第5話

 実家から荷物が届いて早1週間。私は未だに東京の暮らしに慣れず、というか一人暮らしに慣れず、寂しさが頂点に達していた。

 私が暮らす家は本屋の2階。一人暮らしには申し分ない広さと設備を兼ね備えているのだが、地元とは違う空気はあまり心地良いものではなかった。

 備え付けの遮光カーテンを少し開ける。

 砂で汚れた窓からは5分咲きになった桜がわっさわっさと風に吹かれるのが見える。なんだか落ち着かない。

 「はぁ…。帰りたいなぁ。」

 入学式前のレクリエーションまであと1週間。私はなぜこんなにも早く引っ越しを済ませてしまったのだろう。


 昼間は車通りが少なく、比較的静かな新居周辺は、夕方になると向かいの公園で遊ぶ子供がキャッキャキャッキャとはしゃぐ声が聞こえる。時々猫の声が聞こえたり、サッカーボールを思い切りける音が聞こえたり。公園で繰り広げられている光景を思い浮かべては少し微笑む。

 けれど夜になるとその風景は一変する。

 酔いつぶれたサラリーマンがうろついていたり、やんちゃな高校生や男達が喧嘩をしていたり。聞き慣れていない声が私を取り巻く。

 子供の声は私に安心感を与えてくれるのだが、夜特有の雰囲気と音はどうしても好きになれない。

 人の足音、ただ車が通る音、停車する音。当たり前の生活音でさえ、私は恐怖を感じるようになっていた。チャイムを鳴らされるのではないかといつも怯えていた。


 この1週間、私はカーテンや窓をろくに開けず部屋を閉め切って生活している。買い物もまとめて同じ日に済ませ、外出する日を極力減らした。誰かに後をつけられて、家に逃げ込んだ所で助けてくれる人は居ない。しかも公園が家の真ん前に鎮座しているため、不特定多数の人が行き来している。当然怪しい人だっている。

 そんな危険と遭遇する確率は多くないことは知っているが、わざわざ怯える回数を増やす必要はない。

 脳内をぐるぐると恐怖が巡る。

 そんなこんなで引っ越してからというもの、私の特技であるネガティブ発想の悪循環により私は心身ともに憔悴していた。

 「こんな私で本屋なんて務まるかなぁ」


 私は久々に1階の売り場へ降りた。

 薄暗い店内で表面に埃が被った絵本を手に取る。いかにも子供受けしそうな奇抜な色彩が眩しい。

 私は薄く被った埃をそっと指でなぞった。

 「前の店主と同じ売り方をしても本は売れないよね。何か新しい売り方ができればよいのだけれど…」

 無意識に外を見た。いつもと違った角度から公園を眺める。サッカーをしている少年3人、ブランコを振り切れそうな勢いで漕ぐ2人組の少女、1人でギターを掻き鳴らす青年。

 いつもは桃色に膨らんだ桜の木に隠れてしまって見えなかったのだろう。名前も知らない誰かの生活の一部が見えた。

 私はその誰かを眺めながら持っていた絵本をそっと置いた。

 私は何かに吸い込まれるようにドアのほうへ向かい、そっとドアを押した。店内に入った空気は春の匂いがした。

 「風が生きている…」

 風はここにいるよ、と地面に落ちていた花びらをすくい上げ、私に自身の存在を誇示した。

 「わかってるよ」

 私は外に出てドアを閉める。花びらと私は目の前の公園に向けて足並みそろえて歩き出した。

 もうずいぶん暖かくなった。私は純白の長袖ワンピが風で翻りそうになるのも気にせず、公園入口のコンクリートに足を踏み入れた。

 高校生活で履き潰された黒いローファーがコツン、と軽い音を立てた。

 その音は風に乗って春晴れの空へと溶けていった。

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