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「嫌」

 短く一言、そう言って、ルドヴィニアは抱き止める乳母の胸に顔をうずめた。


「ですが、姫様……」

 ルドヴィニアの淡褐色の髪を梳き終えて、その実年齢よりもなお幼い面差しが、いささかでも大人びて見えるように、薄く寝化粧を施そうとしていたクリスティナは、当の王女に鏡の前から逃げられてしまい、困ったように立ち尽くした。


「嫌なものは嫌っ」

 聞き分けの無い子供そのままの仕草で、ルドヴィニアは首を激しく横に振った。その背中を甘やかすように撫で付ける乳母の手が、クリスティナに苛立ちを募らせる。

 しかし賢明な彼女は、幼い主君とその乳母を前にして、見せてはならぬ感情を発露させることはない。


「一体何がお嫌なのです? エクスカリュウト陛下は、眉目に秀でたご立派なご夫君ではございませんか」

 ルドヴィニアの説得を自分一人に押し付けて、雑事に専念する同僚たちを恨めしく思いながら、クリスティナはそうとは気付かれぬ程度の溜め息を零す。


「乱暴で怖そうだもの。あんな野獣のような男、大嫌い!」

 涙で濡れた瞳でクリスティナを睨みつけて、ルドヴィニアは吐き捨てるようにそう言った。


 こんな時ではあるが、クリスティナが浮かべた困惑の表情に、ふと胸がすく思いがするルドヴィニアである。

 この水色の瞳をした美貌の宮女は、ルドヴィニアの容姿における劣等感をいつも惨めに刺激してくれた。数年の後に娘盛りを迎えても、これほどに人目を惹く美女には決してなれないだろうと、ルドヴィニアは悲しく自覚している。



「お言葉が過ぎではありませんか? 姫様」

 嗜めるクリスティナに、ルドヴィニアは駄々をこね続けた。

「だって、ゾライユなんて嫌いだもの! 寒くて、がさつで、田舎で! おまけに二つも顔のついた、気持ち悪い女神を祀っているのよ! こんなとこ嫌! 嫌嫌嫌! ロジェンターに帰りたいわ!」


 クリスティナに――、否、ルドヴィニアは乳母に訴えていた。絶対的な献身で、必ず彼女を守ってくれる、親鳥のような存在の乳母に。


「いい加減になさいませ、姫様。何とおっしゃられようと、あなた様はもう正式に、エクスカリュウト陛下の皇妃とおなりなのです。お二人のご結婚は、姫様のお父上の思し召しによるものですよ」

「わかっているわ。だから、お式の間は精一杯我慢したわ! それでいいじゃない!」


「姫様、姫様のお父上は、姫様がロジェンター王家の血を継ぐ皇子をお産みになられるのを、一日も早くとお望みでいらっしゃいます。王女としての責務をどうか果たされませ」

「そんなのはお父様の勝手よ! 嫌なものは嫌、絶対に嫌!」


 クリスティナが整えた髪を振り乱して、ルドヴィニアは癇癪を起こしていた。初潮をみて間もない十二歳の少女に、今日顔を合わせたばかりの婿と床入りをしろというのは、確かに酷な話だとクリスティナも思う。

 だが、王族の結婚とは、得てしてそういうものではないだろうか。婚姻は重要な政略であり、王女は大事な手駒となる。この場合であれば、ロジェンターがゾライユの内政に、干渉を続けてゆく為の大義名分。ルドヴィニアはそれを、果たして理解しているのだろうか?


「姫様、どうか――」

「嫌ったら嫌!! そんなに言うのなら、お前があの男と一緒にお休みすればいいのよ!!」

「姫様! 冗談にも、お口にしてはならないことがございます!」

 この王女は、本当に何と幼いのか。呆れと共に憐れみすら覚えながら、クリスティナはルドヴィニアを宥める言葉を探す。



「――ルドヴィニア様を姫様のご寝所へ」

 それまで押し黙っていた乳母が、重々しく口を開いて宮女たちに命じた。


「湯殿はまだ使えそうか? ならばそのままで良い」

「乳母や……」

 ルドヴィニアが甘ったれた声で乳母を呼ぶ。乳母は腰を屈めて、赤く目を腫らした小柄な主君と視線の高さを合わせた。


「今日はよくご立派に、式典をお済ませになられました。さぞかしお疲れのことでございましょう。後は全てこのゼラルデにお任せを、ルドヴィニア様」

「あの男のところへ、行かなくてもいいの?」

「構いませんとも」

 大切な主君の心を落ち着かせるように、心強くゼラルデは微笑んだ。


「嫌なことは忘れて、楽しいことばかりを考えてお休みなさいませ。その方が良い夢を見られましょう」

「そうするわ。乳母やは一緒に来てくれないの?」

 そう言って、ルドヴィニアは、こくりと小首を傾げる。


「わたくしは姫様の代わりに、エクスカリュウト陛下にお目通り願わなくてはなりません。明日の夜も明後日も、その先もしばらくは、姫様がご自分のお部屋のご寝所でお休みになれますよう、陛下に頼んで参りましょう」

「ありがとう、乳母や」

 頼もしい乳母の言葉に安堵したのか、ルドヴィニアはそこでようやくにこりと笑った。


「こちらのことはいい。姫様がお休みになられるまでみなでお相手を」

「はい」

「但しクリスティナ、お前はここに残るように。それからメラニーアン、例の物を」

「はい」



 故国より従ってきた、多くの宮女たちに取り巻かれて、自身の寝所に向かうルドヴィニアを、クリスティナは拝礼して見送った。

 たまらなく、居心地が悪かった。あれだけ言葉を尽くしたのに伝わらなかった。自分はこれから、ルドヴィニアにきつく当たり過ぎたと、叱られでもするのだろうか……?


「クリスティナ」

「はい」

 ゼラルデに呼ばれて、おそるおそる顔を上げると、乳母子めのとごであるメラニーアンの姿も既に無く、クリスティナはゼラルデと二人きりでその場に残されていた。


「服を脱げ」

「はい――?」

「聞こえなかったか? 服を脱げ、と言った」

 自分の耳を疑い、面食らうクリスティナに、ゼラルデは有無を言わさぬ口調で命を重ねた。


「……はい」

 何故? という疑問を発することもできぬままに、クリスティナはそろそろと、震える指先を宮女服の釦に掛けた。その一挙手一投足をゼラルデに監視されながら。

 脱いだ宮女服を床に落とし、それと揃いの頭巾も外して、肌着姿になったところで手を止めかけたクリスティナに、ゼラルデは冷たく付け加えた。


「全てだ」

「そんな――」

 堪らず声を上げたが、それ以上の口答えは許されなかった。ゼラルデの厳しい眼差しの前に、クリスティナは諦めて、珠のように美しい膚を晒してゆく。


 髪を纏めていた櫛も外して、身に着けていた全てのものを取り払うと、クリスティナの裸体を隠してくれるのは、滝のように流れ落ちる白金の髪のみとなった。羞恥で床の上にへたり込んだクリスティナの全身を、ゼラルデは検分する目つきでじっくりと見下ろした。


 うなだれた華奢な首、しなやかに伸びた手脚、豊かで形良い乳房、細く括れた胴、ほどよく張ったまろやかな腰――。ゼラルデの期待通りに、それは同性の目から見ても惚れ惚れとするような、吸い付きそうな肌質の蠱惑的な肢体である。健全な性癖の男――殊に、エクスカリュウトのような若い男ならば、漲る欲望のままにむしゃぶりつきたくなるだろう。


「姫様の残り湯を使うことを許す。クリスティナ、これより入浴を済ませ、早急に皇帝の寝所へと侍るように」

 威圧的なゼラルデの命令に、クリスティナは胸元と秘部を隠しながら、弾かれるようにして青ざめた顔を上げた。

「そんな、わたくしは――」

「お前がまだ、男を知らぬ生娘だということなら承知している。だからこそお前を選び、ルドヴィニア様の輿入れの供に召し上げたのだからな」


 ゼラルデの冷たい物言いに、クリスティナは顔面蒼白のまま言葉を失った。

 最初から仕組まれたことであったのだ。天涯孤独な没落貴族の娘など、ゼラルデにとって、ロジェンターという国にとって、どうにでも使い捨てられる道具でしかないのだ。


「案ずることはない。ゾライユの宮廷人はみな早熟だというからな。エクスカリュウト陛下とて、既に女の扱いをご存知だろう。クリスティナ、お前はただ、皇帝の思し召しに従っておればよい」

 クリスティナの顎に指先をかけて、ゼラルデは傲岸に言い付けた。


「皇帝の夜伽を命じる。他所の女に目を向けられては面倒だからな。ルドヴィニア様がいま少しご長じになられるまで、そのかおと身体で、皇帝をしっかりと繋ぎ止めておけ」


「――」

「返事は?」

「……はい、乳母様……」

 震える声で、クリスティナはようやくに答えを返した。自分は今から、祖国の為に娼婦へと堕とされる。輿入れの供としてゾライユへ行くことを、身に余る栄達と喜んだ自分はなんと愚かだったのか――。


「母上様、こちらで?」

 メラニーアンの声が響き、さらりという衣擦れの音がした。

 メラニーアンが運んできた、そのみだりがわしい型のドレス、刺激の強い下着までもが、クリスティナの身体に合わせて用意されたものであることは、もはや疑う余地も無かった。

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