95 覆い尽くす闇

 クロアさんから吹き出した黒い闇は、瞬く間に周囲を埋め尽くした。

 彼女自身の黒、闇が作り出す黒、そして森の薄暗さによる黒。

 その全てが混ざり合い、あらゆる光を飲み込んで冷たい静寂が蔓延る。


 視覚を魔法で強化して闇の中に目を凝らすと、クロアさんの体が大きく立ち上がるのがわかった。

 そのスカートから吹き出す闇が形を成し、彼女の体を持ち上げている。

 闇の濁流が波打ち、やがていくつかの束を作って巨大な木々の間でうねる。


 闇の冷たさと、またそれとは別物の生理的な嫌悪感に包まれて、思わず体が震える。

 もう何度も感じたことのあるこの醜悪な気配は、転臨した力を解放したことによるもの。

 周囲を満たした闇の中で、クロアさんの下半身からは大きく黒々とした蛸の脚が広がっていた。


 ヌメヌメぬらぬらとした木の幹のように太い蛸の脚は、森の中の木々やその根っこに這いずり回っている。

 視界に映る全ての闇がその蛸の脚でできいるのかと思うほどに、それはズルズルと広がっていた。

 そしてその中心で蒼白な顔を浮かべているクロアさんが、大きく体をもたげて私を高い位置から覗き込んでいる。


「姫様……あぁ、姫様。わたくしの唯一の愛しい人。わたくしは、あなた様をお守りし、そして共に過ごす事ができるのであれば何でもいたします。そう、何でも……!」

「待ってクロアさん! 私は、私はそんなこと望んでない!」

「存じておりますとも。だからこそわたくしは、力尽くでもあなた様をその運命から連れ出して差し上げるのです。あなた様のご意志のままにしていては、姫様もわたくしも幸せになどなれない!」


 言葉は交わせても、それが会話として成立しているかは怪しかった。

 聞く耳を持たないというよりは、あまりにも考え方が異なっている。

 私のことを想ってくれすぎているクロアさんは、私の意志を通り越したものの考え方をしているから。


 クロアさんの体はズンズンと上に持ち上がり、そしてまるで天井に張り付いているかのように斜め上から、覆い被さるように逆さまに私を見下ろす。

 そしてその足元から伸びる蛸の脚が天蓋のように広がって、周囲の木々を伝って私を包み込むように張り巡らされた。


 まるで海中で蛸に捕食されそうになっているような、そんな獲物のような気分だった。


「苦しむことも悩むことも困ることも悲しむことも、何一つしなくて良いのです。あなた様はただ、わたくしの傍でその笑顔を向けてさえいてくだされば! 姫様、あなた様の幸せこそがわたくしの幸せ。あなた様との穏やかな日々こそが、わたくしが唯一求めるもの。ですからどうか、わたくしと共に!」

「私だってクロアさんと楽しく過ごせる未来は素敵だと思う。けど、目の前のことから逃げ出してそれを手に入れても、何の意味もない。そんなの幸せでも何でもない!」


 押し潰されそうな重苦しい闇の冷たさ。

 体の内側に染み込む、おぞましいこの世ならざる気配。

 そして歪み絡みつく熱烈なその想い。


 それらに飲み込まれそうになりながら、私は踏ん張って自分の意思を示した。

 前後左右、周りが暗い闇で自らの位置もあやふやだけれど。

 それでも地を自分の足で踏み締めて、『真理のつるぎ』をしっかりと握る。


「クロアさん、私は逃げない。心配してくれるその気持ちは嬉しいけど、私はそれをしたくない。だからお願い、わかって!」

「わかりません、わからない、わかりたくない! 見ていられないのです。見ていたくないのです。あなた様が傷付く様を。そして何より、わたくしにはあなた様が失われるのが恐ろしい! あなた様を失い、希望を失い、もう一人になるのは嫌なのです!!!」


 泣き叫ぶような悲鳴。張り裂けるようなその叫びは、心の内から吐き出されている声だった。


「わたくしには、そんなこと耐えられない。あなた様という温もりを知ってしまったわたくしに、もう孤独へ戻ることなどできないのです。姫様はわたくしの全て。あなた様がわたくしの手を離れてしまったら、わたくしにはもう何も残らない! ですから姫様! わたくしを、わたくしを一人にしないで────!!!!」


 森を揺らさんばかりの絶叫と共に、周囲の闇がザワザワと波打った。

 闇自体が咆哮するように騒めき、それと同時に張り巡らされた蛸の脚が一斉に動き出す。

 私に覆い被さるように広がっていた脚たちが、その先端をこちらに向けて伸びてきた。


 一本いっぽんが樹木のように太い、巨大な蛸の脚。

 それらがまるで槍の突撃のように勢いよくこちらに伸びてくる。

 即座にその場を飛び退くと、いくつもの蛸の脚が地面へと激突し、周囲の闇と共に溢れかえった。


「姫様! わたくしの姫様ぁぁああぁあああああ!!!!」


 飛び退いた私に、すぐさま迫り来るクロアさん。

 そこに理性は窺えず、ただ欲求を貪る獣のよう。

 あるいは、強い念に縋って目的を遂行しようとする亡霊か。

 いずれにしても、そこにはもう私に対する配慮はなくなっていた。


 クロアさんとは戦いたくない。

 そんな思いが、どうしても私に戦う勇気を与えてくれなかった。

 やらなければやられる。そんなことはわかっているけれど。

 飽くまで私のことを想ってくれている人と、矛を交えなければならないことが、辛くてたまらない。


 それでも、迫り来る手を振り払わなければ一瞬で飲み込まれる。

 蛸の脚をかわした私だけれど、周囲に満たされた闇が次々に濁流のように押し寄せてきて、休む暇がない。


 それらを『掌握』して押し返し、そして振り払い、森の中を低空飛行してクロアさんから距離とる。

 けれど周囲の闇と同化したかのように黒々しいクロアさんは、巨大な幹を蛸の脚でザワザワ這いながら、波のように私に迫りくる。


 私の背丈より遥かに大きな植物で覆われた森は、あまりにも視界が悪い。

 光を飲み込むクロアさんの闇も相まって、とても逃げ回るのに適してはいなかった。

 そうして移動にわずかな迷いが生まれるたびに、徐々にクロアさんが距離を詰めてくる。


「逃しなど致しませんよ。あなた様はわたくしと共に行くのです!」


 生茂る草花を掻き分けて突き進もうとしたその時、正面の暗闇から太い蛸の脚がぬるりと現れた。

 背後にいるクロアさんからは届くはずのない位置に、彼女の蛸の脚がある。

 その事態に呆気にとられ、適切な回避をする事ができなかった。


「ッ────!」


 そんな私に蛸の脚が飛びついてきて、身体にぐるりと巻きついた。

 そうして捕らえられた瞬間、辺りの闇の中から唐突にいくつもの蛸の脚飛び出してきて、私の体にさらに絡み付いてきた。


 私の胴体よりも太い蛸の脚が、四肢にそれぞれ飲み込むように巻きつく。

 そして更には胴体にまでぬるぬると這い回って、その先端が私の頰をぺちょりと撫でた。


「鬼ごっこはおしまいでございます、姫様」


 追い付いてきたクロアさんの体が、すーっと私に擦り寄る。

 その下半身から伸びる脚は足元の闇のもやに沈んでおり、その闇を伝って私を捕らえているんだとわかった。


「大丈夫、怖くも辛くもございません。あなた様はもう、苦しまなくて良いのです。わたくしがお守りするのですから。姫様はただ、何も心配することなくわたくしと共にいてくだされば、それで良いのです」


 ギリギリと私を締め上げながら、クロアさんは甘い声を出す。

 優しそうな言葉を並べながらも、私の抵抗を許さないように固く押さえつけてくる。

 右手に握る『真理のつるぎ』は、手首を強く締め付けられて振るえない。

 全身の圧迫感が強くて、魔法に意識を向けることも難しかった。


「わたくしと幸せを享受致しましょう。わたくしがあなた様を幸せに致します。ですから姫様は、ただわたくしの側に。そうすればわたくしも幸せでざいます」

「それは────できない……!」


 締め付けられていることで呼吸が辛く、声がうまく出ない。

 それでも、私を覗き込んでくるその顔に向けて、私は真っ直ぐ答えた。


「クロアさん、私はクロアさんのことが好きですよ。でも、あなたの為だけには生きられない。その為に他の全てを捨てることはできない。私には、大切な友達が沢山いるから……!」


 私を信じてくれる人がいる。私を守ってくれる人がいる。私を待ってくれている人がいる。

 その全てを裏切って、自分だけが楽な道を行くことなんてできない。

 クロアさんがどんなに私の為を思ってくれていても、それはできないんだ。


 この心に、みんなが繋がっている。

 大切な友達が、私の力になってくれているから。


「だから、クロアさん。私はあなたとは行けない。私はあなたを、受け入れられない!」

「好きに仰るがよろしい! それでもわたくしは、あなた様を決して放さない!!!」


 私の叫びは、やっぱり届かない。

 狂ったように甲高い声を上げたクロアさんは、目を血走らせた鬼のような形相を浮かべ、締め上げを強くした。


 全身に押し寄せる圧迫感に意識がクラクラする。

 抱きしめ殺すような苦痛と共に、冷たい闇が私を満たしていく。

 彼女が生み出すその闇の冷たさは、まるでその孤独を表しているかのようで。


 その寂しさ、悲しさが伝わってくる。

 身が裂けるような、耐えかねない苦痛の思いが。

 けれどこれは彼女の闇。彼女の孤独。私のものじゃない。

 痛みと冷たさに飲み込まれて、負けてしまってはいけない。


 そう強く思った時、沢山の友達の顔が駆け抜けた。

 そして今、この心に一番強く繋がっている友達の顔が……。


「助けて────氷室さん……!」


 言葉は力となり、想いは心の繋がりを伝う。

 苦痛に苛まれる中、反射的に飛び出した呼名。

 それがまるで、聞こえていたかのように────


「アリスちゃん!!!」


 暗闇に満ちた森の彼方から、聞き慣れた涼やかな声が飛んできた。

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