第八話 これでお相子
「アイラ! こっちへおいで!」
「ま、待って! すぐ行くから!」
──早く早くと少女が急かす。
早く、早く行かないと。早くあの手を握らないと。
吐き出しそうなほどの焦燥感の中、私は足が千切れんばかりに走った。
けれど、走っても走っても、先を行く少女に追い付くことが叶わない。
それどころか私との距離はどんどん離れていく様に見える。
──それでも。
少女が差し出す手を握らねばと、私はひた走る。
どれくらい走っただろうか。
数秒なような気もするし、数分のような気もする。
もしかしたら数時間走り続けていたのかもしれない。
そんなあやふやな感覚を辿ってようやく、私は少女の小さな手を掴んだ。
「やっと追い付いたね、アイラ」
少女は心から嬉しそうに笑った。まるで陽だまりの様に暖かい笑みだったと思う。
──そう感じた瞬間だった。
私は少女の顔が見えないこと、声が幾重にも重なって性別も年齢も判別出来ないことに気が付いた。
まるで少女がこの世界に存在してはいけないと、何者かが少女をこの世から排除したかのように、少女を認識できる物がまるでない。
では、何故私は今少女が笑ったと思ったのだろう。
何故少女を少女と認識出来たのだろう。
何故、私はこんなにも胸が苦しいのだろうか。
少女のに起こる異常に気が付いてから、私の中から零れ落ちていくかの様に少女に関する情報が失われていく。
ついさっきまで見えていたはずの少女は、その全身を真っ黒に塗りつぶされていた。
握っていたはずの小さな手のひらも、感触はある。
だが恐ろしいことに、私にはそれが手のひらなのか分からなかった。
やがて、少女を取り巻く景観も、私たちが今立っているはずの地面も、全てが、世界が真っ黒に染まっていく。
いずれ、私も真っ黒に染まるのだろう。そう私の勘が伝えてくる。
でも、その前に──
「待って! あなたはっ!」
聞かなければいけない気がした。
そうしなければ、私はこの先一生を後悔しながら生きるんだと予感した。
──あなたは……誰?
そう叫んだはずの私の声ももう響かない。
予想通りと言っていいのだろうか。
気が付けば見える景色が全て真っ黒になり、私は自分が存在しているのかすら分からなくなった。
しっかりと握っていた少女の手のひらの感覚も今はない。
ここはいったいどこなのだろうか。
そもそも何故私はこんな場所に居るのだろうか。
いや、前提として、私は……生きているのだろうか。
様々な疑問が、私の不安を一層に煽る。
怖くて怖くて、泣き出してしまいそうなほど怖くて。
それなのに、もう泣くことも出来ない。
いや、もしかしたら泣いてるのかもしれない。
私が理解していないだけで、感じていないだけで……
「アイラ」
私を呼ぶ声が、聞こえた気がした。
しかし相変わらず世界は真っ黒で染まっていて、どこから呼びかけているのか分からない。
私は縋るような思いで辺りを見回す……見回したと、思う。
──どこ? どこにいるの!?
「わたしは、ずっとあなたと一緒に居るよ。あの日からずっと……ずっと一緒に居るよ? だから……だからさ」
その暖かい声は震え切った私の全身を優しく包むかのように、私の中に染み込んでいく。
私はこの声を知っている。
この温みを知っている。
しかし、思い出そうとすればするほど、思考は空を切り、霧散する。
視界の奥に小さな光が見えた。
小さかったその白い輝きは私を飲み込むかのように輝きを強くしていく。
ずっと暗い所に居たため、目の奥が焼けるように痛い。
それでも私は必死に目を開け、光の奥、向こう側に居る人の形を成す影を、声の主の方を見据えた。
──あなたは前を向いていて。わたしを振り向かなくていいから……ずっとずっと、笑っていて。
♢
「──────」
んっ、なんだろう。なにか聞こえるような……
「……イラ! ……アイラ!」
「うわっ! えっ!? な、なにごと!?」
誰かの大声で目が覚めた。
あまりにも突然のことに、アイラの心臓が壊れたかのように激しく脈打つ。
何事かと辺りを見回す。
薄暗いくて判別にやや時間がかかったが、どうやらここはテントの中のようだ。
そして目の前には白い毛玉が──
「ぎゃあああああああああおばけぇえええええええええええええッ!!」
「うお!?」
咄嗟の事に気が動転し、気が付けばアイラは毛玉に向かって思い切りビンタを見舞っていた。しかしその攻撃は毛玉に当たる前に、アイラの攻撃は毛玉の細く白い腕に捕まれてしまう。
「いやぁあああはなしてぇええええ!!」
(なに!? なんなのこのヘンテコな魔物は! 気持ち悪い気持ち悪い気持ちわる──)
驚きのあまりじたばたと暴れるアイラを強い力が押さえつける。抑えられた瞬間、アイラはどれだけ抵抗しても全く身動きが取れなくなっていた。
「落ち付けアイラ! 俺だ! ジークだ!」
瞬間恐怖が倍増したが、聞きなれた声を聞いて暴れようとするのをやめる。
アイラが顔を庇うように覆っていた左腕を恐る恐る除けると、見慣れた少年が心配そうに彼女の顔を覗き込んでいた。
「じ、ジーク……?」
「落ち着いたか?」
「う、うん……」
パニックのあまりまだ意識ははっきりしないが、会話が出来る程度には落ち着いたようだ。
(しかし、また私はこの人に殴りかかってしまったのか……)
しかも今度は気持ち悪いと暴言まで吐いてしまっている。アイラはそんな自分の浅薄さに吐き気すら覚えていた。
「大丈夫か? 酷くうなされていたようだったが……怖い夢でも見てたのか?」
「う、うーん……?」
心配気な声音を安心させようと、思い出そうと試みる。だが頭の中に靄がかかったかのように上手く思い出せない。
悲しかったような、恐ろしいような、懐かしいような。
掴み処のない感覚だけがアイラの中に残っているが、それがなにかも分からなかった。
「ごめん。よく思い出せない……で、でももう大丈夫だから! その……だから……ちょっと顔が近いというか……」
暴れるアイラを抑えるべく、ジークは押し倒すような格好で彼女の上に乗っかっている。
さらに言うと、ジークが先ほどアイラの瞳を覗き込んできたため、彼女とジークの顔の距離は鼻と鼻がくっついてしまいそうなほど近かった。
それだけならばまだ我慢できるのだ。
加えて、これはアイラが暴れたせいではあるのだが……この羽交い絞めにされたような体勢はあまりにも恥ずかしすぎた。
「ああ、そうか。悪かったな。よいしょっと」
ジークは落ち着いた様子でアイラを抑えるのをやめ、ゆっくりと立ち上がった。
彼女もそれにならって、まだ少し重たい身体を起こした。遅れてアイラがちゃんと立ったことを確認すると、恐らく癖なのだろう。ジークは頭を申し訳なさそうに掻きながら、更に謝罪を重ねた。
「すまない。少し訓練を厳しくし過ぎたかもしれない。まさか風呂から上がって服も着ずに寝てしまうほど疲れさせてしまうとは思ってなくてな……。飯の用意が出来てる。着替えたら昨日のテーブルまで来てくれ」
「う、うん。わかっ……え?」
そう言い残し、ジークはテントを出て行った。
しかし待て。
彼は今なんと言っただろうか。
風呂から上がってそのまま……服も着ずに?
(落ち付け。落ち着けアイラ。今のはきっと聞き間違いかなにかだ。そう、そうに違いない)
アイラは祈るような気持ちで、ゆっくりと下を見た。
しかし無情にもその視界に映ったのは、野晒しにされている自分の柔肌。
一糸纏わず、生まれたままの姿だ。
あ、いや。母に貰った宝石の入ったブローチだけは律儀に胸から下げたままだった。
いや、そんなもので隠せるものなどたかが知れているのだが……
「で、でも。私もジークの裸を見たわけだし、これでお相子。うん、お相子だよね。そうだそうだお相子だ! これでお互いにやましいものはないはず!」
そんな筈はなかった。
大袈裟に膝から崩れ落ち、両手で羞恥に染まる顔を覆う。
半ばヤケになりながら、アイラは無理やり自分を納得させることで辛うじて叫ぶのだけは堪えられた。
ジークもアイラの裸体には無関心だった。
それはそれで別の意識が警鐘を鳴らすのだが、気にする必要はないのだと己を諭す。
とりあえず服を着よう。
今外ではジークがご飯の準備をして待っているはずだ。もうこれ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
アイラは着ていた服を探すべく、周囲を見回した。しかしパッと見た限りでは服は見つからず、アイラはテント内を隈なく探す。
見回して、引っくり返して、散らかして。
探し始めること数分。
アイラは一つの結論に至り、考えたくもない非情な現実が、乾いた笑みと共にポロリと口から零れ落ちた。
「……服がない」
(もういい、服は諦めよう。お腹も空いたし、早くあの美味しいご飯が食べたい……)
心を手放したアイラはとぼとぼとテントを出た。
長い間寝ていたのか、それとも訓練の疲れが残っているのか。アイラの全身はずっしりと重く、もう衣服を身に着けるというい行為が至極どうでもよく思えていた。
後から死ぬほど後悔すると分かっていても、一度も二度も変わらないだろうという謎の自信が芽生えた彼女の歩みは、もう誰にも止められない。
アイラが堂々と裸のまま食卓に着くと流石のジークも驚いたようで、今ある中で比較的綺麗な服を貸してくれた。
ジークの服はアイラが着るには少し大きかったが、なにもないよりは全然いい。
まさかシャツ一枚で全身が隠せるとは思っていなかった。
ジークって意外と大きいんだなあと、アイラは明後日の方向に関心を寄せていた。
アイラはジークに、出会ってからもう何度目か分からないお礼の言葉を言い、出された料理を頂いた。
今日出された料理も今まで食べたことがないほど美味しく、アイラは自分でも驚くほどの量を平らげてしまった。
ジーク曰く、今日の料理はトレーニング用に調整したメニューだったらしい。
あれだけ食べて料理本来の効果が得られるのかは不明だが、こんな会って間もないアイラにそこまでしてくれることに、彼女は心から感謝の言葉を伝えた。
食事の後、アイラは訓練を昨日と同様に手加減なしで続けてほしいという旨を伝えた。
ただでさえお荷物の彼女には、加減された訓練では一週間でジークの戦力となれる自信がまるでなかった。それに、こんな献身的に世話を焼いてくれる彼の思いを、アイラは無駄にしたくなかったのだ。
そんなアイラの申し出に、ジークは渋々だが首を縦に振ってくれた。
ほっと胸をなでおろすと同時に、ずっとこの少年に甘えてばかりではいられないと、アイラは己の気持ちを新たにする。
見ず知らずの彼女を、なにからなにまで面倒を見てくれているのだ。せめてこの訓練だけでも、彼の満足いく結果にしたい。
そのためにはしっかり食べて、しっかり寝て、今日の分の疲労を少しでも回復しなければならない。
アイラはジークから明日の段取りや、訓練の大まかな内容を聞き、せめてものお礼にと食器洗いを手伝って早々にテントに戻った。
アイラがお風呂場に服を置きっぱなしにしていたことと、不思議な少女に会ったことを思い出したのは、その翌日になってからのことだった。
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