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 気がつけば、枕元に詰め無言でこちらを見下ろしている、ゼラルデの姿があった。

「……乳母様」

「たかだか宮女の分際で、妃殿下にご心配をおかけするとは、一体どういった料簡か、クリスティナ」

「……申し訳ございません」


 寝台に半身を起こし殊勝に謝って、クリスティナはふと夜半の静けさに気付いた。ずっと鳴り響いていた宴の音楽が、今はもうどこからも聞こえてこない。

 寝乱れた白金の髪を指で梳き、さらなる叱責を受ける前に、クリスティナは先回りしてもう一つ謝罪した。

「誠に申し訳ございません。すぐに支度をして、陛下のもとに参りますので」


「その必要は無い」

 寝具から抜け出そうとしたクリスティナを、ゼラルデは声だけで押し留めた。その頑なな口元に、俄かに得意げな笑みが上る。


「ようやくお心を定められ、今宵はルドヴィニア様が、陛下のご寝所へお渡りになられた」

「それでは?」

「言うまでもないこと、お前の役目は終わりだ」

「……左様でございますか」


 あっけないものだとクリスティナは思う。捉えきれぬクリスティナの心を求めて、切なげに細められたエクスカリュウトの濃藍色の瞳。愛を乞う囁きと抱擁、そして、狂おしく我が身を昂らせた若々しい情熱――。

 その全てを、もはやこの身に受けることがないのだと想像すると、失われたものの大きさが胸に迫って、クリスティナの心身を寒々と冷やした。



「クリスティナ」

 ぞっとするような低い声で、ゼラルデはクリスティナの名を呼んだ。

「お前は何故、自分が倒れたかわかるか?」

「貧血、のように思いましたが……?」

「それだけか?」

「……まさか……」


 その可能性に思い至り、クリスティナはゼラルデの顔色をそっと窺った。若く健康な男と女が、毎夜のように睦み合っていたのだ。それは決してあり得ぬことではない。


「クリスティナ、お前はいささか分を越えてしまったようだな。ルドヴィニア様の心身がご成熟なさるまで、身代わりに夜伽を務めよと言った記憶はあるが、ゾライユ皇帝の子を孕めと誰が命じたか」


「それは……」

 クリスティナは口ごもる。寝所で寵を受けながら、当の皇帝に願われていたとは、ルドヴィニア至上を貫く頑迷な乳母へは口が裂けても言えない。


「身篭ったことを、陛下に伝えることまかりならぬ。不穏な素振りを僅かでも見せれば、お前の命は無いものと思え。尤も――、お前がいかに庇護を求めようとも、エクスカリュウトには何の力もなかろうが」


 年若い皇帝の名を不遜に呼び捨てて、ゼラルデは脇机から酒瓶を取り上げると、その中味を傍らに置かれた杯に注いだ。さらに帯の間から薬包を取り出して、粉末をさらりと流し入れる。



「ここにある酒を飲み――」

 酒、とゼラルデは言ったが、そのとろりとした、色の濃い蜂蜜酒に盛られたのが、堕胎を促す薬であることは確認するまでも無い。青ざめ頬を強張らせるクリスティナの目前にずいと杯を突き出しながら、ゼラルデは高飛車に命じた。

「何もなかったことにして、このまま皇妃殿下にお仕えするか、全てを秘してロジェンターへ帰るかのどちらかを選べ」


 クリスティナに突きつけられたのは、有無を言わさぬ非情な二択だった。

 皇妃の乳母に過ぎぬ者が、皇帝の子を秘密裡の内に処分してしまおうというのである。露見すれば極刑は免れぬ大罪だが、ルドヴィニアの忠実な僕であるゼラルデには恐れも迷いもない。


「黙って故国へ帰るというならば、そのはらの子も見逃してやろう。長旅の間に流れぬという保障は持てぬがな」

「――」


 クリスティナはとっさに答えられず、無意識のうちに下腹部を抱いていた。ゼラルデはクリスティナの唇に杯を押し付けるようにして、冷血な眼差しで決断を迫る。

「どうした? 答えられぬなら、私が決めてやっても良いのだぞ」


 ……ここに新しい命が宿っている。深紅の髪をしたゾライユの狼の仔、エクスカリュウトの子供が――。


 どくん、と、心臓の跳ねる大きな音が、クリスティナの耳の奥で響いた気がした。

 何があっても、何にかえても生かさねばならない。これは夜毎交わした寝物語の中で、エクスカリュウトの未来に誓った約束の子供だ――!



「……ロジェンターに帰ります」

 それが、母性に目覚めた女の決意に聞こえぬよう、クリスティナは日陰の女の惨めな諦めを装った。

 クリスティナの本意を探るようにじっくりとその表情を確かめてから、ゼラルデは緩慢な動作で杯を脇机にことりと置いた。


「誠にそれでよいのだな?」

「はい……。我が身と引き換え、お幸せな妃殿下をお目にするのはあまりにも辛うございます。このままゾライユの皇宮へ置いて頂いたところで、身の程もわきまえず、お恨み申し上げるやもしれません」

 力なく眼差しを伏せ、しおしおと肩を落としたクリスティナの演技も返答も、ゼラルデの目を欺き慢心をくすぐるには効果覿面であった。


「そうか。では故国で急ぎに『婿』をあつらえてやるとしよう。お前が産むのはその『婿』の子だ。ゾライユ皇帝のご落胤であっては断じてならぬ」

「……はい」

「だが産み月がとんと合わぬな。宮廷下がりの娘には珍しくないことだが、念には念を入れて、『父親』も別に調達しておくとしようか」

 酷薄な顔つきで、ゼラルデは暗い含み笑いを漏らした。


「『父親』……? 乳母様はわたくしに、陛下以外の方のお床へ侍れとおっしゃるのですか?」

「察しが良いな、その通りだ。ゾライユの蛮人如き、お前ならば目配せ一つで難なく誘惑してしまえるだろう? なに、一度情を通じたという事実さえ作ればいい。もしもこの先、『婿』に問い詰められるようなことがあるならば、その男の名を出すのだな」

「……畏まりました」



 皇妃への忠義面を振りかざして、この女はどこまで他人の人生を嘲弄し、尊厳を踏みにじることができるのか? 表面上はあくまでも従順に答えながら、クリスティナの心の内には煮えたぎるような激憤が渦巻いていた。


 居丈高なゼラルデを憎悪する一方で、その忠誠の対象がルドヴィニアであることに、クリスティナは憐れみを禁じ得なかった。

 血統が正しいだけの幼い皇妃を、クリスティナは一度たりとも敬ったことがない。純真無垢と言えば聞こえが良いが、自らの側仕えが夫の情人であることに、いつまでも気付かぬ愚鈍さは滑稽ですらある。


 ゼラルデに指摘されるまでもなく、男を虜にする女の魔性において、自分が他者より遥かに抜きん出ていることを、クリスティナはもう自覚している。

 エクスカリュウトの心と身体に刻み込まれたクリスティナの記憶に、ルドヴィニアの如き子供が太刀打ちできるわけがないのだ。

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