90 混沌のその先
黒い空にその気味の悪い巨体を浮かべながら、ジャバウォックは私を嘲笑うように見下ろしている。
その姿を中心に渦巻いている闇は、物理的にのし掛かってきそうな程に重苦しい。
そんな怪物に対し、私は純白に染まった剣を構え、漲る力を遠慮なく吹き出した。
一部とはいえ真理の力を獲得した私の魔力は、汚れなき白のように澄み渡っている。
あらゆるものを混ぜ込み台無しにする混沌の力にも、決して負けないように思えた。
しかしそれでも、空から降りかかってくる
あれは、私の抑止であるミス・フラワーの役割による産物。
世界に反する私を正し罰するための、相反する存在として生まれた怪物。
だからあのジャバウォックは、あらゆる面に於いて私と正反対で、だからこそ私には全てが受け入れられない。
忌むべき穢らわしさも、その悪辣とした性質も、そして私の大切なものを奪おうとする、その方向性も。
何もかもが許し難く、私を否定する様は憎らしさすら覚える。
お伽話に語られる、混沌の魔物ジャバウォックとしか呼びようのない怪物。
しかしその本質である私に反するものという立場が、何より生理的に受け付けなかった。
飽くまで私の力の一部から生まれている抑止なのだから、それは私の反転した性質を浮き彫りにしているものなのかもしれないけれど。
でも、だからこそ。それは私が最も受け入れられず、そして許せないものだ。
ジャバウォックが元としてるのは、きっと私が孤独だった頃の、暗の部分だ。
全てに興味がなく、自分以外に繋がるものはなく、ヒトを醜いものだと憎んでいた時の、そんなかつての私。
友との揺らぐことのない友情や他人を愛することを知らなかった、ヒトとして未熟だった、何もかもに無関心だった頃の私。
周囲を疎み、あらゆるものを遠ざけ、ヒトビトを憎んでいた。そんな私のかつての暗い一面を、きっとあの魔物は表している。
だからこそ尚のこと、私はあれを見ていられてない。それは、今の私が目を向けたくない過去だから。
しかしだからこそ、今の私の相反するものとして、そんな性質と方向性を持って生まれたんだろう。
そんなジャバウォックと唯一共通点があるとすれば、それは世界が憎らしいことくらいだ。
元々世界のことになんて関心がなかった私だけれど、こうも私を否定してくるのなら話は変わる。
私の生き方を否定し、自らの意思を突き通す為に私を排除しようとするその身勝手さ。
私を生み出したのも、この力を与えたのも、役割を設定したのも、全部世界の都合だというのに。
こんな世界、壊れてしまえと思うくらいには憎らしい。だからこそ私は、尚更愛に生きる道を選んだのだから。
しかしだからといって、この魔物に世界を台無しにされるわけにはいかない。
この世界には、私の愛する人たちが生きているのだから。
それを守る為に、私は世界に反してでもこの世界を守る。
それは矛盾しているようだけれど、しかしそうしなければ私の望みは叶わない。
だから私は、この悪しき魔物に立ち向かい、何がなんでも勝利を手にしなければならない。
ミス・フラワーが生み出した抑止なのだから、もしかしたら彼女自身が変じてしまったものなのかもしれないけれど。
いや、魔物が出現していた頃も、彼女は喋れずも自身の姿を保ってはいたから、これは彼女の力が呼び寄せたもの、ということなのだろう。
正確なところはわからないけれど、いずれにしても躊躇うことは選択肢にない。
『────────────!!!!!』
ジャバウォックが吠え、そして膨れ上がっていた力が弾けた。
その牙に埋め尽くされた口から、混沌に
黒に輝く光線のようで、しかし星の浮かばない夜空の如き、無に満ちた闇のようでもある。
その黒の奔流が、あらゆるものを飲み込み、塗りつぶさんとして空から降り注いだ。
「…………!」
渾身の力で放たれたそれは、防ぐことは難しいとひと目でわかった。
単純な魔法の防御では、混沌が極まったその攻撃で容易く崩れ去ってしまう。
混沌には真理で、この剣で対抗する他ないのだ。
私は瞬時に地を蹴って、黒い空へと飛び上がった。
体から波動のように吹き出る膨大な魔力をまとい、『真理の
そして刹那の間で私たちは直面し、私は純白の剣を、降りかかる闇に向けて思いっきり叩きつけた。
「────うぅっ…………ぁぁぁああああっ…………!」
黒と白が衝突した瞬間、意識がぐわんと揺れ、心が乱暴に振り回されたような衝撃を覚えた。
ジャバウォックの力と私の力が真正面からぶつかった結果、混沌の性質が強く私に悪影響を与えてきたようだった。
吹き付けられる黒い奔流に『真理の
黒い意識が、混沌の気配が私の心に染み込んできて、様々な意識や感情をかき回す。
私の思考や想いをはじめ、私という個人を有耶無耶に、なにもかもを黒に塗りつぶさんと浸食してくる。
ヒト単体などくだらなく、世界という全体こそが絶対であると、そんな高圧的な意志が私を嘲笑ってくる。
あらゆる積み重ねを崩し、個と個の垣根を壊し、すべて全なる世界に溶かしてしまえと。
「そんなこと……できるわけがない……!」
塗りつぶされそうになる意識の中、私は力の限り吠えた。
純白の剣を握る力を強め、殴り込んでくる黒の奔流を押し返さんと、剣を振り込む。
私の意識を、心を蝕んでくる
けれどそんなもの、認められるわけがないし、許せるわけがない。
あらゆるものが混濁した結果の果てには、絶対に何も残らず、意味すらも喪失してしまうから。
この世界は、多くのものが違った形で存在しているからこそ、それぞれに意味があり価値がある。
ヒトは一人ひとりが違い、独立しているからこそ、繋がり想い合えた時に喜びを覚えるんだ。
未だ周囲に関心の薄い私だけれど、でも大切なものを得ている今なら、それくらいのことはわかる。
全てを混沌に埋もれさせるなんてことは、絶対にできない。
例え世界が何を望んでいたとしても、その意志が何を思っていたとしても。
私はこの魔物に屈し、混沌に塗りつぶされることだけは絶対にしない。
私に反する為に生まれた抑止。それが私の力の一部、そしてしまい込んだ暗い部分の写しだとしても。
いやだかこそ、負けることは絶対に許されない。
「私の愛するものは……決して、何者にも奪わせたりなんかしない……!!!」
愛する友、ホーリーとイヴの顔を思い浮かべる。
そして最愛たるファウストの顔を思い浮かべる。
彼らを想う気持ちを思い起こせば、心に砕ける余地なんてなかった。
力が溢れる。際限のない力が、止まることなく膨れ上がる。
それが整然とした真理と混ざり合って、そして乱れた法則を切り開いた。
私から吹き出す力は、その真理の性質を持ってホワイトアウトしたかのように白み、闇のような黒を切り裂いた。
世界の真理。私にはまだ、それを理解することはできないけれど。
しかし、全てを混ぜ込もうとする、そんな大雑把で下品な方向性を否定する論理はわかる。
煩雑したもの、混濁としたもの、世界を脅かす悪辣、その全てをこの真理で下そう。
それくらいのことは、この世に生を受ける一人のヒトとして、明確な意思を持って判決できるから。
そして、剣が黒を切り裂いた。
大きく振り抜かれた『真理の
後に残ったのは、攻撃を打ち破られてガラ空きになった魔物ただ一匹。
私はそれに向かって、白をまといながら勢いよく突っ込んだ。
力はもう、自分でも認識しきれないほどに膨れ上がり、世界を飲み込まんほどに強大になっていた。
真理を手にし、そして不屈の意思を持った今、
今の私ならば、この一振りでそれこそ世界を切り裂くことだってできるだろう。
それほどまでに、私の存在は今限りなく膨れ上がり、膨大な力が暴れ回っていた。
しかし、この剣を振るうのはあの邪悪な魔物に対してのみ。
私たちの平穏を穢す、混沌の権化であるジャバウォックにだけ。
全てを薙ぎ払う力を、私はあの憎き敵のみに向ける。
「消えて、なくなりなさい!!!」
そして、私は力の限りに『真理の
躊躇うことなく全力を込めて、その醜い肉体の、奇妙に細長い首を断ち切った。
まるで霞を切ったかのようにあっさりと、しかし確実に断絶させた手応えがあって。
魔物の首は、そのチグハグとした体から、完全に切り離された。
『────────!!! ………………! ────────────!!!!!』
断末魔が、その口からというより、その肉体から響き渡った。
それだけで世界に怨嗟を撒き散らしそうな、そんな
あらゆるものを否定し、混ぜ込んで台無しにし、全てを破壊する、世界を恨む呪いのような魔物。
そんな混沌の権化であるジャバウォックは、絶叫を響かせながら、その体を闇の霞へと崩していった。
そして、グズグズと形を崩したジャバウォックは、まるで闇に溶けるようにその存在を消失させた。
跡形など全くなく、ただその悪辣とした印象だけを残して、光に浄化されるように消えてしまった。
私が振り抜いた剣撃の先には、真理の力を抱いた白い閃光が駆け抜けて。
それが黒く覆い込んでいる暗雲すらも切り裂き、まるで空が割れたかのように黒が断裂し、吹き飛んだ。
透かさず降り注いできた日差しはあまりにも眩く、まるで神々しい光が世界を飲み込もうとしているようだった。
聖なる裁きが下されるような圧倒的な清らかさを感じて、それにはある種の恐怖のような感情も芽生えさせられたけれど。
しかしそんなことよりも、今は邪悪な混沌が世界から消え去ったことへの安堵の方が圧倒的に大きかった。
強い輝きは、暖かな温もりは、爽やかな清涼感を与えてくれる。
ジャバウォックは討ち果たした。私への敵意、そして世界への脅威はなくなった。
私の大切な人たちは、もう脅かされることはない。
私は、この世界を守ったのだ。
達成感と安堵で高揚しながら、私は素早く地上へと降下した。
早くみんなの顔が見たくて。私が愛する人たちの、その存在を確かめたくて。
地に足をつけた私は、逸る気持ちでファウストたちの元に駆け戻った。
「────────」
しかし待っていたのは、恐怖に満たされた、引きつった顔たちだった。
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