〔20〕アイデンティティは、その人の立場の承認であり、その立場にあるその人自身の承認となる。

 人が「社会的に行為する」ということは、「他の人と社会的に関係する」ということである。言い換えると、社会的に関係する対象への、つまり「他の人」への働きかけが、人が社会的に関係する=行為することそのものなのだ、ということになる。

 そして、『アイデンティティ』とは、社会的に関係する対象、つまり「他の人」に対して、人がそのように関係するところの自分の「立場」を説明するものとして機能するのだ、と言える。そのような、自分の立場を他の人に対して説明するという「社会的な行為」を通して、そこに結ばれた「ある特定の社会的関係」の中で、アイデンティティなるものは、自分および他の人のその意識において、つまり「私たちの意識」において、その社会的な行為を通して経験的に見出されるものとなる。

 その意味で、たとえばある人が「自分は日本に生まれたのだから、生まれながらに日本人という立場=アイデンティティを持っているのだ」と考えるのだとしても、彼がそれを意識するのは、彼を「日本人として意識させるような社会的な関係の中に置くこと」によってである。そこではじめて彼は、彼自身として「自分自身の立場=アイデンティティ」を意識するようになるのだ。

 しかし一方では、人が「自分は生まれながらに何らかのアイデンティティを持っているのかどうか?」について、「自分自身によって意識するということは、自分自身ではできない」ものである。どのような人でも「自分が生まれる以前の、自分の社会的関係」を知ることはできないのだから、それは当然のことだ。それを「生まれながらのものとして見出しうる」のは、彼のアイデンティティを検証する「他の者の意識」によってであり、その、他の者との間に生じている社会的関係においてである。そして彼はまさしく「その社会的関係の中に生まれる」ことによって、「自分が生まれた後に、そのことを知らされる」のであり、つまり「生まれながらに日本人であるという、彼のアイデンティティ」を、彼は「彼自身が生まれた後に、経験的に知る」ことになるのである。

 しかしまた、彼がそのように「日本人」というアイデンティティを持っているのだとしても、彼は別にその「特定のアイデンティティ」に基づいて、「全ての社会的な行為を実行している」というわけではない。彼が自らのアイデンティティを、「日本人という、自らの立場の説明」において見出しうるのは、彼が自分自身を「日本人として意識するような、その特定の社会的な関係の中においてのみ」である、と言える。「その他の関係」においては、「その関係に基づく、彼のアイデンティティ」を、彼の「その関係における、あるいはそれに対する意識」が、見出すことになるだろう。だから彼は、そのような「各々の社会的な関係を、各々に経験する」中で、「その関係の中において、それに応じた各々のアイデンティティを見出す」ことになる。


 アイデンティティなるものはもちろん、「私だけ」が持つ、というようなものではない。言い換えると『アイデンティティ』なるものは、「私のことだけ」を証明するようには成立していない。むしろそれは、「私ではない人」に承認され証明してもらえるものでなければならない。

 人がみな同じように、それぞれの立場に立っているのだということを、それぞれに承認することによって、そこに「私たち」という意識が生まれてくる。「私とあなたが、それぞれに自己を持っている」という共通了解の下で、私の持っている自己が「私を意味するもの」としてあなたに承認され、また私も、私の自己と同様に、あなたの自己をあなたを意味するものとして承認する。そのような、「相互の自己の、相互による承認」において、「私とあなたは、一つの共同性を共有している」ことになる。この共同性は、「私たちのアイデンティティ」となりうるものだろう。

 互いの立場に対する承認の関係が、ある一定の共同性を持った関係であるならば、その、共同化された関係が、「一般的な関係」として共同化され、一般に承認されているということになる。その一般的な関係において、人々は、その関係の中で承認された、それぞれの立場という立ち位置を共有する「同類」であることができることになる。その関係の中で関係する者たち同士が「みな同類である」ということは、ある者が、ある立場において「承認された者」であるということを、「みなが承認している」ということを意味する。そして、「その立場にある者は、常にその立場に立っている者である」ことを、その関係の中では要求され続ける。「お前は、そういう者であるはずだ」ということが、常に確認され承認されることで、彼の立場は確保され、彼は「その共同的な関係の一員である」ことができる。この、「共同的な関係の一員である」という自覚が彼自身に芽生えるとき、その自覚がその共同的な関係における彼自身のアイデンティティとなるのだろうと言える。

 人の立場を承認するということは、「その立場にある人として、その人自身を承認する」ということであり、その承認の関係が成立し続けているためには、また、その人がその関係において承認され続けているためには、人は、その関係にある限り、その立場に立ち続けていなければならない。そして、その関係において彼は、「それ以外の立場」に立ってはならない。もし彼が「それ以外の立場に立つ」ことになるのであるならば、彼はその関係におけるアイデンティティを失い、それによって彼は、その関係から排除されなければならない。そこにはもはや「彼の立場はない」のでなければならない。その関係から排除された者は、その関係において立っている場所すらないのであり、もはや「存在すらしない者」でしかない、とさえ見なされることになる。


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