102 その言葉が言えなくて
「……あ、あぁ……ぁぁ……」
自分でも情けないと思う、か弱い声が唇からこぼれる。
彼の顔を見た瞬間、心臓が握り潰されるかのように縮んだ。
冷たい苦しさが心の中心から全身に浸透して、体がうまく動かなかった。
もう会いたくなんてなかった。その顔を見たくはなかった。
再び相見えてしまえば、感情が荒れ狂ってしまうとわかっていたから。
だというのに、望まぬ再会が、こうも最悪の形で成されるなんて……。
「………………」
ファウストは静かに私のことを眺めて、しばらく口を開かなかった。
城の至る所から雄叫びや怒号が響いてくる中、この玉座の間だけが不自然な静寂に包まれている。
彼の優美な外見は、今は酷く乱れ、汚れていた。
美しい金髪は鈍くくすみ、美麗な相貌はいくつかの傷と汚れが穢していて。
そしてその絢爛な衣服も、まるで泥の上に転がされていたかのように、ボロボロに汚れていた。
ホーリーたちが言っていた通り、幽閉されて手酷い扱いを受けていたのだろう。
魔女をまんまと国の中枢に招き入れた罪人として、拷問の一つや二つ、受けたに違いない。
即刻死刑にならなかっただけマシ。それは彼が王子であるが故の、体裁を考慮した酌量か。
彼のそんな痛ましい姿を見るのは、とても居た堪れなかった。
しかしファウストは、そんな散々な自身の様子を気にすることなく、静かに私だけを見ている。
その視線が私には、どんな刃よりも鋭く感じられた。
そして、静寂は束の間で終わる。
ファウストは荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと足を動かした。
「────近寄らないで!」
反射的に叫ぶ私に、ファウストは素直に歩みを止めた。
しかしそれはほんの僅かな間だけで、彼は目を細め、すぐに再び足を前に進めようとした。
「来ないでと、言っているの!!!」
彼が迫ってくることにどうしようもない恐怖を覚えて、私は吠えるような声を上げた。
半ばパニックになった私は、荒れる叫びと共に反射的に魔法を行使し、魔力を強く込めたエネルギーの塊を撃ち放った。
しかし、ファウストはその私の攻撃を、白い剣の一振りで事も無げに打ち消して見せた。
まるで飛んでくる小虫を振り払うがごとく、何でもないというように軽やかに。
「『真理の
その様を眼前で見せられて、私はようやくカラクリを理解した。
私が作り出した『真理の
その剣は、あらゆる事象、現象に対して真実を下し、正す力を持っている。
あらゆるものを混濁させる、混沌という性質を持ったジャバウォックの力を、整然と正す事で打ち消したのも、その力の方向性ゆえ。
その『真理の
恐らくそれは私の魔法に限った話ではなく、もちろんジャバウォックの混沌に限った話でもなく。
ヒトが扱う神秘という、未完成の力そのものが、真理の正しさが働く対象なのだろう。
ヒトが扱う神秘は所詮、世界が持つ大いなる力が引き起こす現象を真似たものに過ぎない。
そんなものを及ばぬヒトの身で行使しても、それは世界が持つ本来の姿からすれば、紛い物の不純物でしかない。
ヒトがそういった超常を起こすのは本来あり得ない事だから、『真理の
「その力を、その剣をあなたがどうして……! いいえ、それは元々、
歩みを止めないファウストに、私は立て続けに魔法を浴びせかける。
しかしそれはやはり、『真理の
どんなに私の魔法が強大であろうと、絶対的な真理の前には、ただの歪みとして処理される。
世界に影響を与えている現象を、正しい形に戻される。
それを理解してようやく、あの時彼らがどうして、暴走する私の目の前に立ち続けられたのかも理解した。
あの剣が、私の力で作り出した剣が、私の魔法から彼らを守っていたんだ。
「……ドルミーレ」
私の魔法の悉くを打ち消して、ファウストは手の届く距離まで近づいて来た。
ホーリーとイヴニングが私を庇うように前に立ったけれど、彼は二人を気にする素振りも見せず、私だけに視線を注ぐ。
私はもう顔を下げる事も目を覆う事もできず、ただ戸惑いを抱えてその瞳を見返すことしかできなかった。
「こうなることを、私は望んではいなかった」
その声は今までと変わらず優しくて、しかし初めて聞く悲しさを帯びていた。
その冷たい声色が、私を耳から凍てつかせる。
「私は貴女を愛していた。いや、今でも狂おしいほどに愛している。貴女のためならば、何を失っても構わないと、そう思っていたんだ」
『真理の
迷いや怯えを孕んでいるのに、それを強い意志で押し除け、今こうしてここに立っているのだとわかる。
「しかし、もうそうも言っていられない。貴女はその力を振りかざし、この国の、この世界の脅威となってしまった。本来はそうでなかったと信じているが、今はそうなってしまった……」
ファウストの一言ひとことが、とても痛い。苦しい。
まるで体の隅々に、一本いっぽんゆっくりと刃を突き立てられているようだった。
今すぐ逃げ出したいのに、その刃に縫い付けられて動けない。
「ならば私は、この国の王子として────いや、君を愛する者として、君を打倒し世界を救済しなければならない……! 君という魔女が、これ以上世界を脅かさないように」
そう、とても寂しげに宣言して。ファウストはゆっくりと『真理の
両手で握られた剣は少し震えていて、私を見るエメラルドグリーンの瞳もまた、静かに揺らいでいた。
「ただ、その前に一つだけ教えてほしい。ドルミーレ。貴女は、私のことを愛してくれていたのだろうか。もしそうだったのだとすれば、私は……」
その先を、ファウストは口にしなかった。いや、できなかったのだろう。
それを私は想像することしかできないけれど、でもそれに意味なんてない。
ただ、その問いかけは私の心を掻き乱した。
私がファウストを愛しているか。そんなの決まってる。
私があなたと出会ってから、この心はずっと一つの感情に埋め尽くされていたのだから。
とても幸せで温かで、私の命はこのために生を受けたのだと、そう思えた。
呼吸が苦しい。それでもゆっくりと、唇を開く。
「ファウスト。私はあなたを────」
愛してる。そう言いたかった。
でも、言えない。
「私はあなたが、憎い…………!」
私の心に渦巻く黒さが、全てその言葉に乗せられた。
もう愛せない。愛おしさが全て憎悪に変わってしまう。
ファウストを愛していた分だけ、その存在が憎くて堪らなくなってしまう。
あんなに愛して、あんなに心を交わして、あんなに時を重ねて、あんなに想いを融け合わせたのに。
それでも彼は私を裏切って、愛するはずの私に恐れ慄き、そして刃を向けたのだから。
狂おしいほどに愛してる。
でもその破裂しそうな愛が、今は
どうして愛し続けてくれなかったのと、どうして偽りを語ったのと、怨嗟が私を埋め尽くす。
愛しているのに、愛していたのに。
悲しくて、辛くて、苦しくて。その痛みが私の愛を歪める。
繋がりの不確かさをこれでもかと証明された今、愛情という概念すらも憎らしく思えてしまって。
それを抱いていた自分、それを交わしていたと思っていたファウストが……許せない。
「……そうか」
私の告白に、ファウストは短くそう応えた。
下げた視線の意味は何か。今はもうそんなことどうでもいい。
「世界を恐怖に貶める、悪しき魔女ドルミーレ。お前は、私が打ち倒そう」
決意に満ちたその声は、しかし力強さと裏腹に静かで。
もうその声も、聞きたくはなかった。
「勝手なことを……! 何が、何が悪しき魔女か! 死ぬのはあなた────あなたたちよ! 愚かで醜い、下等な人間め!!!」
心が黒にどっぷりと使って、絶望だけが私を満たす。
もう嫌だった。何もかも嫌だった。何も信じられない。
愛なんて存在しない。この世に繋がりなんてない。
誰しもが自分勝手で、独りよがりで。確かな情愛なんて存在しない。
────なら、この感情はなんなのか。知らない。
あぁ、愛おしさが憎らしく、それを抱く心が悲しくて痛い。
心は感じることをやめず、しかしだからこそ傷を作り続ける。
もう何も見たくない。何も感じたくない。
私が愛していたもの、私を愛していたもの。なにもかも。
全て消えて、なくなってしまえばいい。
全てがどうでも良くなって、私は再び魔法を放った。
それを止めようとするホーリーとイヴニングを振り払って、目の前のファウストに向けて行使する。
しかしやはりか、それは『真理の
そして隔たり失った間合いに、ファウストが剣を振り上げて入り込んできた。
「ファウスト……ファウスト、ファウスト、ファウストッ…………!!!!!」
魔法はもう間に合わない。何をしてもその刃に切り裂かれる。
硬直した体、停止した思考、凍りついた心で、私は目の前の男の名を叫んだ。
何故かは、わからない。
「ッ…………!!!」
そして、逆手に持ち変えられていた剣が振り下ろされる。
ファウストの手によって、『真理の
強く強く、純白の刃を押し込みながら、ファウストは囁くように呟いた。
「ドルミーレ。私は、貴女を愛していた……」
私だって、愛していたのよ。
終ぞ、口にすることはできなかったけれど。
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