第37話

 時間ぎりぎりで教室に駆け込む。

「高城、早く席に着け」

 保健体育の渡辺が教壇に立っていた。

 格技の授業の穴埋めで渡辺が自習監督に来たのだろう。

 俺が席に着くのを待ってたかのように授業開始のベルが鳴った。

「よし俺は体育準備室に居るから何かあったら呼びに来い。各自静かに自習してるんだぞ。くけぐれも騒ぐなよ」

 そう釘を刺してから教室を出て行くが、そこは中学生だ。最初の1分間ほどは静かにしていたが、すぐに席を立ち友達同士で雑談を始め、真面目に自習をしているのは五人ほどだ。


 俺としても、教科書はおろか英和辞書と国語辞書も既に完全に頭に入っているので、自習と言われても何もする事が無い。図書室に行けるなら何かしら頭に入れておくべき本があっただろうが、流石に教室を出たのを見つかったら説教だ。

 誰にも見つからず図書室に行くのは可能だが、問題はこの教室に俺が居ない事を隠すのは不可能だ。敬遠されてクラスに友達が前田くらいしか居ない俺だが存在感が無いわけではない。

 考え事をしながら時間を潰すというのも可能だが、この一週間で考え事はシステムメニューを開いてからというのが身に付いてしまい、普通の状態で考え事をするのがとんでもなく贅沢で無駄に思えるようになってしまった。


 ふと思ったのだが、今寝たらどうなるんだろう? やはり意識が向こうの世界に飛ばされて、異世界での深夜に目覚めるのだろうか?

 興味が出てきたので寝てみる事にした……寝られない。昨日はベッドに入ったのが二時近くで、起きたのが五時半前と三時間半くらいしか寝てないのに眠くない。

 そういえば午前中も一度も眠気をおぼえなかった。

 もしかしたら異世界では寝る時間が早くて、現実世界での生活以上に多くの睡眠を取っているせいで、多少こちらで夜更かししても堪えないのだろうか?

 そんな結論の出ない考証をだらだらと続けていると五時間目終了のベルが鳴った。久しぶりに勿体無い時間の使い方をした気がする。


 六時間目は北條先生が自習監督になった。

 北條先生+自習は素晴らしい事だ。授業中と違って一時間自由に見つめる事に集中出来る。よし部活に行ったら自慢してやろう。

「高城君。どうかしましたか?」

 北條先生を見つめていたら、少し怒ったような目でそう言われてしまった。

 そうだ授業と違って、先生ずっと見てたらおかしいよな……待てピンチをチャンスに変えるんだ。考えろ、考えろ時間はシステムメニューを使えば幾らでもある。

「何か授業ではやらない数学の話をして貰えませんか?」

 ナイスだぞ俺。これで面白い話が出れば、先生の株も上がるじゃないか。


「数学の話ですか、そうですね少し違うけれどインド式の計算方法はどうでしょう? 話題になったのが七、八年前だから皆には新鮮かと思うんだけど」

 確か足し算引き算は小学校の担任の先生が教えてくれたのだが、教科書通りの計算方法と違うので学校側の方針としてはインド式計算法は教えないという方針だったのでさわりしか教わっていない。


 北條先生の説明に他の生徒達も興味を示し、なかなか良い雰囲気で授業が進んでいく。

 四則計算の内の加減は、いくつかのコツを掴めば確かに計算は速くなる。加減の混じった五つの二桁の数字の計算ならレベル一の頃の俺でも筆算を必要としないで計算が出来る位に便利なやり方だ。

 ただし乗除はそれぞれコツが使える範囲が狭いのがネックになる。

 狭い範囲だが役に立つ計算方法があると感じるか、狭い範囲にしか適用できない計算方法を憶えるのが面倒だと感じるかによって取り組む姿勢は百八十度違ってくる。


 前者は成績優秀者の中でもガリ勉タイプが多く、成績向上を至上命題とする彼らにとって、一度憶えてしまえば試験での計算時間を短縮出来る可能性があるなら憶える意味があると思ったのだろう。

 後者はそれ以外のほぼ全てだ。試験に出題されるかどうかすら分からない問題を、しかも十秒、二十秒短縮出来る程度のコツを憶える意味を感じる事は出来ない。

 結果、加減計算では自習時間にクラスの半分以上が食いついたのに対して、乗除計算ではほとんどが各自の自習に戻ってしまった。

 インド式計算法の根底にあるのは、単なる算数レベルの計算に数学的アプローチを施すという事であり、計算時間の短縮以上に数学的思考を身に着ける事に意味があるのだが、まあそれでも北條先生は満足しているようなので良かったとしよう。


「では六時間目を終えます。この続きは、また次の機会があれば──」

「えっ? もっと教えてくださいよ」

 ……前田。何故お前がインド式計算法に前のめりになる?

「僕ももっと知りたいです。何とか時間をとってもらえませんか?」

「私もお願いします」

 前田に続いてガリ勉君達が食いつくのは分からないでもない。だが前田はおかしい。何が狙いだ? まさかこれまでの一連の事件にこいつが……無いわ。


「では放課後、部活の後は……みんな塾があるから無理ね。土曜日にでも学校にこられるなら特別補習という形で学校に申請しておくけどどう?」

 北條先生の提案にガリ勉君達と前田が賛成する。先生も嬉しそうだ。

 良かった。このままこいつ等が先生と打ち解けてくれれば、少しは状況が変わっていくだろう。良かった。本当に良かった……良くねえ!


 俺は前田の後ろ襟を掴むと、教室から引きずり出す。

「前田。お前キャラが違うだろ。偽者なのか?」

「な、何をいきなり」

「何故お前がインド式計算法にハマる? ありえないだろう」

「ありえないとか。意味わかんねぇよ。大体さ、インド式計算法って素敵だろ」

「素敵?」

 こいつやっぱり偽者に間違いない。本当の前田は既に殺されているパターンだ。

「だってさ、面倒くさい計算が楽に出来るようになるんだぞ。二桁同士の掛け算が暗算で出来るんだぞ素敵としか言いようが無いぞ」

 ……面倒と楽。そういえばこういう奴だった。楽をするためには手を抜かないんだ。

「疑ってすまなかった。実にお前らしい動機だ。納得した」

「えっ、何が?」


 これが後に数学の世界的権威となる前田 陽一が数学への志を持った最初にして大きな一歩だった……嘘だけど。



 帰りのHRを終えて再び教頭の動きを探る。

 部活の開始は四十分後だ。着替えと準備体操の時間を含めると三十分も無い。今日が掃除当番の日でなくて良かった。

 周辺マップでは三階の廊下を歩いている教頭が確認出来た。奴はこの清掃時間の間、校内を良く見回っている……しかし、細かい事にうるさく文句をつけるので生徒達からは不評だ。


 階段を上がり奴の背後へと早歩きで近寄る。やはり後姿にあは『珍しく1人で散歩するグレイタイプ宇宙人』というタイトルが似合う。そして御付のはずのMIBが何処でサボってるのかが気になって仕方が無い。


 半径一メートル以内に奴を捕捉してシステムメニューを開いて、スーツの胸ポケットからMP3プレイヤーを回収し録音内容を確認しようとしたが、バッテリーの残りがかなり少なくなっている。ここで内容を確認して更にバッテリー残量を減らすか……いや、このまま録音を続行して部活終了後に回収だな。

 そのまま奴の胸ポケットに戻したが明日以降も盗聴を続けるなら何か手を考えないとならないが、この中途半端な地方都市という立地と中学生という立場が選択肢を狭める。

「また不法侵入か……」

 そう呟くと、システムメニューを解除し、その場を立ち去った。


「主将。鈴中は結局学校には来なかったようですね」

 部室で空手着にきがえていると香籐が話しかけてきた。そうだね、鈴中は明日も明後日も、ずっと学校には来ないよ。

「無断欠勤しているようだし、いきなりの荷物を引き払った事と良い。何らかの問題を抱えて失踪した可能性があるな」

 やったのは全部俺だけどな。明日になっても連絡が取れなければ、教頭辺りが奴のアパートに出向くだろう。是非ともその時の顔を見てみたいものだ。

「どうなるか心配ですね」

「ああ」

 勿論、この心配の対象は北條先生であり鈴中のことなど、空手部一の人格者である香籐でさえ鼻糞ほども心配していないだろう。

「鈴中の事はさておき……一年共は大丈夫か?」

「一応、我々でフォローはしておいたので大丈夫だとは思います」

 毎年の事だが、今朝のアレで大島に嫌気が差す奴が現れるのだ。俺もそうだったしな……

「そうか、今朝のと一週間後のアレを乗り越えれば一年共も落ち着くだろうから、フォローを頼むな」

 基本的に一年生のフォローは二年生の仕事だ。普通の体育会系の部活では二年生が一年生をいびる事が多いが、我が空手部にはそんあ悪しき習慣は無い。

 部員が一致協力しないと生き残れないのが悪魔の箱庭である空手部の絶対的法則だからだ。

 また三年生が一年生のフォローを積極的に行わないのは、継続的に強固な上下関係を維持するには、来年には居なくなる俺達を新二年生が頼りにするのは問題があるからであり、別に俺達が一年生を可愛がる気が無いという事ではない。



「よ~し、集合!」

 一糸の乱れも無く整列した部員達を前に大島は顔を歪める。これは説諭する理由を見出せなかった時の残念さを表している。

「一年。今朝のランニングだが、まああんなものだろう」

 分かりづらいと思うが、これは大島的には最大の賛辞だ。中学一年生なら千五百メートル走を五分程度で走る事が出来れば上出来と言えるだろう。つまり、そのペースを余り落とすことなく千五百メートル走を十本近く休み無く続けた様なものだ……はっきり言ってあり得ない事がここでS県で起きているのである。


 そう良く考えると一年生達もかなりスペックが高い。この一週間で毎日ゲロを何度も吐きながら走り続けた成果があったと言うしかない。

 確かに大島は負荷を掛けるぎりぎりを見極めるのが上手い。だから部員達は猛特訓の割には故障が少ない。だがそれもドSの為せる業と思えば感謝の念は全く湧いて来ない。

「そうだな。三ヶ月後の夏合宿までには、あの程度の距離はスキップしながらでも付いて来られるようにしてやるから安心しろ」

 安心する要素が何処にも無い。俺がおかしいのか? いや、それ以前に合宿の事を口にするなんて余計な事を!

「夏合宿ですか? そんなのあったんですか?」

 あえて一年生達には伝えていなかったのに、知れば一週間後の試練を突破する前に心が折れてしまいかねない。


 どうやって彼らに合宿の事を説明してやれば良いんだ?

 俺が一年生の時に「合宿とは言うけど、『宿』なんて無いしテントも無いけどね。おかしいな。あはははははっ!」と狂ったように笑った野口先輩を思い出す。

 去年の西城先輩も似たようなものだった。俺はどうすべきなのだろう? やはり伝統に従うべきだろうか?


 そんな俺の苦悩を無視して大島は一年生達に答える。

「ああ、楽しい合宿だ。お前達も楽しみにしておけ」

 一体誰にとって楽しいのか、一週間も大島に接していれば一年生達にも分かっているので俯き肩を震わせている……頼むから折れるな心。


 ランニングによる体力向上週間は後一週間続くので、練習後の部室の前には漁港の市場のマグロの様に一年生達が並べられている。

 シャワー室という名のブルーシートに囲われた水浴び場から俺が出ると、マグロの一匹──もとい、新居がゾンビの様にムクリと上半身を起こす。

「主将。合宿って本当なのでしょうか?」

「本当だ。合宿は本当にあるんだ」

 合宿と呼んで良いのか俺には分からないが、そう呼ばれるものは確かにある。

「ど、どんな合宿なんですか?」

 まだお前達に伝える心の準備が出来てないのに畜生。

「合宿地は、避暑をかねて山で行われる。合宿中は空手の練習はしない。今やっているようなランニングも無い」

 取りあえず嘘は吐いていない。ものは言い様だ。

「ほ、本当ですか主将!」

 俺の言葉に、ゾンビ達が次々に蘇る。

「でも、山なら滝に打たれたりとか理不尽な目に遭うんですよね?」

 そんな甘ったるい予想にすら怯える一年生に、俺の怒りが爆発した。

「夏に滝に打たれるくらい何が理不尽だ! 滝に打たれるのは冬だ馬鹿野郎! ……あっ」

 言っちゃった。言っちゃったよ俺。でも夏の滝に打たれるくらいは油断すると心臓が止まりな程冷たいだけで、実際に止まった奴はいないし、考えようによっては、ちょっと勢いのあるシャワーだよ……そうだよね?


 しかしどう自分に嘘を吐いてみても、大失言には変わりなく、一年生達は再び床の上でマグロと化し声を殺して涙を流す。

 香籐は沈痛な面持でこめかみを押さえている。この後どうフォローすべきか頭が痛いのだろう……ごめんな。もう黙るから許してくれ。


「夏の滝行なんてシャワーだろ。十日間も風呂無しなんだから、むしろご褒美だ」

 田村が俺が考えているのと同じ意見を口にしている。

 だけど頼むからそれ以上は言うな。もう少しソフトに伝えないと一年生の心が、心が……


「言っておくが、合宿だけど宿には泊まらないしテントも無しで、地面にブルーシートを敷いて、その上に寝袋で寝るだけだからな」

 ああっ櫛木田までもが、どんどん合宿の全貌を暴露し始める。

「飯は自分達が取った山菜や魚。罠で獲ったウサギは自分達で捌いて食うんだからな」

 伴尾。それは言うたらあかん事や!

 一年生達が流す涙も一気に大増量で、流石に拙いと気付いた三人は「ほ、ほら風呂嫌いにはぴったり?」とか「星空を天井にして寝るのってロマンティックだろ?」とか「崖の様な斜面を命懸けで降りて罠を仕掛けて獲って捌いたウサギは美味かったぞ」と彼らなりのフォローを入れていたが……良いからお前らは黙れ。俺と一緒に黙ってろ。



 着替えを終えると、教頭からMP3プレイヤーを回収しに行く。幸い教頭はまだ校内に居た。

 階段の踊り場に立って何かをしている教頭の後ろにそっと気配を殺して忍び寄るとシステムメニューを起動。

 肩越しに胸ポケットからMP3プレイヤーを抜き取ろうとして、奴の手に携帯電話が握られている事に気づく。

 チャンスだ。これを待っていたんだ。奴がどんなに携帯のセキュリティーに気を使っていても、奴が使用中の携帯は、データの消去やセキュリティー関連の設定などを除けばほぼ無防備な状態で、指紋認証など関係ない。


 まずはMP3プレイヤーを回収してから、奴の携帯に手を伸ばして収納する。そして自分の携帯を取り出して挿してあるSDカードのデータを確認する……うん見事に空だ。契約時にただで貰った二Gのカードでそのまま挿してあったが一度も使っていない。写真も動画もメールアドレスのバックアップも無い。実にぼっち仕様の携帯ならではで泣けてくる。


 とりあえずSDカードを引き抜くと、教頭の携帯のカードと自分のカードを交換して、フォーマットを掛けると、メール内容とメールアドレスや電話帳を次々とコピーしていく。勿論、それらのデータには全て目を通してシステムメニューの【ログデータ】-【文書ファイル閲覧】の中にフォルダを作って保存する事も忘れない。

 メールの中には鈴中への具体的な指示などが残されており、このメールを表に出すだけで教頭を破滅させられるだろう。だが公ににすれば鈴中の犯罪も暴かれる事になりかねないのでパスだ。


 別の方法で奴を追い込む。そして必ず破滅させてやる。

 北條先生にセクハラ──それは違うか、ともかく鈴中を使って嫌がらせを続けただけではない。

 完全無欠の性犯罪者である鈴中を処分するどころか、それをネタに脅して自分の手足にするために問題を放置し、結果としてうちの学校の生徒達が犠牲になるのを見過ごしてきたのは絶対に許すわけにはいかない。

 このつるっ禿げで白熱電球の様な頭をねじ切って、LED電球に取り替えて省エネに協力してやりたいくらいだ。


 SDカードを元に戻して、操作画面も元の状態に戻して携帯を奴の手の中に押し込むとシステムメニューを解除する。

「教頭先生。朝はありがとうございました。これから北條先生に話を聞いて貰いに行きます」

 いきなり俺に背後から声を掛けられて驚いた教頭は慌てて、携帯を取り落とす。

 俺が素早く拾って差し出すと慌てて奪い取る。

「あっ、ああすまない。北條先生にはよろしく」

 挙動不審といった様子で、慌しく教頭は立ち去る。犯罪の証拠が詰まった携帯を他人に触られるのが嫌なのは分かるが、あんなあからさまな態度じゃ、他人の嫌がる事が大好きな大島に奪われても知らないぞ。



 数学準備室の前に来た。

 中に北條先生が一人で居るのは既に周辺マップで確認済みで、更には隠しカメラや盗聴器の類は念入りに検索を掛けて存在しない事も確認済みである。

 だが一つ問題がある。北條先生には教頭から「クラスの事で話がある」と伝わっているはずだが、当然クラスの事で話など無い。

 いっそ教頭のセクハラに付いて聞いてみるべきだろうか?

 嫌だろうな~自分がされてるセクハラについて生徒に聞かれるなんて。女心なんて全く分からないが、いじめを受けている奴が「いじめられてるの?」と聞かれるくらい嫌だという事くらいは想像出来る。


 とりあえず中に入らなければ先には進まない。考えるなら実際に北條先生と顔を合わせた上でシステムメニューを開き長考に入れば良い。

 ノックすると中から「どうぞ」と返事があり、ええ声だわぁ~とうっとりしながら「高城です」と名乗り、ドアを開けて中に入る。


「高城君。先程はありがとう」

 勧められて椅子に座ると、いきなり感謝の言葉を貰った。

「御蔭で、久しぶりに生徒達と打ち解けられた気がするの」

「いえ、別に俺は……」

 そんな嬉しそうな顔でじっと見つめられたら何も言えねぇ! フラグ立ったの? ついに立ったの? 立った、立ったフラグが立った? と踊りだしたい気分だ。

「私は先生なのに、生徒の貴方にこんなに気を使わせて。本当に頼りにならない先生でごめんなさい」

 ……先生と生徒。うん。ちゃんと分かってたんだよ。でもちょっと浮かれてみたかったんだ。

「俺達にとってこの学校で尊敬出来る先生は北條先生だけです。これくらいの事なら幾らでも力になります」

「でも……」

「誰かの為に力になれる。ましてや尊敬する人の力になれるなら、これ以上の喜びはないと思います。だから先生が一人でどうにも出来ないと思うような壁にぶち当たったなら、どうか俺達を頼ってください」

「も、もう……凄い殺し文句だわ。俺達の『達』が無かったら、まるで口説かれてるみたい」

 頬を染めながら冗談めいて答える……すいません。半ば本気で口説いてます。先程からの台詞の中の「俺達」は「俺(とどうでも良い人達)」です。


「あっごめんなさい。自分の話ばかりで……クラスの事で話があったのよね?」

 やっぱり伝わっていたか、さてどうしたものか、やはりセクハラの事は聞いておいた方が良いとは思うんだ……悩んだ末に口を開く。

「実はクラスの事じゃないんですが、先生って教頭先生と何かトラブルがありましたか?」

 少しオブラートに包んでみた。

「教頭先生とですか? いえ何もありませんよ」

 ……あれ? 確かにこの答えは予想範囲だが、問題なのは顔色や口調から全く嘘をついている様子が感じられないという事だ。

 何でこんな事を聞かれたのか分からないといった様子で、もしこれで北條先生が嘘を吐いて惚けていたのだとしたら女性不信に陥る。

 つまり、やはりセクハラ云々は俺の勝手な思い込みだという事。そして別の理由で教頭は北條先生を深く恨んでいるという事になる。

 これは拙いな。セクハラを拒絶されての逆恨みなら、鈴中が居なくなった事で嫌がらせも出来なくなると思っていたが、理由の分からない恨みを持っているなら鈴中が居なくなった事で直接的な方法での攻撃に変わる可能性がある……まあ空手部の部員が交代で見張ってるから余り心配はしていないけど。


「そうですか、変な事を聞いてすいません。そんな噂を聞いたんで気になっただけです」

 俺は動揺を抑えつつ、笑顔で話を終わらせた。



 家に帰り、バッテリーの切れたMP3プレイヤーを充電器に接続するとマルを連れて散歩に出る。

 まずはいつもの川沿いの散歩コースを走る。

「どうにも北條先生を前にすると冷静で居られない。自分が何をするべきか、何をしたいのかが分からなくなってくる……」

「わぅ?」

 走りながら思わず呟きが漏れてしまい。マルがどうした? 言わんばかりにこちらを見る。まるで俺の言葉が分かっているみたいだ。


 いつもの折り返し地点からの復路は別の道を選択する。

 監視カメラの死角を縫って、川から二キロメートルほど離れて併走するかたちの県道沿いに教員名簿で確認した教頭の家を目指す。

 目的地まで二百メートルほどから俺は監視カメラ以外に人間の動きにも注意を払う。

 検索対象は屋外に居て、一定範囲から動かずに、視線の方向が頻繁に変化する者。それが大島が手配しただろう見張り。そして多分鬼剋流の人間だ。

 昨夜の失敗を踏まえて、見張りは一人ではなく数人──三人前後でチームを編成するはずだ。俺ならそうする……勿論、可能であれば。


 まだ人通りのある時間帯の町中で、周囲から不審に思われないように見張るためには双眼鏡の様な道具は使えないはずだ。

 肉眼のみで数名で見張る事の出来る範囲は最大でも半径百メートル程度だろう。しかも半径百メートル内でカバーできる範囲も極一部に限られる。

 つまり、対象である教頭の家の傍に一人。そこにつながる道の辻に残りをを配置する……大島のたくらみはゴリッとお見通しだ!


 まずはセーブ。そして先程の検索条件にヒットした前方の怪しい二十代前半の男に接近する。

「すいません道を聞きたいのですが?」

 犬を連れて散歩中に道を聞きたいも無いもんだ。

「あっああ、何処に行きたいんだ?」

 白々しさは相手も負けていない。大島から俺の顔写真でも見せられているのだろう一目で顔色を変えつつも、平静を装い答えようとする……だが素人だ。素人の俺がそう感じるくらいの素人だ。探偵なんかではなく鬼剋流の門下生で、大島のパシリなのだろう。


 システムメニューを開いて、相手のパンツや上着のポケットを探り財布を抜き取る。

 中に有った免許証から名前が分かった。田中 真(たなか まこと)二十三歳。住所は──東京だ。大島に呼び出されたのだろうわざわざ東京からご苦労な事だ。


『ロード処理が終了しました』


 ロード処理を繰り返しながら、大島が手配したと思われる四人の顔、名前、年齢、住所を憶えた。自分の記憶以外は巻き戻るからマップの検索項目に設定も巻き戻ってしまうので、改めて自分の記憶の情報で設定する。

 これで見張りの人間の動きは周辺マップどころかワールドマップにも表示可能だ……流石に広すぎてワールドマップは意味無いけど、広域マップとワールドマップの間に、もう一段階、いや二段階くらい縮尺の大きなマップが有った方がいい気がする。ゲームの様に運営に要望が出せたら良いのだが……



 その日は何もせずに、大島の動きの上を行った事に満足しながら家に帰った。

 部屋で鈴中のパソコンを【所持アイテム】内から取り出すと、奴のメールを確認していく。

 教頭とのメールのやり取りを確認すると、時折具体的な内容について踏み込んでいるが、スマホのメールだけでも教頭を犯罪者とするには十分である。

 しかし、俺が今一番欲しいと思っている。鈴中と犯罪に関係せず、また北條先生へ迷惑の掛からない範囲で奴を犯罪者にするための証拠は無かった。

 またMP3プレイヤーで録音した音声データの中にも犯罪に関わるような発言は無かった……まあ、精神的に余程追い詰めなければ校内で不用意な発言はしないだろう。

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