シャドウ・ファイター
冷門 風之助
ROUND 1
事の起こりは後楽園ホールだった。
その日、俺はある男に頼まれ、午後5時に出向いた。
当たり前だが、後楽園ホールといえば、格闘技のメッカというべき場所だ。
ボクシング、プロレス、etc・・・・まあ色々である。
俺は確かに元自衛官だし、幾つかはやっていた。
しかし特別格闘技が好きだという訳じゃない。
(ただ、ボクシングは幾らか好きだが)
だから、自分で金を払って観戦をするなんて本当に稀である。
勿論今日もプライベートじゃない。
仕事だよ。
話はそれより5日ほど前に
その男は、それほど身長は高くないが、肩幅はやけに広い。
まるでハンガーを二つぐらい並べて入れたような雰囲気だった。
顔立ちはゴリラ・・・・いや、違うな。
ガキの頃にテレビで視たロボットアニメに出てきた敵役のロボット。
そんな感じだった。
彼は電話帳で俺の事務所を調べて、
『名前が気に入ったから』やってきたのだという。
『
俺は『コーヒーは呑まない』というこの依頼人のために、湯を沸かして、たまたま知り合いが置いて行った昆布茶を淹れて出した。
依頼人の名前は、
『シャーク郷原』なら分かるかな?
彼は70年代後半にデヴューし、80年代、そして90年代と、プロレスの世界では、その人ありと知られた名レスラーだった。
だが、お世辞にも高くない身長と、無口で、ショーマンシップの下手な性格だったためか、メインイベンターにはなれず、いつも前座か、よくってもセミでやれるくらいが関の山だった。
だが、その技・・・・分けても関節技と寝技にかけては右に出る者のいない達人として、
『職人』だの、
『仕事師』
だのと呼ばれ、コアなファンの間では一定の人気を保っていた。
80年代後半、それまでのプロレスとはちょっと違う、
『格闘技ムーブメント』が起こり、彼もその際、新しい団体で名を売った。
その団体、
『ネオ・レスリング』は、ショーアップを排し、あくまでも『真剣勝負』を売りにしていた。
確かに一時は熱狂的なファンがつき、プロレスメディアだけでなく、一般の新聞や雑誌にまで取り上げられたものだ。
しかし、その熱は燃え上がるのも早かったが、冷めるのもまた早かった。
どんなに口角泡を飛ばして主張してみたところで、やはり『プロレスはショー』であり、
『見せるスポーツ』でなければならない。
そういう意識を拭い去ることは出来なかったという訳だ。
となると、幾ら迫力があっても、見せ場が無く、ショウアップされていない試合は、地味で詰まらないと思っても無理からぬところであろう。
徐々に客足が遠のき、そうなれば収入も減る。
勢い、選手たちへのファイトマネーも出せなくなってくる。
で、結局、
『ネオ・レスリング』は空中分解してしまったという訳だ。
郷原は有力選手が他団体に引き抜かれていっても、批判がましい言葉は一切口にせず、自分一人で団体を維持しようと必死になったのだが、それも限界があった。
90年代の終わり、彼は50歳を過ぎたのを契機に団体の旗を降ろさざるを得なかった。
それ以後、彼は焼き鳥屋を経営しながら、インディー団体のリングに上がったり、
『関節技教室』なるものを開いて、教えを請いにやってくる若い連中に技を教え続けた。
分かるヤツには分かるだろうが、関節技ってのは確かに威力がある。
ほら、よくプロレスなんか見てると、技をかけられたレスラーが派手に痛がってる場面なんかに出くわすだろ?
実際はあんなこと、殆どあり得ないんだ。
本当の関節技は、
かかった!
あっ、痛い!
パンパン(タップする音)
てなもんさ。
だから見かけより地味な技なんだ。
あんな風に我慢なんかしてたら、腕や脚が幾つあったって足りやしない。
だから、初めのうちは盛況だった彼の『関節技教室』も、そのうち一人減り、二人減りで、今では日によっては10人くるか来ないかといった有様だから、最近は
殆ど、
『開店休業』みたいな有様だそうだ。
だが、そんな彼の教室に、どれほど『痛い思い』をしようと、ほぼ毎回のように通ってくる男がいた。
それが『彼』だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます