ウィリアムの絵画

天野維人

プロローグ



 鈴の音に似た虫の声すら聞こえない、涼し気で静かな秋の夜だった。


 のんびりとした足並みで大理石の廊下を進んでいると、革靴の底が硬い床を鳴らす乾いた音だけが響き渡る。

 薄暗い館内を懐中電灯の細い光で照し、その先に並ぶ真っ白な石膏像や壁掛けの色鮮やかな絵画など、様々な作品達の姿を視界に捉えた。


 まずエントランスで出迎えてくれるのは、大きな馬の背に跨って巨大な剣を掲げる誇り高き騎士の銅像だ。

 名前をジークハイドという。中世ヨーロッパにて活躍した騎士の気品と荘厳、そして力強さを表現した作品だ。


 彼の傍を抜けて奥に進むと、様々な大陸の年代物陶器が並ぶ道が続く。

 アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、中国、その他様々な国の特色と時代が入り乱れた、煩雑な様に見えて趣のある空間だ。

 ずっと眺めていれば不思議と心が穏やかになる。


 程々にしてさらに奥へ進むと、ギリシャ石膏像が並ぶ道に続く。

『色』という名の汚れが一切ない清廉な姿で、人間の美しく躍動的な姿が再現されている。

 いずれもが歴史的・美術的に価値のある作品達だ。


 そして石膏像の道を抜けると、いよいよ広い空間に辿り着く。

 そこは無数の絵画が飾られているエリアで、それらは壁や柱、天井などの至る所に飾られ、色彩鮮やかな絵画の世界を四方八方で楽しめる空間になっている。

 様々な時代や人、国や大陸を渡ったものばかりで、どれもが値打ちものだ。


 僕はこの美術館が、これらの作品達が大好きだ。


 芸術家達によって生み出されたこれらの作品群は、何百年経っても人々の心を奪う魅力が損なわれることはない。

 そのうち動き出すのではないかと思う程満ち溢れる躍動感や、作り手の熱意から滲み出た特異性を一点に集約した様な妖しさを作品の一つ一つから感じることもある。

 ただ残念なことに、作品を見慣れてしまった僕にとっては少々新鮮味に欠けるわけで、姿形の変わらない彼等をじっくりと眺めることは殆どなくなった。

 今日もいつも通り、彼等がを確認するだけ。


 これが僕の仕事。

 お客さんが誰一人やって来ない、とても退屈な仕事だ。


 来たら来たでそれこそ厄介だが、今まで一度も来たことがないし、これからもきっと来ないだろう。

 あまりにも退屈で、右手に握る懐中電灯のスイッチを親指の先で遊ぶ様に何度も切り替え、光の点滅を繰り返す。


「はぁ……退屈だなぁ」 

「あら、この私を前にして退屈だなんて、よくもそんな失礼なことが言えますわね?」


 ふと、若い女の声が聞こえてきた。

 しかし警備の仕事はいつも僕一人だから、ここには僕しかいないはずだ。

 それに声の出元は背後からだったが、僕の知る限りそこには壁に飾られた芸術品しかない。

 あえて背後の壁には光を当てないよう周囲を見渡す。


「あなた、世界で一番美しいと謳われるこの私の隣にいられることがどれだけ光栄なことなのか、まだ分かっていないのかしら? しかもあなたは日が昇るまで私と共に過ごすという最高の時間を毎晩の様に味わっているというのに、それを退屈と思うだなんてあなたいったいどれだけ偉いご身分になったのかしら?……ってちょっと、あなた聞いてる?」

「あーはいはい。聞いているよお嬢様」

「こっち向いて言いなさいよ! なによもう! あなた、最近私の扱いが雑になってないかしら!?」

「いえいえ、そんな事はありませんよ。ただ、館内はお静かにしてもらえます? 他のお客様にご迷惑が掛かりますので」

「私とあなたしかいないじゃない! いいからこっち向きなさいよ!」


 女の声が少し喧しくなってきたので、仕方なく振り返って背後の壁に光を当てる。

 そこにあったのは一つの絵画だ。

 僕はその絵画に懐中電灯の明かりを向け、下からなぞる様に照らす。


「まぶしっ! ちょっと! 懐中電灯の光は正面から当てないでって言ってるでしょ!? 早く下げて!」

「ああ、ごめんごめん。よっと」


 僕は懐中電灯を下げ、絵画の隣にある照明操作盤のスイッチを倒す。

 すると絵画の上に備えられた照明が点灯し、淡い光が絵画を照らした。


 光によって露わになったそれは、白いドレスを着た若い女性の肖像画だ。


 まるで写真の様にリアルで、魅力に満ち溢れた美しく可憐な姿を正面に向けている。

 百年以上前に描かれたものでありながら、その輝きは全く色褪せていない。


 とても綺麗だ。


「ふう……まったく、退屈だったのは私の方よ! 閉館からあなたが見回りに来るまで暗い所でずっと一人なんだから、来るならもっと早く来なさいよね!」


 女の声はその絵画から発せられていた。

 しかも描かれている女性が声に合わせて表情を変え、体を動かし、身振り手振りまでして感情を露わにしている。

 まるで生きているかの様に、絵の中の女性は動いているのだ。


「わかったわかった、次からはもっと早く来るよ」

「当然よ! ま、私もそこまで咎めるつもりはないし、分かればいいのよ分かれば」


 女性は腕を組んで不機嫌そうな表情を浮かべていたが、気付けば満足気な表情に変わっていた。

 いつもの僕等の他愛ない会話だ。

 ついでにいつもの挨拶も済ませておこう。


「さてと。では改めて……こんばんは、ソフィア。今夜もご機嫌麗しゅう」

「あら、こんばんは、ウィル。今夜もご苦労様」

 

 僕達は互いの名前を呼び合い、互いにうやうやしくお辞儀をして、そして互いを見つめ合う。


 これがこの美術館で出会った僕らの、高貴で高価な彼女と下賎で安価な僕の、いつもの挨拶だった。


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