練習帳

ヱビス琥珀

「また会いに来たよ」3月4日

 その日の朝、僕は早起きして妻と二人で雛人形を片付けていた。娘はまだ幼く、片付けるという行為が本来の目的に反して散らかす・破壊するといった望まれざる結果につながるのは想像するに難くない。桃の節句の翌日に片付けるのも、『娘が嫁に行き遅れる』なんて迷信めいた理由ではなく、どうせ大人二人でやるなら早いうちにやってしまおうという実に事務的な動機によるものだ。

 暖房をつけたばかりの室内はまだ寒く、吐く息は白かった。目の前にあるのは少しばかり、いや、我々にとっては随分と奮発した、三段飾りの雛人形。飾るのに苦労したが、片付けるのも大変だ。その苦労も風情なのだと言われればそれも理解できないことはないが、やはりケース飾りにすべきだったかもな、と僕は少しだけ後悔していた。

「それにしても、日本人形ってのはなんでこんなに高いんだろうね?」

「手作りだから仕方ないのよ。伝統工芸を守るために必要な投資と思いましょう。」

「見方を変えれば既得権益の保護とも言えるんじゃないかな。みたいな人形を作るんだったら喜んで投資するけど。」

「あるる…何?」

「昔の漫画だよ、気にしないでいい。」

 そんな下らない会話をしながら、白い手袋をつけて僕たちは人形を片付けていく。緻密に表情が描かれた顔に脱脂綿を当て、美しく毛の生え揃った頭を薄い不織布で覆い、首の位置を紐で結わえる。その一連の処置はまるで白い頭巾で人形の頭を覆い隠すようで、それは僕に過激派武装組織の処刑シーンを想い起こさせた。僕がそんな感想を妻に告げると、彼女はお内裏様の烏帽子を外すのに悪戦苦闘しながら、

「雛人形の世界に、そんな物騒な概念を持ち込まないでちょうだい。」

と言って僕の意見を一蹴した。僕は『あるいはヤクザの拷問シーン』というフレーズを頭に浮かべたが、それを飲み込んでぼんぼりを解体する作業に移った。ぼんぼりの光源はLEDだった。ロウソクはおろか、豆電球ですらない。技術の進歩、スタンダードの変遷。時代の流れに思いを馳せていると、お殿様の刀を手に持った妻がつぶやいた。

「この刀はファスナー付きの袋に仕舞っておいた方がいいのかしら。」

「なんで?」

 僕が聞くと、妻はそんなことも分からないの?というような顔でこちらを見た。

「だって刃傷沙汰が起きるかもしれないじゃない。」

「…雛人形の世界にそんな物騒な概念を持ち込まないでもらえないかな?」

「あら、雛人形の設定って昔の貴族でしょ?だったら刀での殺傷行為は外部から持ち込んだ概念じゃなくて、彼等の中にすでに存在しているものじゃないかしら。」

「いわば文化的な宿命として。」

「そう、文化的な宿命として。」

 そう言いながら、妻は刀をビニール製の袋に入れ、ファスナーで封をする。白い手袋をつけた彼女の所作は、凶器を証拠として保管する検察官そのもののようだった。

 三人官女の一人を口説くお殿様。お姫様が許婚の不貞を見咎めると、逆上したお殿様が彼女を刀の錆びに…。僕はそんな昼ドラのようなストーリーを思い描いた。それはあるいは我々日本人という民族に綿々と流れ続ける意伝子の仕業なのかもしれない。文化的な宿命。

 だが来年、また雛人形を飾ろうという時に、ざっくりと袈裟斬りにされたお雛様と対面するような事態は御免被りたい。僕は物騒な刀をはじめとする数々の小道具が入った箱を妻から受け取ると、そこに輪ゴムで厳重な封印を施した。

 そして僕らは人形たちを収納ケースに丁寧に仕舞い込んだ。そこには諍いや葛藤もあるだろう。それでもあの優しい笑みを湛えた人形たちなら、許し合うことができるはずだ。妥協と寛容こそ人類の宝なのだ。

 ケースの蓋をして、押入れの奥へゆっくりと押し込む。一年間、喧嘩することなく平和にやり過ごして欲しいと願いながら。

「また会いに来たよ」と、元気な姿でそう言ってもらえるように。


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