不十分な世界の私―哲学断章―

ササキ・シゲロー

〔1〕私たちは、世界を知ることなく解釈し語っている。

 私は世界を知ることができない。

 あるいは。

 世界は私が知るところの全体である。

 これは一体、どちらが本当のことなのだろうか?

 人によれば、『私』や『世界』などというものは実在しないのだ、とまで言う。であれば、私たちが日頃「それ」と思っている『これ』を、私たちは一体何だと考えたらいいのだろうか?私たちはなぜ、それを『私』と言い、『世界』と言うのだろうか?私たちは一体、何を見て、何を知っているのだろうか?

 また、かつては『意志』の概念はなかった、とも言われる。しかし、だからといって意志そのものまでもがかつては存在しなかった、というわけでもないだろう。たとえかつては『個人』という概念がなかったとしても、「ひとりひとりの人間」が存在していなかったわけではないように。それらは別に近代になって突然現れてきたわけではない。ただ、かつてはそのように見られず、またそのように呼ばれていなかったというだけのことだろう。そして今私たちはそれを、たしかに意志と呼び、また個人と呼ぶ。なおかつ私たちは今、それ以外のものとしてそれを見ることはできない。

 だから、かつてがどうであったにせよ、もし今それが私たちにとって、ある種の困難となっているのだとしたら、そしてその困難を私たちの身から取り除こうと、私たち自身が考え求めているのだとしたら、今私たちがそのように見ているものとしての「それ」を、私たちは一体なぜどのようにして、そのように見るようになってしまったのか?ということを、私たち自身がつきとめるところからはじめなくてはならないのだろう。


 私たちが知ることができないものとして考えているにせよ、あるいは私たちの知るところの全体として考えられているにせよ、そのように考えている限りにおいて私たちは、それなりに『世界』を知っていることになっている。あるいは、そのように知っているのでない限り私たちは、『世界』をそのように考えることができないようになっている。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というが、私たちはそのような『語りえないもの』について、語りえないものとしてそれなりに語りえるようになっている。いや、語ってしまわざるをえないようになっている。そして私たちは、すでにそのように語っている。

 私たちが一般に『私』だとか『世界』だとか言うとき、私たちは一般にそれを、ある一定のあり方において一つにまとまったものであるように見ており、かつそのように知っていて、またそのように語っている。少なくとも私たち自身ではそのように思っている。そのような、ある一定のあり方において一つにまとまったものとして見て知って語りうるものは、私たちの意識の対象として、そのように見られ知られ語られることになっている。

 また、そのようにある一定のあり方において一つにまとまって私たちに見られ知られ語られるものを、私たちはそのまとまった状態において受け取り、以降それについてはあらためて見直すまでもなく「それ」である、というように私たち自身の意識に位置づけている。そのように位置づけられたものが一般に、『概念』だとか『表象』だとか言われるようなものだと考えられる。


 私たちの意識は、一定の対象を意識する。そのような私たちの意識の働き、言い換えれば『主観』は、私たちの「意識の立場」から解釈されたものだ、とニーチェは言っている(※1)。そしてそのように私たちが意識して捉えている対象は、ことごとく私たちの意識によって調整され、単純化され、図式化され、そして解釈されているのだ、と(※2)。

 たとえば私たちは、自分が生活する「この世界」を意識する。実際にその世界に生きている私たちにとって、その世界は「この世界としてある、ただ一つだけの世界であるように見える」ことだろう。しかしそれは、「そのように見ようとして見た世界」、つまり「そのように解釈した世界」にすぎないのではないのだろうか?そうであれば、「世界はいかようにも解釈されうる」(※3)ものなのではないのだろうか?ニーチェの言うように、主観とはこの自分自身が抱いている、「この主観ただ一つだけ」なのだと考える必然性はなく、自分以外の多くの人々のそれぞれの主観ということのみならず、自分自身においてさえ「多数の主観」が想定しうる(※4)と考えられるならば、この世界を見ている意識=主観の数だけ、この世界の別様な解釈があり、その主観の数だけその主観に解釈された世界がある、と言えるのではないか?つまり、それだけ「多数の世界」があることになるのではないだろうか?とすれば『世界』は、客観的な意味を持った「一つの世界」ではなく、その「それぞれの主観」において、また「それぞれの解釈」において、「無数の意味を持っている」(※5)と考えられるのではないか?

 『主観』がそのようなものであるとしたら、『客観』もまた「一つだけと考える必然性はおそらくあるまい」と言えるだろうし、「多数の客観を想定してもさしつかえあるまい」と言えるだろう。それらの主観やら客観やらの中から、自分に都合のいい「解釈」を、「その世界の意味」にしてしまえばいいのではないか?「世界を、そのように見ればいい」のではないのか?

「…「意識」----表象された表象、表象された意志、表象された感情(これだけが私たちに熟知のものである)……」(※6)

 「そのように熟知されたもの」だけで世界は構成されているのだと考えればいい。「それが、私たちにとっての世界である」と考えるのならば。


◎引用・参照

(※1) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四八八

(※2) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四七七

(※3) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四八一

(※4) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四九〇

(※5) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四八一

(※6) ニーチェ「権力への意志」第三書・Ⅰ・四七六 原佑訳



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