氷血の皇子

桐央琴巳

第一部 胎動編

第一章「訪客」

1-1-1

 氷の都、アスハルフ。

 寒風吹き荒ぶそこは、『狼心皇帝』エクスカリュウトが支配する、北方の軍事大国ゾライユ帝国の帝都である。

 その場末のいかがわしげな一角に、心と身体の暖を求める男たちが、凍てついた冬の間にも、雪道に橇を走らせて、夜毎訪れる退廃的な店がある。

『小夜啼鳥の館』

 細腕の女主人が切り盛りする、美女揃いと噂の娼館だ。


「おお寒い」

 肥りじしの身体をぶるりと震わせながら、また一人男が店の扉をくぐった。

 毛皮の帽子と外套についた粉雪を払い落して、内扉の敲き金をノックすると、覗き窓から黒々とした用心棒の目がぎょろりと覗いた。いつものことだが心臓に悪い。内心でぎょっとしながらも、男は内扉が開かれるのをじっと待った。


「いらっしゃいませ、旦那様」

 得意客の顔を確かめて、用心棒が厚く重い内扉を開ける。暖かな広間から、煌びやかに着飾った女たちが手を伸ばして、男の身体を室内に引っ張り込んだ。

「いやあ、ここは、いつきても天国のようだな」

 帽子や外套を馴染みの女に預けながら、上機嫌で男は女主人の姿を探した。


「ようこそお越し下さいました」

 年齢不詳の美しい女主人は暖炉の脇にいた。豊かな胸元を強調するようなドレスの上に深紅のガウンを纏い、形のよい脛を誘うように覗かせて、しどけなく寝椅子にもたれかかっている。


「ミレーヌ、相変わらずあんたは好い女だなあ」

 男は舐めるような目つきでミレーヌを眺め、図々しくも彼女の隣に座ってにじり寄った。


「本日はどうなさいますか? ニーテもベリタも今でしたらすぐにお相手できましてよ」

「二人とも悪くないが、今夜は酷く冷えてしまった。あんたのその白い膚で温めてはくれんかね?」

「それでは、あちらのテーブルで、他の皆様と勝負なさって下さいませ」

 ミレーヌは艶やかに微笑み、カード賭博に興じる数人の男たちを閉じた扇で示した。


「あの方たちが賭けていらっしゃるのは今宵のあたくし。いかがなさいますか?」

「ふん、わしも男だ。受けて立ってくるとしよう」

「楽しみに待っておりますわ」


 にこやかに男を見送って、ミレーヌは扇を広げ嘲笑が上る口元を隠した。

 勝負の行方はもう決まっている。カードを配るのは一流の賭博師だ。今夜も彼のような吝嗇な男ではなく、金回りの良い上客をミレーヌの寝台へと導いてくれることだろう。


 ミレーヌは生来の美貌と肉体を磨き上げて、自分の身体を第一の武器に世を渡ってきた女である。場末の娼婦らしからぬ品格や教養も魅力的だと世辞を言われても、所詮、娼館を訪れる男たちの目当ては女の肉だと割り切っている。



 また敲き金をノックする音が聞こえた。覗き窓を覗いた用心棒が、不審そうにミレーヌの傍にやってきてひそりと耳打ちをした。

「何ですって?」

 ミレーヌは思案して、それからおもむろに立ち上がった。

「お通しして頂戴。あたくしがお出迎えします」


 この辺りでは奇異なまでに珍しい、赤銅色の肌の用心棒は無言で頷くと、大股で持ち場に戻り内扉をいっぱいに開いた。

 屈強な男を四人従えた、身なりは良いが地味な服装の新しい客に、ミレーヌは優雅なまでの足取りで近付いてゆく。明らかに場違いなその客の登場に、卑猥な嬌声や睦言で溢れていた広間が、水を打ったようにしんと静まり返った。


「ようこそ、『小夜啼鳥の館』へ。奥方様・・・

 揶揄するような微笑を浮かべながら、ミレーヌは傲然と客を見下ろした。

 深く下ろされた外套の頭巾から、僅かに覗く口元や顎はぎすぎすと四角張っている。客は、女の潤いを失って久しい、鶏ガラのような老境の女であった。好色な夫の浮気現場を押さえに来たか、色事に溺れる愚かな息子を取り返しにでも来たのだろう。


「どなたをお探しか存じませんが、おそらくここにはいらっしゃいませんことよ」

「いや、見つけたぞ」

 くぐもった声で女は答えた。遠い記憶を揺さぶるその響きに、ミレーヌの肌はぞぞと粟立った。


「ずいぶんと探させてくれたものだ、クリスティナ」

 女は頭巾をずらして、ミレーヌにその顔を覗かせた。権高な鷲鼻につり上がった薄い眉、そして齢重ねてますます頑なになったような目――。


「懐かしい名でお呼びになること」

 美しい頬を強張らせながら、ミレーヌは鈍く光る女の眼差しを受け止めた。

 クリスティナ――、それは、ミレーヌが己の過去と共に祖国の土に埋めて来た、二度とは聞く筈のない真実の名であった。



 静寂を破るようにパンパンと手を打って、ミレーヌは今宵の客が定まっていない娼婦たちを呼んだ。

「ニーテ、エブリン、ヤンヌ、ベリタ、こちらへ来て、お連れの方たちのお相手をなさい」


 名を呼ばれた四人の娼婦たちがおそるおそるやってきて、女の従者たちの腕を引いてゆく。それを止めようとする女の肩を掴んで、ミレーヌは扇で隠しながら女の耳元に唇を寄せた。


「あなた様の伽はあたくしが、乳母様・・・

「覚えていたか」

「忘れられるとお思いでいらっしゃいますか?」

 ミレーヌは薄い水色の目を細め、刺々しく囁いた。


「どうぞご一緒においで下さいませ。何の話があるのか存じ上げませんが、ここではご都合が悪くていらっしゃいますでしょう?」

「……ふん、通されてくれようか」

「畏まりまして、楽しい時が過ごせますよう最上級のお部屋にご案内いたしますわ」

 からかうように手を引いて、防音を重視した特別室に、ミレーヌは女を連れ込んだ。

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