアと同年代の、初々しい顔を並べた新しい宮女たちは、ロジェンターの母后が人選をしてくれたのだというマーべリックの話は、ルドヴィニアに久方ぶりの嬉し涙を流させてくれた。


 そうしてルドヴィニアが非常に驚いたことに、ルドヴィニア付きとなることを強く志願してくれたという新人衛士は、何とアズワルドの元副官、ネモシリングであった。




*****




「どうしてわたくしに、仕えようだなんて思ったの? 士官だったお前が、ロジェンターでの未来を捨ててゾライユの武人になるだなんて……。お前はもう、どんないさおも栄転も、望めなくってよ?」


 自室に戻り落ち着いてから、着慣れないゾライユの軍服を纏ったネモシリングを前にして、ルドヴィニアは困惑の色を隠せなかった。ルドヴィニアがネモシリングと言葉を交わしたのは、あの謁見の日限りだが、だからこそ……、『浅はか』とまでこき下ろした自分の衛士になってやろうという、ネモシリングの心情がまるで読み取れない。


「それはルドヴィニア様が、こうしてゾライユにおいでであることが、アズワルド卿のお心残りであるからです。そしてこのような志を持つ私に、今のロジェンターで、洋々たる前途が開けているとでもお思いか?」

「どういう……ことなの?」


 アズワルドの自刃も、それによってウォストラル三世に不信や不満や憤りを抱いた者たちがいることも、例によって例の如くルドヴィニアには知らされていなかった。ゼラルデと二人、改修を終えた皇妃の――今日からは皇后の――室に遮断され、以前よりも格段に、情報を得にくくなっていたせいでもあるのだが。

 やはりか……とでも言いたげな顔つきで、ネモシリングはロジェンター人らしい金髪の下から、ルドヴィニアに厳しい眼差しを向ける。


「そんなことすらお知りで無い、想像もおできにならない貴女には、私のような者が一人でも、お側にあらねばと考えたまで。私はもはや、貴女の父君に捧げる剣は持ちません。そのかわりに、貴女の目を開かせ、貴女の性根を叩き上げる鞭を持って、これよりルドヴィニア様にお仕え申し上げる」


「むっ、鞭?」

「言葉の綾というものです」

「なっ……、何たる無礼な! それが皇后陛下付き衛士の就任の挨拶か!?」

「ゼラルデ殿がそのようでおいでだから、この方はいつまでも無垢で無知であられるのではないですか」



*****



 こうして、皇后になると共にルドヴィニアの身辺は、幾分かの賑やかさと明るさを取り戻した。信仰を共にする、懐かしい祖国人に囲まれる安らぎもあったが、彼ら彼女らが潤滑油となってくれたおかげで、ぎすぎすしとしていた帝国人の宮女たちとも、徐々に雪解けを迎えることができたからである。


 この一件に表れているように、エクスカリュウトは、皇后に立てたルドヴィニアを常に後宮の第一人者として扱い、決して蔑ろにすることはなかった。

 このようなルドヴィニアの特別な日にすらも、エクスカリュウトが寝所に渡らせるのは、他の女であるだけで……。


 けれどそれすらもまた、もとを糺せばエクスカリュウトが、ルドヴィニアの好きにさせた結果であるわけで、ルドヴィニアの胸中には、夫を強く求めるがゆえに受け入れることができない、やるせなさが募るばかりであった。夫の新しい妾であると、後宮入りの挨拶に訪れる女たちは、みながみな、自分よりも魅力的に見えて、ルドヴィニアの心を軋ませた。


 そうしてたった一つのことを思い悩む、ルドヴィニアの時間が停滞する一方で、エクスカリュウトの時は一年、三年、五年、十年―――と、駆け足で行き過ぎていった。

 ロジェンターと当座凌ぎの和約を結び、いつか来たるべき再戦の日に備えて、富国強兵を目標に掲げたエクスカリュウトは、王朝の交替に近い国の立て直しに、昼夜を問わず心血を注いでいたからだ。


 エクスカリュウトの朝廷は、土侯たちの助けを借りたその成り立ち及び、戦後の処刑を免れロジェンターにすり寄っていた廷臣に対する不信から、先帝までの時代よりも遥かに土侯国との関係を密にしたものとなっていた。

 外から見ればゾライユは一つの大きな帝国だが、内に入れば小国、部族の集合体である。後宮の妾たちの多くは、それらから遣わされた外交の司であり、ルドヴィニアが嫌悪する彼女たちとの房事も、当のエクスカリュウトにとっては身体を張った政治活動の一環といえなくもない。分からず屋の皇后には、説明してやる気も起きないが。


 それがようやくに実を結び始めたこの近年、ゾライユ帝国はかつてないの繁栄の時代を迎えようとしていた。



*****



 心身ともに充実し、全てを手中に収めたかに見える『狼心皇帝』エクスカリュウトであったが、唯一つだけ欠いているものがあった。

 在位十六年――、未だ皇太子が空位なのである。

 皇后ルドヴィニアに当然の如く子供はなく、存命しているエクスカリュウトの子は、今は左側妃へと昇っている、ヘルガフィラが産んだ第一皇女マルソフィリカ一人きりという侘しさであった。


 何らかの理由で、エクスカリュウトが胤を失くしたというわけではない。

 その証拠に、エクスカリュウトは、その時々に情けをかけた寵姫たちとの間にも、幾度となく子を儲けていたのだが、その庶子たちはみな、流れてしまうか死産するか、母体と共に没するか、あるいはまた、後宮の薄闇の中で乳呑み児のうちにはかなくなっていた。


 そんな状況であっても、否、そんな状況であるからこそ、後宮に納められ、皇帝の寵を競う女は後を絶たない。エクスカリュウトもまた、一人の女に縛られることを避け、方々から差し出される花々を摘むのを躊躇わなかった。

 それでもあの日以来、エクスカリュウトがルドヴィニアと寝所を共にしたことはない……。



 最後に夫に抱かれてから十年を越して、ルドヴィニアは様々なものを諦めるようになっていた。

 長年凹み続けたままのはらは、規則正しく月の血を流して切ない訴えを起こしていたが、その本能を満たしてくれる夫は、名目だけがルドヴィニアのものであって、決してルドヴィニア一人のものになってくれはしないのだ。


 後宮の高貴な飾り物として、己の存在意義となっているゾライユとロジェンターの恒久和平を祈り、空虚な日々を送るばかりのルドヴィニアに、ある時乳母が、思いもかけない具申をした。


 皇帝陛下に願い、養子を取らせてもらってはいかがでしょうか、と。

 自らの行く末の頼みにする、子を持ちたいと訴えてみては、と――。

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