3

 がくん、とエンジンの停止する感覚があり、列車は減速し始めた。


 (信号待ち?)


 トキ子は真っ黒な車窓の外を眺める。


 列車はいま、大きな山の麓を走っている。鬱蒼うっそうとした木々の闇を縫って、単線が延びているのが分かった。


 速度は徐々に落ち、遂に停車した。


 信号待ちではなかった。列車はプラットホームに接岸していた。


 構内は無人で、古ぼけた白熱灯がぽつりと点り、無人のベンチが影を落としている。遠くの改札も、駅員室も、やはり暗く、人気が無かった。

 しかし構内はきちんと整っており、廃駅のような荒廃感は微塵みじんもない。


 木々の下、駅は周囲の緑を映し、青白く闇の中に浮かび上がっていた。


 (妙に静かだ)


 同時にトキ子はその理由に気づいた。


 列車のエンジンが停止しているだけではない。やかましいまでの虫の音が、全く聞こえなかった。


 風がそよぎ、草木を揺らす音だけがこまやかに渡ってゆく。


 「ここだわ、もう行かなきゃ」


 女性は立ち上がり、旅行カバンを網棚から降ろし、子どもにも立つように促した。子どもは遊びを中断されてか、不満そうな表情で、しかしリュックを背負った。


 「え、降りるの?」

 「ええ。楽しかったわ、有難ありがとうね。良いご旅行を」


 彼女は嬉しそうにほほえんだ。そして相変わらず不満そうな顔の子どもの手を引き、そそくさと車両から出て行った。


 トキ子はひとり、ぽつんと残された。


 どおっ、と秋の風がふたたび渡り、木々は大きくざわめいた。肌寒く感じる。少し、寝台車に戻ろうか、という気分になった。


 列車はまだ停止している。


 プラットホームは相変わらず無人である。


 (おかしい)


 あのふたりは、こんな駅で降りるのだろうか。へんぴな、人気のない山奥の無人駅。時刻は深夜をとうに過ぎている。


 何かの間違いではないだろうか。


 そうだとすれば、こんな場所で降りてしまうと大変なことになる。

 切符の駅名を見れば、はっきりする筈だ。


 トキ子は立ち上がり、デッキに入った。


 先客がいた。車掌の黒猫だ。彼は少しびっくりして瞳孔どうこうをまん丸にしたが、トキ子であることを認めてすぐに相好そうごうを崩した。


 「車掌さん、さっきの……!」

 「しいっ」


 慌てて言いかけたトキ子を、車掌は口元に指を当てて制した。


 「おおきな声で話してはいけません」

 「だって、さっきのお客さんが」

 「大丈夫です」


 とにかく客車に戻るように、と車掌は言って、別の車両へ去った。トキ子は不承不承ながら客車に戻った。


 がくん、と車両が動き始めた。アナウンスも汽笛もなく、静かに、ゆるやかに。


 誰もいない無人駅のプラットホームは少しずつ遠ざかりつつあった。


 (誰もいない。あの二人は、降りなかったのかな。車掌さんは大丈夫だって言っていたし)


 そう思ったとき、彼女は目をまるくした。


 プラットホームは無人ではなかった。


 まるでラッシュアワーのように、たくさんの影がホームにあふれている。


 それは老若男女、雑多な群れであったが、よく見ると、みんな胸元に小さな灯りを捧げていた。蝋燭ろうそくだろうか、そのほのおはちらちらとゆらめいていた。


 いつのまにこんなにたくさんの客が降りていたのだろう。なぜか彼らの影は、どことなく透けておぼろげであった。


 そしてその中にあの女性と子どもがいるのを、トキ子ははっきりと見た。


 女性は車窓から見つめるトキ子に気がついて、あの笑顔を返してくれたような気がした。しかし、それは列車の通り過ぎる一瞬のこと——あるいはトキ子の見間違いだったかもしれない。


 ホームが遠ざかるにつれて、影もおぼろとなり、たくさんの灯りが蛍火のようにざわめくだけになった。


 そしてその蛍火は列になり、少しずつ山道を上ってゆき、闇にまぎれ、消えていった。


 その山のふもとを離れると、列車の経路ははふたたび木々の闇の中に戻る。


 そしてトキ子はようやく気がついた。車両が枕木を通過する音に重なって、鈴虫の音がさざなみのように耳を打つことに。

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