100 迷うな

 蛸の脚の濁流に流され、私の手から氷室さんが離れてしまう。

 慌てて手を伸ばそうとしても、モゾモゾと這い回る蛸の脚に舐めまわされて全く身動きが取れなかった。


 冷たくヌルヌルとした軟体が、ブニブニと不快な弾力を持って私の体を撫で回し、押し流す。

 ぷくぷくと呼吸をするように蠢く吸盤が、私の体の至る所をんでいるのがわかって、とても気持ちが悪かった。


 力でもがいても、しなやかに蠢く蛸の脚に抵抗なんてできない。

 私は蛸の脚を掌握してなんとか振り払おうとしたけれど、心が不安定に揺らいでうまく使うことができなかった。

 心の中で膨らむ圧迫感のせいで、力に意識が向けづらい。


 もみくちゃにされている間に『真理のつるぎ』もまた手から離れてしまって、私には抵抗する手段がなかった。

 されるがままに流されているうちに、また私の体に蛸の脚が複雑に絡み付いてきた。

 体の表面を這い、その輪郭、凹凸をなぞるように締め付けてくる。


 四肢には喰らい付くように脚が絡まり、雑巾絞りのようにぎゅぎゅっと締め付けた。

 全身くまなく蛸の脚に押さえ付けられた状態で、ようやく私は激流の中から引き上げられた。

 そこで目にしたのは、同じように雁字搦めにされた氷室さんと、その正面にそびえるクロアさんの姿だった。


「氷室さ────!」


 ぐったりと項垂れるその姿を見て、思わず叫んでしまう。

 けれどすぐに蛸の脚が私の喉を押さえて、言葉は途切れた。

 呼吸が辛うじてできるかできないか。そんな圧迫に、頭がクラクラする。


「さぁ、まずはあなたからでございますよ」


 歪んだ笑みを浮かべながら、クロアさんは楽しそうにそう言った。

 氷室さんの体に蛸の脚をズルズルと這わせ、ギチギチと締め上げながら。

 それは大蛇が獲物を捕食しようとしているような、そんな猟奇的な光景だった。


 氷室さんはダラリと力なく項垂れながら、けれど静かな瞳でクロアさんを見つめていた。

 ここに来た時点で、氷室さんはかなり疲弊していた。

 その上でクロアさんと戦って、かなりダメージが蓄積しているんだ。


 されるがままに締め付けられ、身悶えすることすらも許されない。

 蛸の脚が蠢くままに体をくねらせ、その細い体は悲鳴を上げているように見えた。


「あなたが、一番の邪魔者なのです。姫様の御心に踏み入り、居座る無礼者。あなたが姫様のお側にいればいるほど、あの方は傷付く。あなたを殺め、わたくしが姫様をお救いするのです!」

「…………あなたに、彼女を救うことなんて、できない」


 ヒステリックな声を上げるクロアさんに対し、氷室さんは静かな声で淡々と返した。

 力のないその表情の中で、スカイブルーの瞳を燦然と輝かせながら。


「彼女の自由を害し、その意思を阻むあなたには……決して。あなたでは、彼女を幸せになんて、できない……」

「黙りなさい!!!」


 クロアさんが反射的に怒鳴ると、それに合わせて蛸の脚がギュッと収縮した。

 全身にかかる圧迫感が強烈に強まり、氷室さんは鈍い声を漏らす。


「わたくしには、こうすることしかできない! 姫様をお守りするには、力尽くでも引き寄せるしかないのです! そうしなければ、あの方はすぐに飛び出してしまう。友の為だと、自らを犠牲にして!」


 クロアさんは頭をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら、大きくのけ反って喚いた。

 血走った目は大きく見開かれ、蒼白な肌は蝋のように白く血の気を失っていく。


「そんなこと、わたくしは嫌、見ていられないのです! わたくしは多くを求めているわけではない。ただ、姫様と穏やかに過ごしたいだけ。ずっと、ずっといつまでも、そのお側にいたいだけ。その笑顔をずっと向けて頂きたいだけ。わたくしを、一人にしてほしくないだけなのです! しかし、それを叶える為にはもう、なりふりなど構ってはいられない!!!」


 掻き乱し、振り乱した髪をぐしゃりと垂れ下げ、その隙間から冷え切った眼差しを覗かせるクロアさん。

 その姿はさながら妖怪で、異形の姿も相まって身も凍るような不気味さを醸し出していた。


「もうこれ以上、手をこまねいてないどいられない。手段を選んでなどいられないのです! わたくしはもう一人にはなりたくない。わたくしには、姫様が必要なのです。それ邪魔するものでは、全て排除する。例え世界中の人々を殺し尽くしてでも、姫様自身をなぶる必要があったとしても、私はもう、孤独には帰りたくない!!!」


 それはあまりにも悲痛な叫びだった。

 その言動、原理はめちゃくちゃで、正当性なんて感じられない。

 ただの我が儘に過ぎなくて、まるで子供が玩具を欲しがって駄々を捏ねているよう。

 けれど、そこには切実な想いが込められているように思えた。


 ただ一つの望み。それに縋り付き、必死に生きている。

 その希望だけが彼女の全てなのならば、それを求めることは罪なのか。

 でも、でも。それでも、私は…………。


「ふざけ、ないで……」


 クロアさんの耳をつんざく奇声を前にしながら、静かな声で言葉を漏らす氷室さん。

 その声は小さく細いのに、いつになく熱のこもったものを感じた。


「あなたの話なんて、聞いてない。私はアリスちゃんの話をしているの。あなたの都合なんて関係ない。どんな理由を並べ立てられようと、私は、私のアリスちゃんを奪う人を許さない……!」


 静かに、しかし声を荒げて。

 氷室さんは吐き出すように言った。


「────! うるさい、うるさい……うるさいうるさいうるさい! あなたになど言われたくない! あなたにだけは! 死になさい! クリアランス・デフェリアァァアアアア!!!!」


 氷室さんの強い反骨の意志。

 しかしそれはクロアさんの逆上を煽るだけだった。

 獣のような咆哮を上げて、クロアさんはその巨大な蛸の脚で氷室さんを握り潰しにかかる。


 あぁ、私は何をやっているんだ。

 こんなところでへこたれて、ビクビクしてる場合じゃない。

 自分の力を恐れて、心の中の彼女を恐れて、戸惑ってる場合じゃない。


 私の為に戦って、私の為に怒って、私の為に傷付いている友達が目の前にいる。

 掛け替えの無い大切な友達が、私の為に苦しんでいる。

 それを助けられないで、何が友達だ……!


 他のことは考えるな。先の事に目を向けるな。

 私にとって一番恐ろしいことは、彼女を失うことだ。

 それ以外のことなんて、後でどうにでもなる。


 大切な友達を守る為だ。

 何一つとして迷うな、私!!!


 その決意に、柔らかな手がそっと背中を押してくれた。

 そんな気がして────


「やめてーーー!!!!」


 胸元から氷の華が勢いよく咲き乱れ、私の体を包む蛸の脚を切り裂く。

 緩んだそれらを掌握して吹き飛ばし、私は氷室さんの元に飛び込んだ。

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