愛妻弁当とチェックメイト

 どこまでも高く突き抜けてゆくようで、一目 れという魅力を振りまく青。聖水よりも透明、どんな絵の具でも描けない、晴れ渡った青空。


 そこに時々入り混じる、ハラハラと舞う粉雪のような頬染めた桜の花びら。春風という輪舞曲ロンドたわむれる新緑の香り。


 そんな穏やかで美しい景色に、はつらつとしているが少し鼻にかかる男の声が、さっきから元気に響き渡っていた。


「こちらは、ディーバ ラスティン サンディルガー、コンサート会場となります。大会へお越しの方は、さらに奥に進んでいただくようお願いします」


 高貴の意味を表す紫。それを基調にした金糸の刺繍ししゅうと袖口の白が洗練されたデザインをほこるマントの向こうで、さっきからずっと、どよめきが起き続けていた。歓喜や驚き、感嘆と言った様々な人の歓声が。


「周辺の地図ってありますか?」

「ありますよ。はい、こちらです、どうぞ」


 男に手荷物などないのに、縦長のパンフレットが手の中に現れ、それを丁寧に渡すと、話しかけてきた若い男は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 メインアリーナへ吸い込まれるように、次々に訪れる人々。彼らが通り抜けてゆく両脇に、神業かみわざ的な配置で貼られているポスターたち。


 針のような繊細な輝きを持つ、銀の長い前髪。その奥に潜む、刺し殺しそうなほどの鋭利なスミレ色の瞳。それでも、人々を魅了してやまない、天使のような綺麗な顔を持つ男が、アーティストというカメラ目線でこっちを見ている。ディーバ ラスティン サンディルガーと金色の文字で、光り輝く五線譜のように印字されていた。


 そのポスターをさっきからじっと眺めていた女が、そばへやってきた。


「ここは何時から始まるんですか?」

「コンサートは16時に開場で、18時開演です」


 少し鼻声の男の襟元には、鮮やかで明るい、はっきりとした青。ターコイズブルーの細いリボンが国の機関、躾隊しつけたいという職務で揺れ動く。マントの紫色をきわだ出せながら、運命の恋人みたいになじむようなターコイズブルー。


「もうチケットはないですよね?」

「何名分ですか?」


 聞き返した男の足元は、細身の白のズボンに、膝までの黒のロングブーツ。その下は不思議なことに、頭上と何ら変わりのない空が広がっていた。時折、風に乗せられた雲が、靴底の下を空中遊泳してゆく。


「できれば、3名お願いしたいんですが……」

「ちょっと待ってください。今、調べますから……」


 上下白の服を着ることを義務付けられている男の髪は、はつらつさを表すひまわり色の短髪。そこにハチマキのように巻きつく白い線。目元には小さな画面、スコープ。


 コンサート会場の警備が今日の仕事。全ての共有データは、スコープに映し出される。自分が見たいと望めば、情報は青く透明な画面に、円グラフや文字列で姿を現す。


(空いてない……)


 男の純粋な優しさのにじみ出た若草色の瞳に、近くにあったポスターの鋭利なスミレ色の瞳と銀の髪が映り込む。


(さすがだな、あいつの人気。

 あっちに聞いてみるか?)


 胸元のポケットへ、白い手袋をした手は隠されたが、すぐに姿を現し、携帯電話が一緒に出てきた。隊内への連絡なら、スコープに内蔵されている意識化でつながる無線機でどうにかなる。


 だが、今日はコンサートのスタッフと、国家機関の環境整備を行う部隊、その2つの職業が合同で仕事をこなす日。事前の打ち合わせで登録してあった番号が、思い浮かべただけで勝手にダイヤルされて、通話がゴーサインに。


 白い手袋につかまれている携帯電話が、ひまわり色の短髪の下にある耳に押し当てられた。呼び出し音が聞こえてくる。他機関。普段は関わり合いがない、お互いに。待つかと思いきや、すぐに相手は出た。


「すみません。3名ほど空きって作れますか? ご要望のお客様がいらっしゃるんですが……」

「ステージの左端にならできますが、そこでよければ……」


 気さくな男の声を聞くと、紫のマントは春風であおられ、国の威厳という名で堂々たる態度でひるがえった。


「ちょっと確認します」


 話したいと思ったことしか相手に伝わらない携帯電話。口元をふさがず、若草色の瞳を持つ人は、元気で少し鼻にかかる男の響きを、当日券待ちの女に向けた。


「お客さん、左端になってしまいますが、そちらでいいなら、用意できます」

「それでも構いませんので、お願いします」


 意識化で通話を再度オンにする。


「それでは、そちらを案内するので、お願いします」

「はい! じゃあ、3分で増設するから」


 満員御礼のはずなのに、すぐに作れる席。おかしい現象が起きているようだが、誰も気にした様子もなく、気さくな男との連絡は、すぐに通話終了という名で途切れた。


 白いシャツの胸ポケットに待機させられる、役目を終えた携帯電話は。今はまだ人もまばらだが、夕方になれば、大混雑になるであろう、多目的大ホールのチケット窓口。紫のマントを着た体格がいい男は、さわやかな笑顔つきで、白い手袋をした手のひらで指し示した。


「チケットはあちらで販売してますので、そちらでお支払いをお願いします」

「ご親切に、ご案内ありがとうございます」


 女はにこやかに微笑み、頭を軽く下げて、急いで去っていった。


「いや、こちらこそ。楽しんできてください」


 息つく暇なく、次の仕事がやってくる。トントンと後ろから肩を叩かれた。


「は、はい?」


 振り返ると、そこには、子供1人の家族連れがいたが、発された言語が驚きものもだった。


「△*%#*△$%&#……」


 はつらつとした若草色の瞳は一瞬陰りを見せた、小さなため息をもらしながら。


「あ、あぁ……またか。今日は本当に聞き取りづらいな」


 心配そうであり、急いでいる様子の親子。彼らを置き去りにして、ひまわり色の短髪は春風の中で振り返る。さっきから、不規則に寄せては砕ける波音のような歓声が上がっているメインアリーナへ。


「さすがだな、あっちの会場でやってる大会の有名さは。色々な宇宙から来てるから、言語が対応しきれない」


 世界の規模が違っていたが、ここも軽くスルーして、物事は進んでゆく。白い手袋をした指先2本を、スコープのバンドへあてる、こめかみを押えるような仕草で。


「この翻訳ほんやく機があっても……周波数を手動で変えないと……あぁ〜っと、どこだ?」


 親子の姿を瞳の端でとらえながら、イヤフォンも何もない耳元から不思議と聞こえてきた、ラジオのチューニングしきれていない、砂のようなザラザラした音がしていたが、すうっと隙間に入り込む水のように流れてきた。


「おっと、来た!」

「……すみません、トイレどこですか?」


 何のことはない。内容は普通だった。テキパキと仕事をこなしてゆく。


「トイレは建物沿いを奥へ少し行った左側になります」

「ありがとうございます」


 女が頭を丁寧に下げると、そばにいた男の子が足をジタバタさせた。


「ママ、早く〜!」

「はいはい」


 トイレへ急ぐ親子の後ろ姿を微笑ましく見送りながら、自分の生活を脳裏でなぞる。


「親子で旅行か……俺もよく行ったな。そういえば……今回は行って――」


 風で飛んできた桜の花びらが鼻の上を、くすぐるようにかすめてゆく。だが、ひたる時間はなく、次の仕事がやってくる、肩をまた叩かれて。


「はい?」


 腰元に差すことを制服として義務付けられている細身の剣、レイピアのさやきらびやかなシルバーの顔を見せるつかは、人に話しかけられるたび、落ち着きなくあちこちへ移動して、仕事をこなしてゆく。青空と風に舞う桜の花びらに優しく見守られながら。


 向こうにあるメインアリーナで、歓声が上がり、心地よい春風に頬を何度なでられても、それどころではない男はせわしなく動いていた。午前中という職務の時間が、あっという間に過ぎていき、遠くの方から自分の名前を呼ぶ声がふとした。


独健どっけんさ〜ん!」


 振り返ると、自分と同じように、高貴を表す紫のマントに、純潔の象徴のような白い襟元に、ターコイズブルーのリボンという細い線を描く制服を着た後輩がやってきた。


 プレイベートでは手首に巻きついている、色とりどりのミサンガ。今は、制服という規律の中で外されている。その手を、元気いっぱい空へ大きくかかげる。


「おう、お疲れ〜」

「少し早いですけど、お昼に行くようにだそうです」


 自分よりも若い後輩の笑顔に、独健は先輩らしく、大人らしく、男らしく、さわやかにうなずいた。


「了解。じゃあ、よろしく」

「はい」


 独健の黒のロングブーツは、空が下に広がる地面の上を歩いて行こうとしたが、すぐに立ち止まって、さっと振り返った。ひまわり色の短髪を衝動で頬に踊らせながら。


「あぁ、そうだった」

「どうしたんですか?」


 身振り手振りで、説明が始まる。独健の性格、いや性質といっても過言ではない、長く落ち着きがないが、陽だまりみたいな温かみのある言葉が。


「今日、ほら、あっちで大会やってるから、言語が登録されてない宇宙から来てる人がいるから、手動じゃないと翻訳機が使えない。じゃあ、今度こそ――! あぁ、あと、コンサートの当日券の問い合わせが次から次から来るから、あとそれから……」


 スコープがある。情報は共有されている。それなのに、同じ隊の後輩に次々に言ってくる、仕事の引き継ぎ。交代に来た隊員は楽しそうに微笑んだ、どこかボケている感がある先輩を前にして。


独健どっけんさん、心配性で、いつも優しいですよね」


 少し鼻にかかった声は気まずそうにつまり、


「あっ……あぁ、そうか」


 白い手袋は照れたように、ひまわり色の短髪をかき上げた。天然ボケ全開で。


「わかってるよな。同じ部隊にいるんだからな」


 慣れた感じで、もう片方の手を背中に回すと、不思議なことに、黄色の布でおおわれた四角いものが急に姿を現した。それが何かを知っているというように、後輩は独健の背中をのぞき込もうとする。


「今日もお弁当ですか〜?」


 独健のロングブーツのかかとは後ずさりし、黄色の箱は地面と直角になるように、自分の背中につけられ、絶対に見られるもんかと、慌てて首を横に振る。


「あっ、あぁ、いや! きゅっ、休憩に行ってくる!」


 己の辞書に落ち着きという文字を持っていないと言わんばかりに、声が上ずりそうになりながら、なぜかその場からすうっと消え去った。後輩のマントは興味津々という動きで、右に左に揺れながら眺めた、急に姿を消した先輩がさっきまでいた場所を。


初々ういういしいなぁ〜、独健どっけんさん。2度目の新婚さん」


 暖かな春風がふと吹くと、透き通る地面を、桜の花びらがサラサラとたわむれというダンスを踊りながら、横切っていった――――



 ――――空の真ん中に、クッキーの型抜きを使ったようにぽっかり浮かんでいる噴水が、癒しという音を作り出す、不思議で綺麗な公園。まるで透明な絹のような水の流れを堪能するように配置されているベンチ。そこに、紫と白、金の刺繍が入ったマントが突然現れた。黄色の四角い箱を持って。


 いたって平和な憩いの場所。だが、まるで戦場にでもいるように、独健は警戒心マックスで、キョロキョロとあたりをうかがう。自分を毎日 昼時ひるどきおそうある事件を、誰にも、いや同僚に知られないように。


 入念にチェックを入れ終えると、白い手袋は慣れた感じで脱がされ、レイピアは一瞬消えたが、次に現れると、ベンチに立てかけられていた。座る準備ができ、紫のマントを払い、大きく息を吐いて腰を下ろした。


「はぁ〜……大丈夫だな」


 膝の上に置いた、黄色い四角い箱をじっと見つめる。ただの箱なのだ、それは。だが、独健にとっては心臓ドッキドキの、バックバクのもの。女が長い髪をゆい上げたみたいに、キュッと色っぽく結ばれた布をさらっとほどく。


「昼飯……今日はどんな……」


 ごくり生唾を飲み、銀の鉄製のふたをガバッと開けた! はつらつとした若草色の瞳に映った、ピンク色のものを見て、独健の顔は驚愕きょうがくに染まり、すっとんきょうな少し鼻にかかった声が、公園中に響き渡った。


「ハ、ハートっっ!?」


 速攻攻撃並みに、ガバッと、ふたを慌てて閉めた。紫のマントは力なくベンチの背もられにもたれかかり、結婚指輪をした手は空中で大きく縦に振られる。念を押すような声をともなって。


「だ~か~ら~!」


 だが、勢いがあったのはそこまで。頭痛いみたいに手は額に当てられ、ため息しか出てこない感じで、作った人へ愛の言葉、いや文句を放った。


「この新婚ですって、宣伝するような弁当どうなってんだか、はぁ~」


 反対側の肘を膝の上に乗せて、手を交代する。額に当て続けるために。


「絶対、俺が職場で同僚に冷やかされるの想像して、わざとこんなことしてんな、あいつ」


 目の前に広がる景色は地面のはずなのに、青空。そこに浮かぶ、真っ白な雲。その上で、お弁当のふたは、そうっと横滑りさせられ、ハートマークが全貌ぜんぼうを現した。さっき背中で縦にした割には、かたよりもなく綺麗に詰められているお弁当。


「よかったよ。控え室じゃなくて、外で弁当を開けて……」


 空中庭園。背景は全てあま色。その中にぽっかりと浮かぶ、数々の施設に、木々に、ベンチに、日向ひなたぼっこ、散歩をする人々。


 背後の植え込みでかわいらしく咲いているチューリップのまわりでは、ちょうちょがふわふわと春のダンスを踊る。


 噴水を主旋律にした曲に、鳥のさえずりがいろどりを添える。そこに、別のものが混じり始めた。自分がさっきいた多目的大ホールから、リハーサルという歌声が聞こえてくる。奥行きがあり少し低めの聖なる声。それが春風に乗せられ、R&Bというリズムを刻む。


「はぁ~、でも、忙しさとは違って、空が綺麗だ」


 お弁当に手をつけないまま、純粋な若草色の瞳はそっと閉じられ、頬を通り過ぎてゆく春の匂いを胸いっぱいに吸い込む。


「風が気持ちいい」


 穏やかな時間。静かな時。だが、それはすぐに破壊された。誰もそばにいなかったはずなのに、まるで空から落ちてくるように、羽布団のような柔らかさで低めの男の声が降り注いだ。


「キスをしてほしいんですか? 目を閉じて、上を向いてるなんて……」

「ち、違っ!」


 独健は反射神経バッチリですと言わんばかりに、ビクッとベンチから少し跳ね上がり、膝に乗っていたお弁当が10cmほど飛び上がったが、そのまま綺麗に膝の上に無事ストンと着地した。


「そういうんじゃなくて……」


 大急ぎで開けた瞳の前には、どこまでも高く澄んでいる青空をバックに、男の顔が逆立ちしたみたいにあった。カーキ色のくせ毛の短髪はのぞき込んでいるために、重力に逆らえず自分へ落ちてきている。優しさの満ちあふれたブラウンの瞳。それが誰だかわかると、独健はベンチから安堵のために、ズレ落ちそうになった。


「あ、あぁ……お前か」


 緑さす公園の植え込みから、ベンチの前へ回り込む足元は、自分と同じ黒のロングブーツ。透明な地面の上を、のんびりだがしっかりと、かかとの音を鳴らしながら近づき、ひまわり色の短髪の斜め前に立った。


「ハートの愛妻弁当。僕もほしいです」

「お前までっていうか、今日は弁当じゃないのか?」


 両腕を腰の後ろで軽く組み、服の構造は一緒だが、紫が深緑になり、ターコイズブルーのリボンがオレンジ色の制服を着た男。独健より、少し滑らかな線を持つ体躯たいく


 だが、油断も隙もなく、その人の得意技がさっそく出る。優しく落ち着きがあるはずなのに、こんな言葉をマジボケという名で放ってきた。


「僕にはこだわりがあるんです。ですから、今日はお休みいただいちゃいました。愛妻弁当さんには」


 人の関係は、シーソーみたいなもので、自分よりボケのひどい人がいれば、自然とツッコミ役になる。独健ももれずにそうだった。


「微妙に言葉がおかしいから、それ。お休みしていただいちゃいました、だろう。お前がお休みしたんじゃ――」


 愛妻弁当のループから出られなくなりそうだった新婚さんはあきれた感じで、手を横へ振った。


「っていうか、それはもういい」


 キラキラ輝く噴水の乱反射を背中に浴びながら、目の前にいる男は王子のように気品高く微笑んだ。


「僕も昼休みなんですが、お隣よろしいですか?」


 女性にかける言葉のようだったが、独健は別の意味であきれた顔をした。


「今さら、そんなこといちいち聞いて……はぁ~」


 ベンチの上に置いてあった白い手袋と、立てかけてあったレイピアはスッと消え、自分の右隣に陣取った。そうして、左斜め前に立っている男の名を呼ぶ、ふざけた感じで。


たかさま、さぁ、どうぞ、お隣に」


 深緑のマントはスッと消えたが、すぐに姿を現したかと思うと、同じベンチの上に座っていた。そうして、この人の口癖が出る。


「ありがたいんですが、僕の名前は貴増参たかふみです。省略しないで最後まで呼んでください」


 元気な顔を見せるチューリップの植え込みのそばで、独健の少し鼻声が間違えを素早く指摘。


「突っ込むの、そっちじゃないだろう? また、ギリギリラインのボケしてきて……。自分に『さま』ついてる。そこだろう?」


 楽しげに飛ぶちょうちょたちを隣にして、貴増参は自分の胸に片手を置いて、こんなことを言う。


「慣れてしまったんです。もう1つの名前で、『さま』をつけられるんで、習慣ってやつです。いや、反射神経です」


 即行ツッコミ、独健から。しかも、もう1つの名前つきで。


「いやいや、言い直したのが、ボケって、どうなってるだ? 火炎不動明王かえんふどうみょうおうさま」

「その名前は他人行儀なので、貴増参たかふみでお願いしますね」


 語尾だけ軽やかに音符マークでもついたように飛び跳ねた。独健は話そうとしたが、


「俺とお前の仲だから、たかって呼んで――」


 ボケという名で、話がくつがえされた。


「僕の話がまだ残ってるんです。ですから、キスで、独健どっけんの唇をふさいで黙らせちゃいましょう」


 キスされそうな男は、膝の上に乗っていたお弁当箱を、勢いよく横向きで遠くへ投げた。


「ダブルで飛ばしてきて!」


 手裏剣しゅりけんのように公園の空中をどこまでも滑る愛妻弁当だったが、スッと消え去り、なぜかまた、独健の膝の上に乗っていた。そうして、ツッコミの続きが。


「まず、1個目。俺にそういう趣味はないんだっ!」


 貴増参は驚くわけでもなく、あごに手を当て、静かにうなずく。


「ふむ。次回以降の参考にさせていただきます。もう1つは何でしょう?」

「お前、自分の言いたいことがあるのに、お前の口もふさがって、本末転倒だろう! それじゃ!」


 自分がしっかりしないと、会話が崩壊の序曲を奏でるほどのボケ。それなのに、ドミノ倒し並みにやってくる個性的なボケ。貴増参の落ち着いているのに、柔らかな毛布みたいな低い響きをともなって。


「あぁ、そうでした。僕としたことが……ついびっくりしてました」

「いやいや、そこは、びっくりじゃなくて、うっかり!」

「それでは、神業かみわざのごとく話をうっちゃってしまいましょう」

「いやいや、うっちゃるは放り投げるの意味だろう! 聞いてほしいんだろう!」


 華麗にジャンプして、次々に投げられるボケという大暴投をキャッチし続けた独健。全てをファインプレーで、貴増参に返し、軽く息を吐いた。ひまわり色の短髪はかき上げられて、優しさ全開で聞く。


「しょうがないな。何の話だ?」


 だが、自分の横に座る深緑のマントをつけた男は、はるか上手うわてだった。


「実は軽い罠です。君にみずから聞いて欲しかったんです。僕の言うがままをかなえて――」

「いやいや、絶妙にあってる気がするけど、言うがままじゃなくて、わがまま、そこは!」


 順調に進みそうだったが、また始まってしまった、ボケとツッコミ。微笑ましげに、春風が桜の花びらを乗せて、2人の間を吹き抜けてゆく。


 貴増参はコホンと咳払いをわざとらしくして、注目させる、独健の瞳と意識を。


「それはともかく、聞いてください」

「どうしたんだ?」


 聞き返す純粋ではつらつとした若草色の瞳の前に、白い紙袋が急に現れた。それは、貴増参の手の中に収まり、真面目な顔で言う、カーキ色のくせ毛を持つ男は。


「ゲットしちゃったんです」


 袋の中身が予想できた独健は視線を外して、お弁当箱のふたからはみ出している、ハートの線の一部分に、若草色の瞳をあきれ気味に落とした。


「お前またか……。今日は何に心を持っていかれたんだ?」

「僕のハートを射止めたのは! これです」


 紙袋のカサカサという音のあと、目の前に差し出されたものは、こんがりキツネ色の茶色が丸を作る生地。そのふちには、鉄板の灼熱をまぬがれた黄色のやわらかな線。大々的に出されたわりには、よく見るもの。その正体を口にする、独健はいぶかしげな顔をして。


「はぁ? 普通のどら焼きだろう、これって」


 お菓子が白い手袋に連れていかれるのを目で追うと、カーキ色のくせ毛の髪が横へゆっくり揺れたが、


「いいえ、違うんです。これは、この桜吹雪が目に入らないのか!どおりにある、お花畑でランララ~ン♪あんのどら焼きです」


 おかしな固有名詞が立ち並び、独健は首を傾げ、ボソボソと少し鼻にかかる声を、黒のロングブーツの上に降り積もらせた。


「そのネーミングどうなんだろうな? 笑い取ってるとしか思えないんだが……」


 2色の髪の毛の上で、鳥のさえずりが少しの間くるくると舞い踊っていたが、貴増参が仕切り直した。


「君のセリフは終わりましたか? 僕の話がまた残ってるんですが……」


 はつらつとした若草色の瞳は上げられ、自分と似てはいるが配色の違う服を着た、さっきからボケまくりの男の顔を見て、最後だけ、わざとらしくふざけた感じで言った。


「独り言だから、気にせずご説明をお願いします、貴増参たかふみさま」


 春風に溶け込んでしまいそうなほど、穏やかに微笑んで、深緑のマントはお礼という動きで前へ少しかがみ込んだ。


「ありがとうございます。ご親切に話を振っていただいて……」


 さっきのボケが再発。独健は声に出さずに、心の中で密かに猛抗議。


(だから、また『さま』ついてるって! スルーしてくなって)


 さらには、無言で若草色の瞳で、穴があくほど貴増参を見つめて訴えかけていたが、そんなことなどどこ吹く風で説明文が始まった。ちょっと内容がおかしいが、2人にとってはごくごく当たり前のもので。


「あの102宇宙の農場で5年に一度しか栽培されない小麦を使用しています」

「あぁ、そう――」


 うなずこうとした独健を、貴増参はボケでスルーし、息をつく暇など不要と言わんばかりに、説明はマイペースでどんどん進んでゆく。


「卵はウリディア産で2つの太陽の光を存分に浴びて育った木の中でも選び抜かれたものからみさらに厳しい審査を通った一級品です小豆あずきですがこちらも北斗星の広大な大地の中でのびのびと育てられたものの最高級品を使っています砂糖は皇室御用達のものと同じものを使用し熟練した職人がたくみの技で焼き上げたものなんです」


 句読点が無視された言葉の羅列。絹のような噴水の滑らかな水音と、近くではしゃいでいる子供たちの声、桜の花を乗せた風のだけに戻り、穏やかで平和な公園で、男2人の話し声はピタリと止み、2、3秒経過。


 それでも、1mmとも動かなかった独健と貴増参。その間、はるか背後にある多目的大ホールからの、リハーサル中の男の歌声がただただ、BGMのように風に乗せられてきていた。しかし、少し鼻にかかった声が沈黙を破った。


「……終わったか?」


 たいそう満足という感じで、貴増参はのんびりとうなずく。


「えぇ、僕の散弾銃トークは今ので全て終了です」


 四方八方へ銃弾が飛ぶ武器の名前がいきなり出てきた。結婚指輪をした独健の左手が素早く頭上に上がり、横へ激しく揺れる。


「いやいや、最後のめくくりでまたボケてきてるだろう! そこは、マシンガントーク……」


 レイピアの刃元で銃弾をはじくように、見事に素早く突っ込んだ独健は、昼休みがボケとツッコミだけで終了してしまいそうな勢いを前にして、1つため息をついた。


「はぁ~、まあいいや。で、数は幾つだったんだ?」


 待っていましたとばかりに、身を乗り出した貴増参の足元では、真っ白な雲が風に流され遠のいてゆく。


「よく聞いてくれました。驚いちゃいますよ。限定5個です」


 極端に少ない数字、店のもうけも度外視された感が思いっきり漂う。だが、ここもスルー。しかし、さっき、自分もお昼休みだと言っていた相手。当然の矛盾点と心配事が、独健から向けられた。


「それじゃ、早朝から並ばないと買えないだろう。お前、仕事はどうしたんだ? 隣の施設で大会の警備だろう? しかも、今日、初日だから抜けられないだろう」

「とある方に頼んじゃいました」


 やけに意味深な言い方。柔らかな毛布で包み込むような低い声の持ちぬしの罠が、実は水面下で進んでいるとは知らず、独健は噴水の落ちてゆく水のきらめきを、若草色の瞳にぼうっと映す。


「同僚じゃないよな……? 今日はきらめき隊、総動員だろう? 友達にか?」


 独健は躾隊しつけたい

 貴増参は煌きたい


 ここも絶妙に笑いが仕掛けられている気がするが、もう慣れてしまった、いや国の機関名に物申すはできない2人。そこは飛ばして、クイズ番組みたいな音が、貴増参の低い声で再現される。


「ブブー、不正解です」


 同僚、友達とも違う。深緑のマントの影になって今は見えない、貴増参の左薬指にされた指輪を、独健は記憶という残像から拾い上げた。


「あと、誰がいた……?」


 だが、独健は首を傾げたままで、対する貴増参から出てきた言葉はこれだった。


「彼にです」


 固有名詞ではなく、ただの3人称。独健の少し鼻にかかった声で、公園の空気に入り混じる、ツッコミという名の響きが。


「いや、だから、男は全員、彼になるんだから、いっぱいいるだろう」


 正面を向いたまま考え続けている独健の横顔に、貴増参は問いかける。


「ヒントが欲しいですか?」

「まあ、そうだな」


 順調に進んでいるような会話だったが、ここで崩壊が入った。


「それでは、僕の心に鍵をかけて、秘密にしちゃいます」


 さっきから、全然食べられないお弁当を膝の上に乗せたまま、独健はオーバーリアクションで突っ込もうとしたが、


「いやいや、前振りしておいて、意味不明だろう! それ――」


 途中でさえぎった貴増参の雰囲気はさっきとは違って、男の香りが思いっきりするものになっていた。


「鍵を開けたいのなら、先ほどのことをしましょうか?」


 最初にふられたキスの話に戻ってしまい、独健は負けずに猛抗議するつもりでいたが、


「だ~か~ら~! そういう趣味はない――」


 無防備に膝の上に乗せられていた左手を、貴増参の結婚指輪をした手につかまれ、2つの契約という名のリングがぶつかった。当たり前のようにこの言葉が告げられる。


「瞬間移動です」


 2人はパッとベンチの上からいなくなった。独健の膝の上に乗っていたお弁当箱は、持ち主の足がいなくなったことによって、ベンチの上にゴトっという音を立てて落ちた。


 人が突然消える。しかし、そんなことに誰も気づいていないのか、驚きも何もなく、清流のような噴水の癒しの音と神が与えし陽光の元で、他の人たちは平和に穏やかに過ごしていた――――



 ――――一瞬のブラックアウトと静音のあと、さっきまで遠くで聞こえていたリハーサルの歌声が、すぐ近くになっていた。風が頬を切る音が戻り、思わず閉じていたまぶたを開けると、桜の花びらが青空を背景した木々の緑の前を横切ってゆく。日向ひなたではなく、日陰。


 独健が仕事をしていた場所とは違うが、多目的大ホールの近くであることは間違いない。R&Bという音楽の響きの大きさからして。


「うわっ! お前、いきなりどこに連れてきたんだ!」


 キョロキョロしている独健とは対照的に、落ち着いている貴増参は、少しグレた感じで、本人だけがすごみがあると思っている表情をする。


「放課後、コンサート会場の裏に来な! 作戦です」


 思惑通り連れてこられてしまったという、軽い罠が張られていた。だが、そこは同じボケ、いや、感覚の独健はスルーしていってしまい、あちこち立ち入り禁止の柵に囲まれている日陰で、彼の黒のロングブーツはイライラした感じで、少し踏み鳴らされた。


「いやいや、その、放課後の呼び出しみたいな言い方をするなって」


 優しさの満ちあふれたブラウンの瞳は、独健のはつらつとした若草色のそれをのぞき込むために、お互いの息がかかるほどの位置まで、ぐっと顔を近づけた。


「そういう趣味の『そういう』は具体的に何ですか?」


 問いかけられた独健の視線は落ち着きなく、あちこちに向けられるが、その先は全て立ち入り禁止の看板だらけで、男2人だけの野外という影の死角。


「……人に見せる趣味はないんだ」


 深緑色と紫のマントは、国家機関の任務という立場を忘れて見つめ合い、パーソナルティースペースをとうとう突破した、お互いの黒のロングブーツは。貴増参の右手は独健のはつらつとした頬に寄せられ、甘いりんご酒で酔わせるように誘惑する。


「それでは、僕がキスで愛のラビリンスへ君を連れて行こう」


 恋愛ものも真っ青なセリフを聞いて、独健は貴増参の手をガバッとつかみ、自分の頬から乱暴に投げ捨てた。


「そんな女を口説くみたいな言い方をして、お前」


 気にした様子もなく、落とされた手を胸に当て、オレンジの細いリボンの上で、毛布のような柔らかな男の声が響く。


「僕はこう見えても、女性を口説いたことは一度もありません。なぜなら……」


 結婚指輪をしているのに、こんなことを言う男。独健は勢いよく言葉をさえぎり、ふざけた感じで少し大きめの声をそこら中に飛ばした。


「見合い結婚だったからです!」

「そう、よく知ってますね」


 驚くこともなく、リアクションも少ない貴増参。その前で、少しイラついた様子で、独健のひまわり色の短髪は、手でくしゃっとかき上げられる。


「有名だろう、お前のその話は。1人で見合いに行けないからって、皇帝陛下に一緒に行ってほしいって、恐れ多くも頼んだって」


 どうやら、帝国のような、この場所。それなのに、付属機関の一隊員が、国で一番偉い、皇帝に見合いの同伴を申し込むという珍事。だがしかし、当の本人、貴増参は手をカーキ色のくせ毛で覆われている頭に当て、少しだけ苦笑する。


「いや~、照れる話です」

「いやいや、それを言うなら、恥ずかしい話だろう。次々にボケてきて」


 ここにもツッコミポイントは隠されていた。貴増参は気まずそうに咳払いをし、さりげなく自分の婚姻歴を披露し始めたが、


「んんっ! それは、もう14年前の遠い昔話ですから、置いておいて――」


 独健はさっきまでとは打って変わって、真摯しんしな眼差しで割って入ってきた。


「お前の生きてる時間の長さから考えれば、つい最近だろう?」


 だが、ここから何だか話がおかしくなる。


「そう、僕はこう見えても、2037年、人生楽しんじゃってますからね」

「この世界のやつらの中では、まだまだ短いんだろうな」


 37年ではなく、書き間違えでもなく、本当に4桁を生きている。しかも、さらに長く生きている人がいるような素振り。遠くで聞こえるメインアリーナの人々の驚きという歓声に耳を傾けながら、2人は話を続ける。


「そうかもしれません。そう言えば、僕は独健どっけんの年齢を知らない。教えていただけますか?」


 頬に触れたり、キスをしようとしていたわりには、他人行儀な会話。独健は照れたように鼻で少し笑って、右手を腰に当てた。


「今さらな気もするけど、言ったことなかったな」

「あまり関係ないですからね。僕は23歳という設定ですから」


 2037年はどこかへ消え失せ、いきなり23年が出てきた。だがしかし、この場所では当たり前のことで、独健からも変な数字が出てくる、少し鼻にかかった声をともなって。


「結婚して、俺は26歳が23歳になった。実年齢は2036年だけど……」

「それは、僕とおなどしです」


 どうやら2つ年齢があるようだ。貴増参のカーキ色のくせ髪が桜の花びらの混じる風に優しく揺れる。独健のはつらつとした若草色の瞳が見上げると、どこまでも高く伸びて行くような青空に、他の宇宙へ行く飛行機が銀の線を斜め上へ向かって引いてゆくところだった。


「まぁ、今の歳の数え方なら、同じ歳だけどな。687年で、1つ歳を取るんだから」


 おかしな話がまた出てきたが、とうとうやってきてしまった、お楽しみの時間が。貴増参の柔らかで低めの声が、独健の斜め上を向いている横顔をうかがいながら、晴れた日に食べるアイスクリームみたいに甘く溶けるように響いた。


「それでは、同級生の唇に甘いキスを落としちゃいましょうか?」


 結局、戻ってきてしまったキスの話に、独健は海の底のような深いため息をつきながら、ブラウンの瞳を真っ直ぐ見つめ返した。


「はぁ~……白旗だ」

「僕が君を愛でチェックメイトです」


 貴増参の羽布団のように柔らかな声が響くと、深緑のマントは紫のそれを両腕で、天使の翼のように優しく包み込んだ。2人の瞳はそっと閉じられ、唇が触れ合う。色の違う制服も髪も、突然吹いてきた桜の花びら混じりの春風に、キスの激しさを、甘さを表すように揺れ動く。


 立入禁止区域だろうが、人が集まる場所には変わりがない空中庭園。遠くでは歓声、すぐ近くではリハーサルの低いボイス。人の気配がそこら中でする場所。それでも、妻にも同僚にも秘密で内緒のキス。


 真っ暗な視界で、お互いの唇の温もりと感触だけがやけに、はっきりと深く心の奥底に、体中に刻まれてゆく。


(うわ! すごいドキドキする~!

 けど、どっちのドキドキだ?

 人がいつ来るかわからないからか?

 それとも、たかとキスしてるからか?)


 ターコイズブルーのリボンの下で、メタルみたいな激しいビートを刻む、独健の胸。貴増参の深緑のマントは連れ去ろうとするように、同じ背丈の男をしっかりと抱きしめる。


(吊り橋効果の応用です。

 鼓動が早くなるような環境でキスをすると、ドキドキが倍増します。

 それはそれとして、君とのキスは星空みたいにキラキラしてます)


 誰も通らないコンサート会場の裏で、2人の黒のロングブーツはしばらく寄り添っていた。お互いに着用が義務付けられているレイピアのシルバーの柄が、すれ違うように交差し合いながら――――



 ――――青空が広がる地面に隣同士で腰下ろして、多目的大ホールのコンクリートの壁に寄りかかる。2人の前を時折、紫のマントをつけた他の隊員が忙しそうに現れては、1歩足を前に出す寸前で消えるを繰り返している。瞬間移動の空港みたいなコンサート会場の裏。


「新しい生活には慣れましたか?」


 問いかけた貴増参の瞳には、遠くで風船を持つ子供を間にして、仲良く歩いている親子が映っている。同じ家族を見ていた独健の若草色の瞳は、いつもと違って影を持ち、透明な地面へと視線は落とされた。


「……慣れようとはしてる」


 綿菓子みたいな白い雲が風で流れてゆく。


「僕が巻き込んでしまった。僕の責任――」


 紫と深緑のマントの死角で、お互いの手が地面の上で少しだけ重なり合い、温もりが遠く切なく広がる。独健は顔を上げて、まだ前を向いている貴増参の言葉をさえぎった。


「違うだろう? どんなことでも、どんな状況でも、最後にゴーサインを出したのは自分なんだ。断りたいんだったら、全身全霊をかけて断る。従いたくないんだったら、あらがい続ける。だから、俺の責任だろう」


 だが、すぐに視線はまた下へ落ちて、いつも元気で大きな声でハキハキと話す彼らしくなく、失速気味の言葉が膝の上に、戸惑いという線を描きながらこぼれる。


「ただ、混乱してる、正直。次々にくるから……」


 せっかくいい雰囲気のシリアスシーンだったが、崩壊された。貴増参のこんな言葉で。


「君も大切です」

「いやいや、そこは、大変!」


 気まずそうな咳払いがされると、独健の新婚さん話が出てきた。


「んんっ! 職場結婚をしてしまいましたからね」


 紫と深緑のマントでわけられた国の機関。その2人の間で交わされる会話。


「大元は確かに一緒だけど、部隊が違うから、同じ職場じゃないだろう」

「ですが、以前は……」


 そこまで言った時、遠くのメインアリーナで、怒涛どとうのごとく歓声が、天地をひっくり返すような勢いで響き渡った。2人の興味は一瞬にしてそこへ向き、近くで咲いていたスミレの葉っぱは、独健の指先でつままれながら、その主は何かを気にした。


「そういえば、結果はどうだった?」

「1回戦敗退です」


 何かの結果が負け。独健はもし自分が同じ立場だったとしたらと思うと、紡ぐ言葉がすぐには出てこなかったが、それでも明るく前向きに取り、少しカラ元気に別の言い方をした。


「初出場だし、あれは俺たちと違って若いから、まだまだこれからだよな?」

「僕もそう思います」


 貴増参はカーキ色のくせ毛を縦にのんびりと同意という動きで振って、にっこり微笑んだ。まるで子供を見守る父親のような大きく温かな気持ちで。


 鳥が歌い、ガラスで作られた空中庭園。空色を背景にした各施設や木々に花々。どこまでも穏やかな時間が過ぎてゆくように思えたが、貴増参の特に驚いた様子もない声で終了した。


「あ、うっかり忘れるところでした。独健どっけんともっと話してたいところですが、ちょっと彼のところに届け物をしないといけないんです」


 また出てきた3人称。固有名詞ではないもの。独健はもう何度ついたかわからない、ため息をついて、突っ込み始めようとしたが……。


「だから、彼はたくさんいるから……」


 はたと気づいた。自分の居場所が変わってしまっていることに。今目の前にいる男がかけた瞬間移動によって。しかも、膝の上に乗っていた黄色の布に包まれた愛妻弁当までなくなっている状況下で、少し鼻にかかる声が大きく響き、ひまわり色の短髪は両手でぐしゃっとかき上げられた。


「って、俺の昼飯、さっきのとこに置きっ放し!」


 左手を自分の前に出して、何かを待ってみたが、ただ手のひらがそこにあるだけで何もなく、変わらず、手相を見る占い師のようにじっと見つめたまま。しかし、白の手袋とレイピアだけは不思議なことに、腰元と反対の手にすっと出てきた。


 何が起きているのか、それでわかった貴増参の口から、世の中がどれだけ平和なのかが語られる。


「大丈夫です。この世界には勝手に持って行く人はいません。ただ、親切な方が届け出て、愛妻弁当さんはどちらかで預かられてるかもしれない」


 近くにあった細いポールの上に止まる時計を見上げ、独健は自分の休憩が始まってから50分経過していることを知り、がっくりと肩を落としたことによって、腰のレイピアの柄がシルバーの半円の揺れを起こした。


「あと、10分で休憩終了。俺の昼休みが~~、俺の昼飯が~~」


 自分たちの背後にある壁の向こうから、R&Bという音楽のリハーサルがさっきからずっと続いてきていた。貴増参はあごに手を当てて、黒のロングブーツをわざとらしく交差させて、こんなことを提案。


「彼に頼んで、魔法で持ってきてもらう……という手もあります」


 特殊能力がいきなり出てきたが、ここもスルーされてゆく。白い手袋を握った手で、こめかみを押さえて、頭痛い的な顔をした、独健は。


「無理なのわかるだろう。何を言ってんだか……。あいつ、思いっきり仕事中だろう?」


 その時だった、貴増参の左手に白の紙袋がすっと現れたのは。そこから、限定5個中2個買い占めたどら焼きを、中からカサカサと取り出した。


「それでは、1つ差し上げます」

「サンキュウ」


 夏の日差しの元で元気に咲くひまわりのように、独健はさわやかに微笑んだ。だが、貴増参からこんなおねだり、いや策略が放たれた。


「あとでご褒美ほうびくださいね」


 深緑のマントが背中を見せて去ってゆくのを、目で追いかけながら、独健はすがるように引き止めようとしたが、


「お前がくるの? 予約をするなってっ!」


 貴増参の黒のロングブーツはすうっと180度振り返って、にっこり微笑み、右手を顔の横で、さよなら〜みたいに揺らして、こんなことを言う。


「それでは、また来週です!」

「いやいや、そのテレビ番組の終わりみたいな言い方をして、来週じゃなくて、今日の話だろう!」


 あとでと言ったのに、来週という意味不明以外何物でもない言葉を残してゆく、さっきキスをした男。しかも、独健のツッコミの途中で、すうっと瞬間移動をして、マイペース全開で去っていった。


 一人取り残された独健。リハーサル中の男の歌声が聞こえる中で、舞い散る桜の花びらを頬で髪で感じながら、若草色の瞳は優しすぎるくらいに微笑む。


「どら焼きの説明したくて、俺のところにわざわざ来て……。相変わらず、可愛いやつ……」


 確かに、貴増参の話の内容はそれだった。だが、自分の言った言葉にびっくりして、独健は両手でひまわり色の頭を抱え、くるっと壁に向き直った、誰とも顔を合わせないように。そして、目を大きく見開きいて、思わず吹き出す。


「ぶっ! 俺、何を言ってんだ? 超恥ちょうはずっ!」


 少し鼻にかかった声が壁に大きくバウンドして、彼の背後を通っていた同じ部隊の紫のマントを着た人々が一瞬動きを止めて、こっちを見ていたが、何事もなかったように、瞬間移動の途中地点として、現れては消えるをまた繰り返し始めた。


 とにかく腹ごしらえということで、もらったどら焼きの袋を開けると、甘くこうばしい香りが空腹の嗅覚を刺激した。さっそくぱくつき、独健は感嘆の声をもらす。


「ん? 本当においしいな。さすが限定5個」


 1分ずつ時を刻む時計の針と重なり合うようにして、どら焼きを持ち上げ、ひまわり色の短髪は疑問という動きで傾く。


「でも、これ、本当に誰が買ってきたんだ?」


 購入者が不明のまま、休憩時間は過ぎてゆく。上も下も360度、空という澄み切った青に囲まれた空中庭園。桜の花びらという年に1度しか出会えない恋人を、逢瀬おうせという名で包み込みながら、吹き抜けてゆく春風が、夕暮れ時に毎日訪れる独健の未来を暗示しているように、微笑ましく過ぎていった。

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