99 あなたである以上
沼の水のようにどっぷりと揺らめく、黒々とした闇の
そして黒々とした無数の蛸の脚が地面を覆い尽くしていた。
見上げるような草花を押し倒し、丘のような木の根を乗り越えて、ずぷずぷヌルヌルと一帯を満たして蠢いている。
そんな闇の海から伸びた蛸の脚に絡めとられた私は、されるがままに宙で吊られるしかなかった。
さっきと寸分違わず、四肢それぞれに脚が絞り上げるように巻きついて、更に体のラインをなぞるように胴体も締め付けられる。
全身に押し寄せる圧迫感に、身体中が悲鳴を上げる。
けれどそんなのことよりも、私は氷室さんの安否が気がかりでならなかった。
氷室さんを覆い尽くしたクロアさんの足は、球状にこんもりとしていた。
中の物を押し潰そうと、ギチギチと脚が収縮し圧迫している。
それはつまり、氷室さんが抵抗をしているということだ。
「……氷室さん! 今、助けに!」
まだ無事であろうことが窺えて、気持ちが引き締まる。
私は『幻想の掌握』を持って自身に絡みつく蛸の脚、そして周囲の闇を振り払った。
軋む体に鞭を打ち、しっかりと『真理の
「氷室さんを、放して!」
闇と蛸の海の上を飛行して、クロアさんへと突撃する。
クロアさんと戦いたくないという気持ちはあるし、もちろん彼女を傷つけたくはない。
けれど氷室さんが殺されてしまいそうな今、そんなことは言ってられない。
私は剣に魔力を込め、氷室さんを覆い尽くすクロアさんの脚に斬り掛かった。
クロアさんは私の接近に障壁をいくつも張った。
しかし魔法による防御は私には無意味。『真理の
けれどその僅かな時間稼ぎの間に、クロアさんは脚の下のものを握りつぶした。
バキバキと軽い音がして、脚の隙間から氷の欠けらが飛び散った。
クロアさんに覆いかぶさられていた氷室さんが防御に使っていた物だろう。
それを打ち砕き、クロアさんの蛸の脚が更に収縮した。
このままでは氷室さんが締め殺されてしまう。
焦った私は、周囲に満ちている闇を全て掌握し、濁流の如く力任せにクロアさんへと浴びせかけた。
クロアさん自身が周囲に振りまいていた闇の
それは私の狙い通り彼女を飲み込んで、重く濃い激流でその体を押し流した。
「氷室さん! 大丈夫!?」
そうしてクロアさんがその場から離れたことで、下敷きにされていた氷室さんが解放されてた。
蹲って肩で息をするその脇に着地して背中をさすると、氷室さんは私を見上げて小さく頷いた。
「よかっ……うっ────」
氷室さんの無事にホッとした瞬間、胸の奥がグッと疼いた。
氷室さんを助ける為に問答無用で力使いすぎた。
私の心の中でドルミーレの存在感が大きくなっている。
動けないわけじゃない。戦えないわけじゃない。
けれど彼女の恐ろしい気配が大きくなるという、単純な恐怖が私を支配していく。
そのせいで、体に力が入りにくい。
結果として、私は氷室さんと寄り添うように蹲ってしまった。
「あぁ、姫様。無茶をなさってはなりません。御身に何かあったらどうするのですか」
私が先ほど押し流したクロアさんが、平然と戻ってきた。
私に心配そうな目を向けるその顔は、普段の穏やかな彼女と変わらない。
けれど全身から滲み出る愛憎は、醜く歪んでいるように感じられた。
「お力を引き出そうとすればするほど、あなた様の中の始祖様がお心を圧迫する。それは姫様自身がよくわかったおいででしょう? 無謀なことはせず、わたくしと共に参りましょう。あなた様が苦しまずに済むよう、わたしが永遠にお守りいたします」
「それでも、戦わなくちゃいけないから、踏ん張ってるんです。友達を守りたいから、頑張ってるんです。クロアさん、もうこんなことやめましょうよ……!」
「……そうやって姫様は、友のことばかり……」
頑張って顔を上げて訴えかけても、クロアさんは眉をしかめるだけだった。
忌々しいと言わんばかりに氷室さんに目を向けて、ギュッと唇を噛む。
「守るものがあるから、姫様は無茶をなさる。ならば、その守るべきものを無くしてしまえばいいだけのこと。姫様が頑張る理由、戦う理由を排除してしまえば、姫様はわたくしの側にいてくださるでしょう……」
「そ、そんなこと……そんなこと、私がさせない……!」
冷ややかな目で氷室さんを見下ろしながら、クロアさんはとても冷淡な声を出した。
あまりにも極端で、あまりにも過激な思想。それを淡々と述べるものだから、余計に背筋が凍った。
恐怖が全身を駆け巡るのと同時に、怒りに近い激情が沸き立ち、私は食らいつくように叫んだ。
『真理の
「クロアさん、こんなの間違ってます。私の為を思ってくれるのなら、尚更。私は優しくて温かいクロアさんが好きです。こんな風に他人を傷つけて、好き勝手にするあなたを見たくはありません!」
「致し方なきことにございます、姫様。あなた様をお守りするにはあまりにも弊害が多い。それを全て取り払わなければ、あなた様は救われないのですから」
「だからクロアさん、私はそんなこと望んでいないんです。私のことを想ってくれるのなら、こんなことじゃなくて、私に力を────」
「それでは駄目なのです!!!」
カンと、クロアさんが大声を上げた。
張り裂けそうなその叫びは咆哮のようで、私は圧倒されて言葉を詰まらせてしまった。
クロアさんはギリッと歯を食いしばって、私を見下ろした。
「それではいけないのです。再三申し上げているではないですか。このままではあなた様は苦しみ、そして失われてしまうかもしれないと。姫様のご意志に沿っていては、わたくしの大切な姫様をお守りできない。それでは何の意味もないのです!」
「だからってこんなことをしなくても……! 他にもっと、わかり合う方法が……」
「いいえございません。姫様が姫様である以上は」
クロアさんはそう言って、自らの肩を抱きしめた。
悲しみに震えるように、その体を弱々しく縮こませる。
「友を大切にし、他人を想い、自らの運命の責任を担う姫様。その尊ぶべきお心を持つ以上、あなた様は歩みを止めぬでしょう。ですからわたくしは、あなた様が守るべき物を壊す。そうすれば姫様には、わたくししかなくなるのだから!」
縮込めた体を一転して反り返らせ、クロアさんは大きく喚いた。
それと同時に彼女の正面に槍の形となった闇がいくつも作り出され、私たちに向けて放たれる。
私はなんとかそれを『真理の
「わたくしは姫様なしでは生きてゆけない。わたくしには姫様が必要なのです。あなた様と心安らかに過ごしたいのです。それを邪魔するものは、なんであれ
狂気に満ちた支離滅裂なその言葉は、既に理性などないように見えた。
奇声のような笑い声をあげるクロアさんは、その身から
それはあっという間に私たちを囲み込み、そして地面にも蔓延った。
私は氷室さんの腕を掴んで即座にその場から離脱しようとしたけれど。
ドルミーレの存在感に心が圧迫され、動きが鈍っている私では対処が間に合わなかった。
地面に蔓延った闇が再び蛸の脚の形を成して伸び上がり、私たちはそれに飲み込まれてしまった。
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