42 休戦

 三分の一ほど黒に侵食された『真理のつるぎ』を、夜子さんが握り押さえている。

 その姿は転臨の力を解放しており、黒い猫の特徴に身を変じていた。


 涼しい顔で、しかし真摯な瞳で私を見据えている夜子さん。

 場違いなほどに穏やかな表情を浮かべて、私の奥底を見つめてくる。


「夜子、さん…………」


 その姿を見とめた瞬間、私の中で蠢いていた感情がピタリと鎮まった。

 あれだけ怒り狂っていたドルミーレが、急激に停滞する。

 それに伴って、押しのけられそうになっていた私の意識も明瞭になって、冷静さを取り戻していく。


「やんちゃの時間はお終いだ。はわかるけれど、今暴れるべきじゃない。


 いつになく柔らかい言葉でそう言うと、夜子さんは私をふわりと軽く押し返した。

 ドルミーレの怒りが停止したことで、私を侵食してきた黒い力もだいぶ弱まっている。

 ホワイトに突撃をかけていた勢いは完全に失われて、私はされるがままに弾き返された。


『あなたがそう言うなら……仕方がないわね────イヴ』


 そんな呟きが頭の中で響いたかと思うと、黒い力はサッと消え去って、背中の黒剣も霧散した。

 それと同時に全身からスーッと力が抜けて、魔法で浮遊することもできなくなった。

 ドルミーレの強烈な力に振り回された反動か、それが落ち着いた勢いで全身が弛緩してしまった。


 そんな風に力なく落下する最中、夜子さんの向こう側に目が向いた。

 私に向かって襲いかかってきていたホワイトを、レイくんが止めていた。


 ホワイトは先程までの髪の勢いを収めており、元の艶やかな長いストレートの状態に戻っている。

 レイくんはそんな彼女の首を抱くように手を回し、身を寄せて顔を向き合わせていた。


 何を語っているのかは聞こえない。

 けれど、レイくんの唇がホワイトの額に触れた瞬間、彼女は毒気が抜けたようにスッと大人しくなったのが見えた。

 今のは、一体…………。


「────アリスちゃん!」


 張り詰めた叫び声に、今自分が落下しているのだと思い出した。

 ハッとして周りを見回してみると、ビルの屋上がすぐそこに迫っているのが見えた。

 まずいと思ったけれど、体に力が入らなくて身動ぐこともできない。

 魔法を使う余裕もなくて、自由落下を止めるすべがなかった。


 けれど、私が屋上に叩きつけられることはなかった。

 屋上に落下する寸前、見えない力が私を包み込んで、ふんわりと緩やかに私を着地させてくれたからだ。

 お尻からやんわりと、寝かせるように私は床に下された。


「あぁ、アリスちゃん。よかった……」


 そう言って駆け寄ってくれたのは善子さんだった。

 まだ万全とは言えなさそうだけれど、とりあえず動けるまでには回復しているみたい。

 私の名前を呼んでくれたのも、今受け止めてくれたのも善子さんだ。


「ありがとうございます、善子さん。助かりました」

「ううん。アリスちゃんばっかり戦わせちゃってごめんね」


 急いで私を抱き起こしてくれた善子さんは、泣きそうな顔で首を横に振った。


「無茶して……私がもっとしっかりしてれば……」

「善子さんがいてくれたから、私は戦えたんです。そんなこと、言わないでください」

「う、うん……」


 善子さんの表情は暗い。

 いつも笑顔が眩しい善子さんに、こんな顔はして欲しくない。

 でもその笑顔を取り戻すためには、ホワイトと決着をつけないと……。


「姫様! あぁ姫様! 大事はございませんか!?」


 善子さんに抱き起こされた私に、クロアさんが血相を変えて駆け寄ってきた。

 善子さんから私を奪い取る勢いで抱きついてくるけれど、訝しんだ善子さんは決して譲らない。

 しかしクロアさんは善子さんなど気にも止めず、ぎゅっと身を寄せて私の顔を覗き込んできた。


「わたくし、心配で気がおかしくなるかと思いました……」

「ギリッギリでしたけど、何とか飲み込まれずに済みました。約束、しましたからね」


 実際ギリギリセーフというか、ギリギリアウト気味だったけれど。

 白い顔を更に白くするクロアさんに、何とか笑顔を作って返す。

 ホッと息を吐いたその顔に、ほんの少し赤みが戻った。


「それよりも、ホワイトは……」


 レイくんに止められたホワイトは、大人しく矛を収めたのか。

 不安に駆られて上空に目を向けた時、炎が空を駆けた。


 透子ちゃんだ。

 レイくんがホワイトを止めに入ったことで自由になった透子ちゃんが、未だ衰えることのない炎を吹き出して飛んでいた。

 大回りで旋回し、勢いそのままにホワイトとレイくん目掛けて突撃を仕掛けた。しかし────


「おーっとストップ。君もここまでにしておこうよ」


 その突撃は、夜子さんによって止められた。

 炎の突進の前に躊躇いなく現れた夜子さんに、透子ちゃんは急停止した。

 人の形に保って燃え続ける体で、大人しくその場に留まって夜子さんに向かい合う。


 透子ちゃんは少しの間夜子さんを静かに見つめ、それから私の方に顔を向けてきた。

 燃える顔に表情は浮かばず、その瞳も見て取れない。

 けれど激しく心配してくれている想いだけはとても伝わってきた。


 しばらく私を見つめた透子ちゃんは、もう一度夜子さんを見た。

 そして次の瞬間、透子ちゃんの炎が急激に勢いを強め、激しく燃え上がった。

 ブワッと瞬間的に膨れ上がった炎。しかしそれはすぐに萎んで。

 その場の炎は跡形もなく消え、透子ちゃんは忽然と姿を消してしまった。

 元々そこになんていなかった、幻だったみたいに、跡形もなく。


 その様子を見送って、夜子さんはふわりとこちらに降りてきた。

 何がどうなっていて、透子ちゃんはどうしてしまったのか。

 それを尋ねようとした時、夜子さんの後に続くようにホワイトとレイくんが降下してきた。


「真奈実……」

「…………」


 私たちの傍に降り立った夜子さんとは違い、二人は私たちの少し上で停止した。

 二人とも既に転臨の力を収めており、通常の人の出立ちに戻っている。


 静かに降りてきたホワイトに、善子さんが呼びかける。

 しかし、その言葉に一切の反応を見せず、ホワイトはただ私を見つめるだけだった。


「迷惑をかけたね、アリスちゃん。僕らは一時、身を引くよ」

「身を引くって……どうする、つもり?」


 やれやれと肩を竦めるレイくん。

 私は未だ力の入りにくい体に鞭を打って、何とか立ち上がりながら問いを投げかける。


「まぁ、何とかするよ。このまま争い続けていたら、誰も望まない結末になる恐れがある。それだけは避けなければいけない」

「でも……今のこの惨劇は、何が何でも止めてもらわないと困るよ!」


 食らいついた私に、レイくんが困った顔をした。

 何て答えようか悩むように眉を寄せ、そして口を開こうとした時、ホワイトが身を乗り出した。


「お言葉ですが姫殿下。これは惨劇ではなく救済なのです。わたくしは、救うべき者を救い、夢の彼方へといざなう。これは、必要な行いなのです」


 その正義の意気を損なうことなく、ホワイトは力強く言い切った。

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