恋歌物語

ゆずりは

第1話 あやめを数えて

 数字は美しい。その筋道を辿ることも、そこには理路整然とした美しさがある。そう思っていた。

 五月は、四月からの行事やオリエンテーションから解放され、ようやく授業が行える月である。そもそも大学は研究機関であり、オリエンテーションなど研究に直接関わらないことをする必要性はないと思う。しかし、少子高齢化、大学全入時代、情報化社会と昨今の社会状況は、研究機関としての大学ではなく、高校の延長にある教育機関との認識が強い。大学教授が研究に専念できなくなったのは、いつからなのか。そのような、いつもなら時間の無駄だと思うことに思考がいってしまう。

 お昼あけ三限の講義を終えた廊下を歩き、研究室の鍵を開けた。後ろ手に扉を閉めると意識せずにため息がでた。机に教材をおき、椅子に座ろうとしたところで、いつもの自分の研究室が窮屈に感じた。

 四・五限は、受け持ちの講義がないな。

 普段ならこの研究室に籠っている。だが、今日に限っては外に出てみるのもいいかもしれないと思い立つ。パソコンの近くに置いてあった読みかけの研究書一冊を持ち、鞄から財布を取りだして、ズボンのポケットに入れた。胸ポケットに手をあてるとそこには、小さな手帳が収まっているのが、布越しに分かる。教材と一緒に置いた研究室の鍵を取ると来たばかりの研究室を後にした。

 向かったのは大学の近くの公園だった。その公園は屋根のあるベンチがある程度でいわゆる公園として想像する遊具のあるような公園とは違っていた。森林公園まではいかないが、木に囲まれた静かな場所である。私は子供が苦手だ。子供の言葉は非論理的で理解しにくい。さらに、予測不可能な行動を起こす。この公園は子供が少なく、大学が近いとはいえ、大学生も滅多にいない。そもそも公園に大学生が好んで集まるとは思えない。私自身、多く来るわけではない。

 確か、ここを進んだあたりにベンチがあったはずだが。

 革靴で公園の舗装された細いアスファルトを踏んで進んでいくと、ほどなく屋根付きのベンチが見えた。

 平日の午後から座る人はほとんどいないだろう。

 遠くから見て誰もいないと確認し、ベンチを囲う塀のような囲いの切れ目から中に足を踏み入れ、一瞬固まった。

 人がいた。しかも、子供だ。子供はすぐに私に気づき、顔をあげこちらを見た。ベンチがコの字型になっていて、入口から反対側にその子がいた。真ん中に屋根や囲いと同じ木でできた大きな机が一つある。その机に向かっていたため、ちょうど向かいあう。

 沈黙。

 対処に困る。踵を返すようにすぐ立ち去るのも不可解であるし、そもそも公共の場であるのだから、私がこの場を去る必要はないのである。塀の切れ目、入口近くのベンチに座った。座ると右側に子供がくる形になり、とりあえず持ってきた本を開いた。恐らく集中できないだろうと、五分で切り上げるつもりで左腕に着けている腕時計で時間を見た。

 身動きせず、無言でこちらを見てくる子供の視線を感じた。

 どういうことだ?

 視線を本から外さずに、先ほど一瞬みたその子供を思い出す。ショートカットの女の子、だったと思う。傍のランドセルがピンク色をしていたからだが、最近は赤色と黒色と決まっていないらしく、ピンクのランドセルだからといって女の子とは限らない。最近のランドセルの市場には興味ないが、その視線が些か煩わしい。ただ、声をかけるのは、近年の風潮としては好ましくない行動かと思われた。不審者にでも間違えられれば、面倒である。

 広げた本の文字から目線を外して腕時計を見れば、まだ二分しか経過してない。と、ようやく子供が私の方から視線を外したのが分かった。顔は上げず、視線だけを子供に向けた。やはり女の子だった。どうやら勉強をしているらしく、そこは好感が持てた。ただ、その握った鉛筆は動いていなかった。

「宿題か」

 独り言のつもりで呟いた声に、その女の子はバッと顔をあげた。

「おじさん、これわかるの?」

 真っすぐに向けるその目に焦り、自分の本へと視線を戻した。私は宿題かと自己完結のためのつぶやきであり、決して疑問を投げかけたわけではない。例え疑問に聞こえたとして、宿題かどうかの質問に対して、その内容が分かるかどうかに話が飛躍するのは理解できない。だから子供は、と思いつつその手元に広げられたノートには数字が並んでいた。

「算数か」

 これも決して質問の意図はない。

「うん!」

 と返事をした。ため息のように、肩を落とした私に関係なく、

「さんすうのしゅくだい、ここだけわからなくて、おじさんわかる?」

 と続けていう。覗き込んだ問題の答えを教えることは簡単だが、曲がりなりにも教育者の端くれである。答えだけを教えては意味がない。

「それは君の宿題だろう。私が答えを教えてはいけないのではないか」

 子供は唸るように、少し不機嫌そうな表情になった。

「そうなんだけど、ぜんぜんわからないってときは、どうすればいいの?」

 確かに答えから考えるのも一つの学びである。人に聞くということは人生でも必要なスキルではあるが、と返答に困っていると

「おじさん、こたえ、わからないんじゃないの?」

 と挑発めいたことをしてきた。そんな見え見えの挑発にのるものではないが、分野が分野なだけにこのままではプライドが許さない。いや単に、久しく算数に触れることもなかった、その単純なようで、可能性のある算数を放置するのは勿体ないと思っただけだ。持ち歩いている小さな手帳を開き、その問題を写した。

 問題を写し、解くことは簡単である。しかし、この子供がどこまでのものを使い、解かねばならないのか、学校教育ではどこを学ばせたいのかが分からない。数式を使えば簡単なものでも、小学校教育でのモノや図にする、何かに置き換える行為はよくある。なるべく簡単な、数式の極力に少ないものを選択したが、いまいち自信がない。子供にとって数式を学ぶということはその記憶力を研ぎ澄ませ覚えることで、大きな意味のように思えた。ここで数式を教えるのは憚られる。

 ふと自分の手帳から目をあげた時、ベンチの近くには花が咲いていた。普段花などは気にも留めないのだが、その花の名前を知っていた。菖蒲(あやめ)である。菖蒲に思い入れがあるわけではないが、条理は、あや、と読むこともある。あや、を解くものとしては、そのあやめの名前には好感が持てた。五月の花といえど、まだその見頃には早いようで、ポツポツと咲いているだけである。

「君はあの花を知っているか」

 花の方に顔を向け、視線と顎で示すような動作をした。

「え?んーむらさきの?しらない」

 私の視線を追った女の子は、顔を横に振る。

「あれは、菖蒲だ」

「あやめ」

 私の言葉を繰り返したが、なぜいきなり花のこと?というように少し首を傾げた。これくらいの子供はこんなにも表情に思っていることが顔に出るのか、と妙に感心してしまった。

「そうだ。紫色の菖蒲の花はいくつ咲いている?」

「いち、にー、さん、よん、ご、…おじさん、ちょっと色が違うのも?」

 指で差しながら声に出して数え始めた。声に出して数えろとは言っていないが、まぁ良い。質問を途中でしてしまうところなども、子供らしいなと思う。

「それは別に数える。同じ色のものだけを数えるんだ」

「えっと、いち、にー、さん、よん、ごー、ろく、なな…なな?」

 花から目をこちらに向けて、七という数字を確認するように首を傾げた。頷いてやると、ニカっと笑った。

「では、今度は白色のものを数えるんだ」

「えー、いち、にー、さん、よん、ご、ろく!」

 次の指示通りに数えきった。子供はすぐに飽きてしまうと思っていたが、真剣な横顔に心配いらないようだった。子供は、数え終わってからも花から視線を外さずに菖蒲を眺めていた。その横顔が、縦に大きく一回動いた。

「紫の花は、いくつだった?」

「え、っと、なな」

 思い出すように、少し険しい顔になったが、思い出して答えを言う時には私の方に振り向いた。

「白は…「ろく!」」

 私の質問の途中で答える。今後、問題を最後まで読まないと引っかかる問題で苦労しなければいいが、などといらんことを考えてしまった。

「全部で花はいくつだった?」

「えっと、ぜんぶ?もっかい、かぞえる」

 もっかいは、もう一回か。また指を差し始めようとしたところを止めた。

「違う。今、数えたものを足せば良いのだ」

「そっか」

 数えながら指を広げていく。

「なな、でしょー、たす。なな。いち、に、さん…?」

「また、ゆびが足りないよ…」

「そうだな。学校ではひっ算というのは習ったか」

「うん。これでしょ」

 と、広げたノートを見せてくる。ノートに並んだひっ算は気づいていたが、敢えての質問だった。

「なら、それを使ったらどうだ?」

「あー」

 ノートの近くに転がっていた鉛筆を握った。

「そうだ、7の下に6を書く。菖蒲の全部、合わさった数が知りたいから、足す、を使う」

 子供が算数の最初に苦手とするのは、繰り上がりの問題である。本当の最初というのは、数字の概念を学ぶことだろうが、小さい年齢のおかげか、そこは意外とクリアする。

 子供は、自分の言葉に合わせて広げていたノートにひっ算を書いていく。

「七は五と二からできているね。」

 指をだして見せる。

「うん」

「六は」

「ご、と、いち」

「五と五は合わせると十だ」

「あ、がっこのせんせーもいってた」

「ななの、ご、と、ろくの、ご、は、あわせて、じゅう。だから、ここに、いち、をかくの。ななの、に、と、ろくの、いちは、あわせて、さん。

 ノートのひっ算の解には13と書かれた。

「分かった!じゅうさん!」

 そういうと、顔を上げて、にこにことしている。

「じゃあ、答え合わせだ。紫色と白色を全部数えてみなさい」

 今度こそ褒めてもらえるのでは、という期待する顔だったが、まだ終わっていない。

「いち、にー、さん、よん、・・・」

 くるりと体勢を変えて数字を声に出しつつ、花を指さしで一つ一つ丁寧に数えていく。

「じゅうさん!」

 数え終わって勢いよくこちらに向いた。

「正解だ」

「やったー」

「どうだ、全部数えるのは、大変ではなかったか?」

「うん…」

「そうだ。君の宿題もそうだ。」

「?」

 首を傾げながら、きょとんとする。やはり反応が素直ということが、新鮮に感じる。

「算数とは、そういうものをより簡単にするものだ。そして、それは生活にも役に立つ」

「そうなの?」

「あぁ」

 大きく頷いた。自分でも珍しいが、子供に合わせると全てが大袈裟になるらしい。

「おじさん、算数ってすごいんだね!」

「あぁ、面白いだろう」

 これまで努めてゆっくり話していたが、思わず早口になってしまった。

「おもしろい?うん、ふしぎ!」

 どうやら、面白いと不思議という言葉にはこの子なりに違いがあるらしい。不思議、か、聞きなれたその言葉が、なんだか新しいような、でも懐かしいような気がした。

「では、宿題に戻ろう」

 簡単である算数を教えている時の方が、数学を教えている時よりも楽しいと感じている自分がいた。この子供が、算数に興味を持ってくれたということを実感したからかもしれない。あるいは。

 しばらく子供の宿題を見、時計を見ると、講義の時間が近くなっていた。

「申し訳ないが、これから授業があるので、そろそろ帰らねばならない」

 最初は五分滞在すればと思っていたが、いつの間にかそれなりの時間が経っていたようだ。

「おじさんも学校?」

 びっくりした顔をしながら見つめてきていた。恐らく、この子供にとっては、学校と言われて想像するものは、小学校や中学校なのだろう。だから、大人の人も学校に行くということに驚いているんだと推測した。

「そうだな、学校のようなものだ。ただ、教える側だ」

 恐らく想像している小学校や中学校とは違うが、ただその差を伝えるにはまだ早い気がしてぼやかして伝える。

「せんせい?」

「ま、それに近いな」

 これも正確には違うが。

「おじさんせんせい、また、ここにくる?」

 おじさんと先生を合わせるのか、と苦笑いを返した。

「いや…、来ないな」

 また、という意味をはかりかねつつ、しっかりと答えた。

「今日は、来られない」

 今日はこの後、講義が夜まである。

「あしたとか、そのつぎとか、は?」

「…分からないな」

「そっか」

 その声と顔は本当に残念、というより、ちょっと残念くらいのものだったが、逆にそれくらいということが本心のようで心地よい。

「また、あえたらいいなー」

「…あぁ」

 そう返事をしつつ、腰を上げた。読み損ねた本を持って、算数の宿題が書かれた手帳を胸ポケットにしまった。

「ばいばーい」

 私は頷いただけで、声には出さなかった。

 その日、講義で数学の魅力を話しながら、どこかあの算数が頭の中に残っていた。花を声に出しながら数える姿、ひっ算で足し算をする鉛筆、不思議と言った顔。いや、算数の面白さを伝えられたことが嬉しかったんだろう。昔、大学で数字を眺めていた時に近い、感覚。

 また?またか。もう一度、あの公園に行ったらあの子供はいるのか。毎日いるわけではないだろうに。そのような不確定なところに、行ってなんの意味がある。約束をしたわけではない。約束をしたのなら?そもそも約束をする仲ではないだろう。たまたまあの場所で会っただけだ。

 チャイムが鳴る。今日の講義の全てが終わった。さっきまでの静寂から教室にあふれる音。話し声や物音は好きではない。すぐに自分の教材を持って教室を後にする。

 渡り廊下を歩きながら窓の外を見る。日が暮れている。さっきの講義室は半分地下のようになっていたため、外の様子は気づかなかった。普段、講義中に外などは見ていない。

 自分の研究室に戻ると教材を本棚に戻した。研究室の窓の外は暗いが、大学構内の街頭の光がちゃんとある。あの公園は街頭があっただろうか。菖蒲は暗闇の中には目立たないだろう。

 菖蒲が見えないかどうか、確かめに行こう。鞄を持ち、いつもよりも勢いよく開いた研究室の扉を、自制するように、しっかりと鍵をかけて、確かめた。明日はいくつ菖蒲が咲いているだろうか。



『古今和歌集』 恋部 四六九 

    題知らず      よみ人知らず

  時鳥ほととぎす くや五月さつきの 菖蒲草あやめぐさ あやめもらぬ こひもするかな


    時鳥が里に来て鳴く五月に軒先に葺く菖蒲ではないが、

    物事の条理も分からないような無我夢中の恋もすることだ。


                                1話 完

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