94 懇願

「な、何を……言ってるんですか……?」


 私を押し倒さんばかりの勢いで縋り付いてくるクロアさんに、思わず足が下がった。

 私の顔を包む冷たい両手の指が、ヒタヒタと頬を撫でる。

 真っ直ぐに向けてくるその黒い瞳は、私に絡みつくようにねっとりとしていた。


「全部投げ出して、どこか遠くにって……そんなこと、できませんよ。ワルプルギスを、ホワイトを止めなきゃいけない。魔法使いとも話さなきゃいけないことは沢山ある。それに何より私は、ドルミーレとケリをつけなきゃいけないんですから」

「存じております。だからこそ、だからこそお願いしているのです。どうかその全てをお捨てくださいと……!」


 私が首を横に振っても、クロアさんは私を放してはくれなかった。

 より切実に、泣きそうな顔になって私に目を向け続ける。

 弱々しく顔をくしゃりと歪めながら、しかしその瞳だけは強い意志が灯っていた。


「わたくしはもう、見ていられないのです。あなた様が苦しむお姿を。わたくしは、あなた様が何よりも愛おしい。我らがリーダーよりも、始祖様よりも、何よりも。わたくしが恐ろしいのは、あなた様が失われることなのです」

「そんなこと……でも……」

「姫様がお力をお使いになれば、内なる始祖様があなた様の心を圧迫する。我らがワルプルギスが始祖様の再臨を成せば、あなた様の心は押し潰されてしまうかもしれない。わたくしは、そんな姫様を見てはいられないのです……!」

「ク、クロアさん……痛い……」


 訴えと共にその指に力が入り、私の顔にギリリと食い込む。

 私は思わずクロアさんの手首を掴んで引き剥がそうとしたけれど、手はピクリとも動かない。


 私が苦痛を訴えても、クロアさんは迫りくる勢いを緩めてはくれない。

 その瞳は私の目を深く覗き込んでいるのに、私のことなど見えていないように濁っている。

 深い闇に満ちたような瞳は、底知れない不気味さを感じさせた。


「ですから、姫様! どうかわたくしめと共に、あらゆるしがらみから逃れましょう。わたくしがあなた様をずっと、ずっとずっとお守り致します。わたくしの大切な姫様。わたくしの愛しい姫様。わたくしはあなた様の為なら、全てを投げ打つ覚悟でございます……!」

「で、できません! そんなこと、私にはできない!」


 どうにもこうにも離れてくれないクロアさんに、私は仕方なく魔法を持って引き剥がした。

 できるだけ乱暴にならないようにしながらも、力強く私を抱く彼女をぐいと押し除ける。


 クロアさんはオロオロと後退りながら、信じられないものを見るような目で私を見つめた。

 引き立った顔で大きく目を見開き、普段穏やかな表情の面影はない。


「どうして……!?」


 甘く柔らかな声はどこへやら。

 ヒステリックを起こしたような、甲高い悲鳴が森に響く。

 普段の彼女からは想像できない鬼気迫る様子に、私は反射的に身を縮こませた。


「どうしてでございますか! どうして、わたくしを受け入れてくださらないのですか! わたくしはただ、あなた様を想い、お慕い申し上げているだけでございます。わたくしは、わたくしだけはあなた様の味方! わたくしはただ、姫様を愛しているだけなのです!!!」

「私のことを心配してくれるのは、嬉しいです。でも、クロアさんの提案には乗れません。無理ですよ。だって私に、逃げるなんて選択肢はないんだから……!」


 咆哮のような主張に萎縮しそうになりながら、しかし負けじと応える。

 一歩後退りながら、それでもその豹変した姿から目を離さずに。


 私の身と心を案じるクロアさんの提案は、あまりにも私の望みと真逆にいったものだ。

 逃げ出し、目を逸らし、問題を放置する。そんなこと、私にはもうできない。

 五年前に問題を先送りにした私は、今こそ全てにケリをつけないといけないんだから。


 その意志を強く示すと、クロアさんは頭をブンブンと振った。

 緩く優雅にカールした闇のような黒髪が、それによって大きく乱れる。

 しかしそんなことは厭わず、クロアさんは荒れた姿で私に顔を向ける。


「いいえ、いいえ! あなた様にとって、それは最善ではございません! 立ち向かう事が、逃げない事が良いとは限らないのです。あなた様は苦難の道を進まなくとも良いのです。わたくしと共に、昔のように穏やかで幸せな日々を過ごしましょう。それこそが、何より満ち足りた選択です!」

「………………」


 七年前、この森で私たちはとても楽しい日々を過ごした。

『まほうつかいの国』に来たばかりの、何もわかっていない私が過ごした最初の一ヶ月間。

 レイくんとクロアさんと三人で、のんびりお喋りしたりお茶をしたり、仲良く眠ったり。

 確かにあれは満ち足りた日々だった。


 あの頃に戻れたら楽かも知れない。

 何の問題もなく、何も困らず、ただ日々を楽しむだけの生活。それに憧れないといえば嘘になる。

 けれど、何もかもを投げ捨ててそこに逃げることは、やっぱりできない。


「ごめんなさい、クロアさん。苦しいとわかっていても、辛いとわかっていても、どんなに傷付くことになっても、私はやっぱり問題から目を逸らしたくないんです。これは、私だけの問題じゃないから」


 穏やかさを完全に失い恐ろしく乱れるクロアさんを、怯える気持ちを押し殺して真っ直ぐ見据える。

 私のことを想ってくれていることに変わりないクロアさんから、私が目を逸らしてはいけないと思ったから。


「私の中のドルミーレのせいで、沢山の人が苦しみ傷付いてる。私のことを求めて、沢山の人たちが争ってる。その全てを終わらせる事ができるのは、私だけだから。私は、この心に繋がる沢山の大切な友達のために、二つの世界の多くの人々の為に、運命に立ち向かいたいんです!」

「あぁ……姫様……姫様、姫様ぁ!!!」


 ガシガシと頭を掻き毟りながら、クロアさん大きくのけぞった。

 その叫びは悲鳴のようであり、しかし奇声のようでもあって、そして怒りのようでもあった。


 乱れ切った黒髪を振り回し、無造作に垂れ下がった髪の隙間から黒い瞳が私を覗く。

 限界まで見開かれたその瞳は激しく血走り、黒い瞳孔と混じって赤黒く濁った見えた。

 母親のような温かな包容力など、そこにはもうない。


「どうして、どうして……わたくしには、姫様だけだというのに。わたくしは、あなた様だけを愛しているのに。どうして、わたくしを受け入れてくださらないのです。あぁ、姫様。わたくしが、わたくしだけが真の味方なのです。わたくしだけが、あなた様をお守りできる。なのにどうして……姫様!!!」


 私のことを強く想ってくれるが故に、私の言葉も想いもクロアさんには届いていない。

 自身の感情ばかりが彼女の中で膨れ上がって、その想いに埋め尽くされている。

 どんなに私が自分の気持ちを訴えかけても、その耳には届かない。


「始祖様もリーダーもレイさんも、その他多くの者たちも、わたくしにはどうでもいい! わたくしにはあなた様だけ、あなた様のことしか考えていないのです。わたくしは何よりもあなた様の味方……そう、あなた様自身よりもあなた様の味方! 姫様は、わたくしに守られていればいいのです! ご自身の選択よりも、わたくしに守られることこそが、何よりの幸せなはずなのです!!!」


 クロアさんは喚きながら私へと手を伸ばす。

 けれど今のクロアさんの手を取ることなんて、私にはできない。

 後ずさってそれを拒んでも、クロアさんはジリジリと私に迫り続ける。


「あぁ、あぁ、あぁ……! わたくしを拒まないでくださいな。わたくしの側に、どうか! わたくしを一人にしないで。いやです、いやなのです。もう一人は、寂しいのは、いやなのです。あなた様と温かな日々を……わたくしの唯一の望みなのです……! それを受け入れて頂けないというのであれば、わたくしは……わたくしは────!」


 薄暗い森に紛れるような漆黒のドレス姿。

 振り乱した黒髪も相まって、更に出立は黒々としていて。

 そんな彼女から、更に濃い闇の気配が漂う。


「わたくしは! あなた様をねじ伏せてでも、彼方へとお連れしましょう! 姫様の安寧の為、わたくしたちの幸せの為に!!!!!」


 クロアさんのスカートのうちから勢いよく闇が吹き出し、その姿を膨れ上がらせた。

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