4 こんにちは
今日もいつもと同じ静かな朝を迎えた。
小鳥が小屋の窓を叩き、柔らかな木漏れ日と共に朝が告げられて。
私はこれまでの日々と変わらぬ今日を過ごしていた。
森の中で一人ひっそりと、ただ緩やかな時を過ごす毎日。
心穏やかに、安らかに流れゆく時間が私には心地よかった。
そんな日々がずっと続けばいいと思っていたし、特別変革を求めたこともなかった。
私はこの世界に人間として生を受けたけれど、最初からずっとこの森で一人だったから。
これが私の人生で、日々だったから。
他の人間と群れたいと思ったことも、現状を寂しいと思ったこともない。
動物たちの
それだけで、私は満足しているから。
けれど、いつもと同じだと思っていた今日は、唐突に破られた。
昼過ぎのこと。昼食を取り終えて、私は部屋に飾る新しい花でも見繕いにいこうと小屋を出た。
戸を開けた瞬間私の目に飛び込んできたのは、自分と同じ形をした生き物の姿だった。
一瞬何がなんだか理解できなかった私は、その場で硬直してしまった。
しかしすぐにそれが、人間であることに思い当たりそっと胸を撫で下ろす。
そこにいるのは私と同種族の存在。決して臆する必要などないのだと。
しかし安堵の次に来たのは、不安だった。
私は自分以外の人間に出会ったことがなかったから。
人間としての生態、知識、言語は知り得ているけれど、実際にコミュケーションをとったことがない。
しかも相手は二人もいる。私には、どうしたらいいのか全くわからなかった。
それはどうやら相手も同じ様で、私に訝しげな眼差しを送って硬直している。
敵意はないようだけれど、身を寄せ合って固まっている二人からは大きな警戒心が感じられた。
私と年頃の近そうな、少女二人と私の視線が交わり続ける。
きっとどちらかが何らかの行動を起こさないと、この膠着状態は永遠に続いてしまう。
けれど、ならどうすることが一番なのか。人間同士というものは、少女同士というものは出会ったら何をするものなのか。
目があった僅かな時間の中で、目まぐるしく思考を働かせていた、そんな時。
「こ、こんにちは……」
相手の少女の一人、髪をポニーテールにまとめた方の人間が、そうポツリと言葉を溢した。
おっかなびっくり、恐る恐る、勇気を振り絞って。けれどその目は爛々と輝いて、真っ直ぐ私に注がれている。
その声を聞いて私はようやく、人は挨拶をするものだという知識を思い出した。
「────こんにちは」
言われた通り、そのまま挨拶を口にする。
私にとってそれは決められたルールをなぞった真似事。そうすべきだからしたことだった。
それ以外に返し方がわからなかったっとも言える。
けれど私の声を聞いた二人の少女はその瞬間に緊張を緩め、特にポニーテールの方は花のような笑みを咲かせた。
「こんにちは! あなたは誰? こんなところで何をしているの!?」
「こら、ホーリー。いきなり矢継ぎ早に質問しない」
私が返答したことがよほど嬉しかったのか、ポニーテールの方は完全に警戒心を振り解いて声を上げた。
もう一人の長髪の方が押し留めなければ、今にもこちらに駆け寄ってきそうな勢い。
その様子に私が更なる戸惑いを浮かべていると、長髪の方が一歩前に出て、私に向けて微笑んだ。
「いきなりごめんね。わたしの名前はイヴニング。それでこっちのうるさいのがホーリーだ」
「────う、うるさくないよ!」
「ちょっとこの森を冒険しに来たんだけれど、まさか人と会えるとは思わなくてね。よかったら、君の名前を教えてもらえるかな?」
イヴニングと名乗った長髪の少女は、ホーリーと呼んだポニーテールの少女をグイグイと押さえながら、やんわりと問いかけてきた。
とても不可解な少女たちだけれど、不思議と交流をすることに躊躇いを覚えなかった。
初めて出会う人間に不安や戸惑いは拭えなかったけれど。それでも私は、会話をしてみたいと思った。
人語を介する花のミス・フラワーとは言葉を交わしたことがあるけれど。
でも彼女とは会話が成立しているかといわれると怪しいし。
同じ人間、ヒト同志で会話をするというのは、私にとって初めての経験だった。
「私は────」
問いかけに答えようと口を開いて、ふと気づく。
私は今まで、自らを名乗ったことがなかった。
そもそも私には名乗る名がなかったから。
けれど、ヒトとして名前がなければコミュニケーションが取り難い。
だから私は、以前つけられた花の名を口にした。
「私は、アイリス」
「そうか。よろしく、アイリス」
初めてそう名乗った瞬間、何とも言えない不思議な感覚が胸の奥で咲いた。
何度かミス・フラワーにそう呼ばれたことがあったけれど、自分で口にしたことはなかった名前。
それを自らの意思で口にしたことで、私の心にストンと降りてきた気がした。
私の名乗りにイヴニングは安心したような笑みを浮かべ、ホーリーはまたとても嬉しそうに「よろしく」と続けた。
私は自分の胸の中で起きた不思議な感覚と、そして初めての人間との初めての挨拶に翻弄されて、頭がいっぱいになってしまった。
けれど何とか二人の真似をして「よろしく」と返してみると、少女たちは何故だかとても喜んだ。
その笑顔を見ていると、私は何も感じていないはずなのに、何故だか温かい気分になって。
ゆっくりと親しげに歩み寄ってくる二人を、拒む気にはならなかった。
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