〔22〕人が現実に欲望できるのは現実的な可能性である。

 「…人は可能なものしか真に望まぬものである…」(※1)と、小林秀雄は言う。

「…例えば月の世界に住むことは人間の空想となる事は出来るが、人間の欲望となる事は出来ない。守銭奴は金を蓄める、だから彼は金を欲しがるのである。…」(※2)

 もちろん現在では「月の世界に住むこと」も、単なる空想にとどまらずに、人間にとって全く不可能なことではなくなりはしたけれど、しかしそれが「実際に人の現実的な欲望の対象になることは、まだまだ出来ていない」というのはたしかなことだ。「実際に月で生活する」ということが、多くの人にとって現実的な欲望の対象とならないのは、「その生活そのものが現実的ではないから」である。逆に「豪邸に住むこと」というなら、おそらくまだしも多くの人の、現実的な生活の欲望対象に十分なりうる。「すでに実際に豪邸で生活している人間が存在する」わけだし、可能な限り多くの金を稼ぐことができれば誰でも実現できる可能性だ、と言えるだろう。

 一方で、守銭奴が金銭を蓄めるのは、金銭は「現実に蓄めることができるから」である。しかし金銭は、「それを使って欲望を満たすというところに、現実的な意味=価値がある」と言える。ところが守銭奴は、それを使うことの現実性を欲望するということがない。でありながら彼は「金銭はいつでも使いうる」ということを知っており、そしてその「いつでも現実に使いうる可能性を欲望している」わけだ。つまり彼は、「可能性をひたすら蓄め込んでいる」のである。彼は自分がいつか金銭を使うということを「空想する」ことはあるのかもしれない。しかしそれでも彼は、金銭を現実には使わない。はたして「現実に使わない金銭」に価値があるだろうか?もちろん、ある。少なくとも彼は、「あると思っている」のだ。なぜか?それは、「他の多くの人々が、現実に金銭を使って欲望を満たしているから」である。彼は、「他人の現実的な価値を、自分自身の可能的な価値として蓄め込んでいる」のである。金銭は、そのような価値であることが「可能である」からこそ、彼は金銭を欲しがるのだ。


 新約聖書の奇蹟話の中に、イエスが湖の上を歩いたというものがある。人はイエスのその姿を見て、「奇蹟だ」と驚いた。普通の人間がそんなことをできるわけがないのだから、それは「特別なこと」なのであり、それゆえに『奇蹟』なのだ、というわけである。

 しかしイエスは、たとえば「道の上を歩くのと同様」に、ただ単に、あるいは普通に、もしくは現実として、湖の上を歩いたのにすぎなかったのではないだろうか?それは彼にとって、何ら「特別なことではなかった」のではないだろうか?

 道を歩く人を見て、いちいち驚く者はいない。しかし逆になぜそのことに驚かないのか?といえば、それが「普通のこと」だからである。それが「一般的な現実として受け止められている」からこそ、それを見て誰も驚かないのだ。もし、「道の上であれ、湖の上であれ、雲の上であれ、どこであれ人はただ単に歩く」と一般的に受け取られているならば、誰もきっとイエスの姿を見て驚かなかったはずだろう。その一般的な認識においては、それが現実なのだから。しかし逆にそれが一般的ではなかったとき、人はそれ自体を「現実とは見なさない」のである。

 たしかに一般的に言って人は、「湖の上を歩く」などということを誰もしない。そうしようとも思わない。そうしようとも思わない、だから歩かない。それだけのことである。そこで彼に、「なぜお前は湖の上を歩かないのか?」と尋ねるのは、無意味である。「歩けないから」あるいは「沈んでしまうから」という理由は、「そのように尋ねられた後で思いつく」だろう。「やらないことに、何か理由が必要だ」というように思って。しかし、「そうしようとも思わない人」に一体、どのような理由があるだろうか?


 また、たとえば人は「鳥のように自由に空を飛びたい」と空想する。しかし、鳥は単に飛ぶことが可能であるから飛んでいるだけのことである。それが空を飛ぶ鳥にとっては「現実」なのだ。別に彼らは「自由だから」飛んでいるわけではないし、そのことに「自覚的」な鳥もいないことだろう。

 また一方で、「飛べない鳥は不自由である」ということもない。飛べない鳥に対して、それでもあえて「飛ぶことを要求する必要」が、はたしてあるだろうか?むしろ、それでも飛ばなければならないとしたら、よっぽどその方が彼にとっては「不自由」なことなのではないだろうか?

 同様にもし、「鳥のように自由に飛べない人間は不自由である」というならば、「鳥のように飛ぶ『自由』」が人間にとって現実でなければならないが、しかし人間にとってもまた、その『自由』は現実的ではない。現実的ではないからこそ、つまり「自分自身でするはずもないこと」だからこそ、「空想することができる」だけのことである。「現実的に空を飛ぶ必要がある」なら、飛行機に乗ればいい。それは今、「現実に可能なこと」なのだから。そうすることは今、人間にとって「自由なこと」である。


◎引用・参照

(※1)〜(※2) 小林秀雄「様々なる意匠」


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