20 空虚な幻想

「────アイリス!」


 唐突に声が飛んできて、私はゆっくりと持ち上げていた顔を下ろした。

 久しぶりに耳にした他人の声に、耳が少しだけキンとする。

 そういえば、あれから何日が経ったのだろう。


 町から逃げ帰ってきてから、今日までどう過ごしてきたのかは曖昧だった。

 そんな中でも、悲しく苦しい感情が渦巻いていたことだけはハッキリと覚えている。


『アイリス』。私をそう呼ぶ人はあまりにも限られている。

 何より、その名を呼んだ二人分の声は、私の耳によく馴染んでいるものだ。

 声がした方に顔を向ける前に、それが誰かなんてことは私にはわかっていた。


「…………ホーリー……イヴニング……」


 身の丈を越える草を掻き分けながら現れたのは、人間の少女が二人。

 毎日のように顔を合わせていた友人。ホーリーとイヴニングだった。

 二人は私の姿を見とめると、慌てた様子で駆け寄ってきた。


「あぁ、アイリス! ごめんなさい、わたしたち……何にも力になれなくて……」

「辛い思いをさせて本当にごめん、アイリス。守ってあげられなくて……」


 私の手をとって涙ぐみながら声を上げる二人。

 私の力によって混沌と化したこの巨大な森を越えてきた疲労の色など見せず、その瞳は私だけを向いている。

 そんな彼女たちの姿を見れば、二人が大多数のヒトビトとはやはり違うのだと、そう理解できた。


 けれど、私もまたそんな彼女たちとは違う存在。

 二人の身の回りにいる人たちとは比べものにならないほど、かけ離れた存在なんだ。

 自らを自覚した今、こうして触れ合ってみるとそれが明確に理解できてしまった。


「アイリス……みんなが酷いことを言ってごめんね。でも、気にしないで。アイリスは悪魔なんかじゃ絶対にないから」

「そうだよ、アイリス。君はわたしたちの大切な友達。君が優しい子だということは、わたしたちが一番よく知っているよ」

「…………」


 優しく温かな言葉をかけてくれる二人に、私は俯くことしかできなかった。

 彼女たちが私を思って言葉をかけてくれればくれるほど、却って苦しさが込み上げてくるからだ。


 二人は私のことを、自分たちと同じ人間だと思っている。

 その前提があるからこそ、いくら私が特殊でも、彼女たちはこうして寄り添ってくれるんだ。

 けれど違う。私は人間ではなく、そしてそれ以外の何かですらない。

 この世界で生きるいずれのヒトビトに当てはまらない存在だ。

 それを知ったら、流石の二人も反応を変えてしまうんだろう。

 それを思うと、苦しくて堪らなかった。


 だって、それが人間、それがヒトというものだ。

 理解できないものは受け入れられない。どんなにいい人でも、それは変わらない。

 自らとかけ離れたものに対しては、拒絶しなければ己を守れないから。


 二人には嫌われたくない。拒絶されたくない。

 けれど自分の異端さを知ってしまった今、それを隠すことははばかられた。

 そうやって己を偽り友人をたばかることは、理解できないものを拒絶し迫害する行為と同じくらい、下劣なものだと思ったから。


 だから私は、二人の手をそっと払って、静かに首を横に振った。


「違うの。違うのよ、ホーリー、イヴニング」


 戸惑いを浮かべてこちらを見つめる二人に、私は顔を持ち上げてゆっくりと言葉を紡いだ。


「私は、『アイリス』なんかじゃない。そんなものは、はじめから存在しなかったの」

「何、言ってるの? アイリスはアイリスだよ。あなたはわたしたちがよく知ってる、アイリスだよ!」

「いいえ。それは徒らに与えられた仮初の名前。本来の私を指し示すものではないの。そんな偽りの名前に縛られていたから、私は自分のことを人間だと思い込んでいたしまっていたのかもしれない」

「どういうこと……?」


 ホーリーはわからないと首を大きく振りながら、再び私に手を伸ばしてきた。

 けれど私が一歩下がったのを見て、ハッと息を飲んで上げかけていた手を止める。


「人間と思い込んでいたなんて、そんなこと言わないでよアイリス。君を悪魔だなんて言ったのは、大人たちの戯言たわごとだ。気にする必要なんかない」


 私のことを慎重に見つめながら、イヴニングは冷静な声を出した。

 私の様子に戸惑いながらも、けれど平静を保って丁寧に言葉を向けてくれている。

 聡明な彼女らしくとても落ち着いた言葉だけれど、しかし私の本質をわかっていないが故に的外れだ。


「いいえ、いいえ。違うのよ。彼らは正しいの。私は人間ではなんいんだから。悪魔という表現が適切かはわからないけれど、少なくとも人間ではないという点に於いては、間違っていない。私のような存在が、人間であるはずがなかったんだから」

「何を言って…………アイリスは、わたしたちと何も変わらない人間じゃないか……」


 動揺を隠さず目を見開くイヴニングに、チクリと心が痛む。

 私を人間だと思って信頼を寄せてくれる彼女たちに、私は真実を告げなければならない。

 そしてその先に待つものは、彼女たちからの拒絶なのだろう。

 でも、それでも私はこれを覆い隠すことはできない。


「私は『アイリス』ではない。人間でもない。私ははじめから、私以外の何者でもないものだったの。あなたたちが思う友人のアイリスは、初めから存在しない空虚な幻想だったのよ」


 言葉を口にする度に、暗く重いものが心にのしかかってくる。

 けれどその事実を自らの意思で示さなければ、私は決別できない。

 この残酷な世界と、そこに住う悲しきヒトビトと。


 何者でもない私が、『アイリス』という紛い物の人間の殻から抜け出るためには。

 私が真に私という存在を受け入れるためには。

 自ら、今まであったものに別れを告げなければいけない。


 だから私は、二人の顔を真っ直ぐに見て、本当の名を口にした。


「私の名前はドルミーレ。私は『アイリス』でも人間でもなくて、どうやらそれ以外の何でもないみたい」

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