48 変わってしまった森

 はじめからいなかったように、ふわりと風景に溶けて消えてしまった透子ちゃん。

 その姿を見送った私は、一人森の入り口に取り残されてしまった。


 前に夢の中で会った時も、透子ちゃんはこうして去ってしまった。

 やっぱり、透子ちゃんは私の心の中にいてくれているわけじゃないのかな。

 でも、心の繋がりは確かに感じる。ただ、その繋がりの先はどこか曖昧だけれど……。


「……この先に、進んだ方がいいのかな」


 透子ちゃんのことも気がかりだけれど、今自分がどうしたらいいのか。それがわからなかった。

 今までは『お姫様』に呼ばれるがままにやってきていたけれど。

 今回、私の意識がここに降りてきた理由はなんなんだろう。


 透子ちゃんと歩いてきたお花畑の中には、別段何もなかったし。

 だからきっと、意味があるとしたらこの森の中のはずだ。

 もう何度も訪れてきたはずの、異様なまでに巨大な森。

 けれど今回は、今までには感じなかった重苦しさがあるように思えた。


『まほうつかいの国』にあった『魔女の森』をモチーフにしているであろうこの森は、いつもは朗らかで暖かな森だった。

 でも今は、薄暗くてどんよりとした怪しい雰囲気を肌に感じる。

 嫌な予感が、ヒシヒシと肌に突き刺さる。


「迷ってても仕方ない、か。よし、行ってみよう」


 ぐっと拳を握りしめて、意を決して私は森へと足を進めた。

 ここにずっといるわけにもいかなし、この先に何かありそうなのは明白だし。

 それが良いものか悪いものなのかはわからないけれど。

 進まないことには何もわからないから。


 鬱蒼としげる草花を掻き分け、私の身長ほど盛り上がる木の根を乗り越えて。

 空を埋め尽くさんばかりに広がる木の葉の隙間から、ほんの少しだけ溢れる日差しを頼りに、薄暗い森を進む。

 元々は気持ちの良い新緑の森だったのに、今はうっすらと霧が立ち込める気味の悪い森だ。

 進めば進むほど白い霧は濃さを増して、僅かな日差しはどんどん感じられなくなっていく。


 この濃い霧に、『西のお花畑』を思い出す。

 あの見渡す限りのお花畑は、濃い霧の壁に覆われていた。


 そんなことを思い返しながら、視界の悪い森を進んでいくと、ようやく開けた場所に辿り着いた。

 いつもなら、この辺りで『お姫様』が一人でお茶会をしていて、私を見つけてニコッと微笑んでくれる。

 けれど、今回私を出迎えてくれたのは、誰も席についていない無人のテーブルだった。


「………………」


 考えるまでもなく当たり前のこと。

 封印が解けて、私は力と記憶を取り戻した。

 それが切り離されたことによって形を成していた彼女は、私の心に溶けていなくなったんだ。

 だから、ここで彼女が待っているわけがない。


 それでも、ちょっと寂しいと思ってしまう自分がいた。


「……あれ?」


 けれど、誰もいないはずのテーブルの席に人影が見えた。

 霧が濃くてはっきりとはわからないけれど、ぼんやりと黒いシルエットが見てとれる。


 一瞬、まさか『お姫様』が?と思ったけれど、でもそれは違うとすぐにわかった。

 そのシルエットは明らかに大人の体格をしていたから。

 五年前の私のまま止まっていた『お姫様』は、幼い姿をしていたから絶対に違う。


 じゃあ誰なんだろう。

 それを確かめるために、テーブルに近づこうとしたその時。


『────止まって、アリスちゃん』


 目の前で青い光がパァっと輝いた。

 どこからともなく飛び込んできたその光に、私は慌てて飛び退いた。

 咄嗟のことに驚いて、そのままひっくり返ってしまいそうになる。

 けれど青い光がふんわりと広がって、バランスを崩した私を包んで支えてくれた。


「あ、あなたは……」


 足を踏ん張り直して改めて目の前を見てみると、その光が見覚えのあるものだとわかった。

 もう何度も、私を助けて導いてくれた氷の精のような『誰か』だった。

 さっきも、ドルミーレの力に押し負けそうになった時に声をかけてくれた人。

 とても近しいものを感じるのに、でも誰だかわからない人。


 それでも、いつも私を助けてくれる、青く輝く光だ。

 今はふわふわと淡く輝く光の玉となって、私の目の前に浮かんでいる。


『アリス、ちゃん────ここから先へ……進んでは、ダメ』

「どうして? この先には、何があるの? あそこにいるのは、誰?」

『深淵』


 私の質問に、青い光はポツリと答えた。

 その輝きが、まるで俯くように少し弱くなる。


『……封印が解け、あなたと彼女を隔てるものが、なくなった。だから今ここは、深淵と繋がっている。ここから先に進めば……彼女に触れて、しまう』

「彼女ってそれは……ドルミーレ?」


 青い光は頷くように瞬いた。

 ということはつまり、あそこに座っているのはドルミーレってこと?


 今まで彼女と会う時は、ここよりも更に深いところに落とされていたけれど。

 封印がなくなった今、彼女はここまで上がってこられるんだ。

 だから、『お姫様』がいた位置に彼女が座っている……。


『今、ドルミーレはようやく落ち着いたところ。だから、このままこちらから触れなければ、問題はない。ドルミーレからの影響は、『彼女』が遮っているから』

「その彼女、って……?」

『雨宮 晴香』

「────晴香!?」


 急いで辺りを見回してみても、もちろん晴香の姿は見当たらない。

 けれど言われてみれば、この一帯から晴香の心を感じる。

 さっきドルミーレに乗っ取られそうになった時、晴香の心が私を守ってくれた。

 その晴香が、今も尚ドルミーレの魔の手から私を守り続けてくれているんだ。


『…………怒りによって、意識と力があなたの元まで迫っていたけれど、その心そのものはまだ深淵で眠ったまま。だから、その感情と力をなんとか押し込めて、全てを深淵に押し戻しているところ。あなたの意識は、それに巻き込まれて、ここまで降りてきてしまった』

「そう、だったんだ。じゃあ、誰かに呼ばれたわけじゃなかったんだね」


 私とドルミーレの隔たりは無くなってしまったようだけれど、彼女が眠っていることには変わりがないみたい。

 昔も、彼女は眠っているにもかかわらず、強い感情によってその意識を外に向けてくることがあった。

 きっと本気で彼女が目覚めようとしたら、あんなものじゃ済まないんだろう。


 夜子さんが止めてくれたことによって落ち着いたドルミーレ。

 けれど彼女の強い感情と力は私に絡みついていたから、彼女が沈んでいくのに吊られて、私の意識もここへ来てしまったんだ。


 なら、私は早く現実に戻らないと。

 今の私には、考えなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことが沢山あるんだから。


『────ねぇ……アリス、ちゃん』


 そう思った時、青い光が細々とした声を出した。

 不安に満ちた、今にも折れそうな震える声。

 青い輝きは少し萎んで、私の目の前でゆらゆらと揺らめく。


『……私を、感じていて、欲しい。難しいと、思うけれど。私のことを、忘れないで、欲しい……』

「あなたは、誰なの? ごめんね。私、わからなくて……」

『……。今の、私には。けど、アリスちゃんの、せいじゃない。だからせめて……私を感じていて欲しい……』


 霧が更に濃くなり始めた。

 お茶会のテーブルの様子も定かではなくなって、その席に座るシルエットは見えなくなっていく。

 そんな中で、青い光だけが確かな標のように煌めいている。


『目に見えているものだけが、真実では、ない。大切なものは、その心が感じているはずだから。それを、見逃さないで……』

「どういうこと? ねぇ、あなたは一体……」

『夢や幻……曖昧な物の中にも心はあると、あなたならわかるはず。形あるものだけが全てでは、ないと。大切なのは心、だから……。それを知っているあなたなら、いつかきっとまた、私を見つけてくれると、信じて────』


 霧が全てを埋め尽くし、青い輝きすらも覆い隠してしまう。

 その儚い声はそれに合わせて遠くなっていく。


 その輝きに手を伸ばそうと霧を掻き分けてみて、辺りを満たした白は一向に晴れない。

 まるで私をここから遠ざけようと、押しのけているみたいだ。

 それでもがむしゃらに進んでみようと思った時、急激に意識が遠のくのを感じた。

 夢から覚める時、いつも感じるものだ。


 あの青い光は、私に一体何を伝えたいのか。

 それを確かめたいと思っても、遠のいていく意識ではもう何をすることもできなくて。

 私はただ、そのまま堕ちていくことしかできなかった。


『……ここであなたを守りながら、私はずっと待ってるから。あの、約束を────』

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