Cp.06 ガーネット

 見上げた頭上には、大量の水を滴らせる黒い物体が浮かんでいた。山と見紛うほどの大きさ。その形は鯨のような楕円形で、色味は星空と月の逆光で判然はっきりとしない。

 生まれて初めて見る超大型の飛行物体に呆気に取られた私は、ぽかんと口を開けて固まってしまった。ふいに肩を叩かれて正気に戻る。

「あまり近くにいると危ない。少し下がるぞ。」

 男が顎を持ち上げて離れるよう促す。私は無言で頷き、男が移動した位置までついて行く。

 飛行物体は、その巨躯に反してあまり物音がしなかった。水を滴らせながら、徐々に高度を落として近づいてくる。距離が縮まるにつれて、僅かに空気が抜けるような音だけが聞こえた。

 地面すれすれのところまで降下すると、飛行物体の胴体から次々に足が生えてくる。機体が無事に着陸すると、胴の側面部の一部が開き、中から階段が伸びてきた。

「これが俺たちの”船”、もといアジトだ。」

「随分と立派なものを持っているのね。」

「俺も拾われた側だから、どういう経緯で手に入れたのかは知らないけど、まぁまぁ快適だよ。」

「ふぅん。ま、あの洞窟よりマシならそれで十分。」

「あそこに比べりゃ、大方の場所はマシだと思うけど?」

「そうならありがたいわね。」

「突っかかるねぇ。」

 男は苦笑いしながら階段へと歩いてゆく。しかし、すぐに立ち止まってこちらを振り返った。

「そうだ。名前。」

「え?」

「名前だよ、アンタの。そういえば聞いてなかったなと思ってさ。」

「私の名前……。」

「まさか“モグラ”が本名じゃないよな?」

「殺すわよ。」

「冗談だよ。」

 男は肩をすくめる。

「でも、そういう風には呼ばれたくはないでしょ?だからまぁ、ちゃんとした名前があるなら、それを教えて欲しいなと思ってさ。」

 そう言われて、私は困った。親元にいた頃には、ちゃんと名前があったはずだ。しかし、長いこと呼ばれなかったうえに、見張り達にはずっと“モグラ”と呼ばれ続けていた。また、親からも名前を呼ばれることはないに等しかったし、自分を売り払った親のつけた名前なんてくそくらえと思い続けていたことも相まって、記憶の彼方に消し去ってしまっていた。

 素直に名前を忘れた、といえば、適当な呼称を付けられもするだろうけど、それで“モグラ”と言われてしまってはかなわない。この場で新たに名前を考える必要がある。さて、どうしたものだろう……。

 こちらが無言で思案していると、男はふと空を仰いだ。月の光が男の顔を照らす。そこに反射した光が、私の瞳を貫いた。

 ここに来るまで、あまり注意深く男の顔を眺めることはなかったが、光に照らされた男の瞳の色が、やけに印象的に映ったのだ。これまでの洞窟生活の中で、何度も見てきた色。それに価値があると推測できても、決して自分で取り扱うことは叶わなかった宝石の色。

 きれいだ。人の顔の中に、それが埋まっているとは、なんて贅沢なのだろう。そう思えるほど光り輝く、鮮やかな色。ああ、なんてきれいな―――

「ガーネット……」

「ガーネット?」

 男に聞き返されて、慌てて口を抑える。しまった。声に出ていたのか。

 動揺する私をよそに、男はほほ笑む。

「へぇ、ガーネットか。いい名前だな。」

「え?」

「アンタの髪の色みたいだ。」

 予想外の言葉に、声も出せずにまばたきを繰り返す。私の髪はそんな色をしているのか。にわかには信じがたい感想ではあるものの、そう言われて悪い気はしない。これまで緊張していた顔の筋肉が、自分の意思とは関係なくほころぶ。

「俺はユーグ。よろしくな、ガーネット。」

 ユーグと名乗った男は、右手をこちらへ差し出した。その意図が分からず、男に尋ねる。

「……この手は何?」

「何って、握手だよ、握手。こう、お互いの手を握る……え、知らない?」

 男が自分の右手と左手で握り合って何かを実演しているが、一向要領を得ない私に、驚きを隠せなかったようだ。

「何の意味があるの?」

「何のって……つまり、これからお互いよろしくねって意味だよ。そのための動作、的な。」

「ああ、そういう……。初めからそう言ってよ。」

「いや、伝わると思ったんだもん。」

 案外幼い物言いをするユーグに、思わずおかしくなって笑みがこぼれる。実際、こうしてまじまじと顔を見れば、それまでの肝の据わり方に反してあどけない部分が多く残っている。歳は17、8歳といったところか。

 動作の意味を理解した私は、一歩近づいて、ユーグに合わせて右手を差し出す。それを受けてユーグは、私の手をしっかりと握りしめた。強すぎず、弱すぎず、心地のいい力加減。ユーグの実演とは違う手の形に、こういった形でするものなのか、などと思いながら、同じくらいの力加減になるようこちらからも握り返す。

「改めて、これからよろしくな。ガーネット。」

「えぇ……よろしく。」

 ユーグはにこりと笑い、手を放して階段を上り始めた。その背中を眺めながら、ゆっくりと後を追う。

 人のことはまだ信じられない。誰かが誰かを利用しようとするのが、人間という生き物だという先入観は拭いようがない。けれど、この男、ユーグの事だけは、握った右手の大きさ分くらいは信じてみてもいいだろうか。

「……バカバカしい。」

 口の中で小さく呟く。人を信じることなどないと、擦り切れた心に誓っていた女が、たかが握手一つ、笑顔一つでほだされるなんて随分と安くなったものだ、と自嘲する。

 空っぽの右手に、まだ残る温みを握りしめて、私は一段ずつゆっくりとユーグの後を追う。この階段の先に、地獄ではない別の世界が広がっていますようにと祈りながら。

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