93 まほうつかいの国のアリス5
「なるほど。アリスちゃんはとってもいろんなことを考えているんだねぇ」
そんな、ちょっぴり適当そうなことを言いながら、夜子さんはよっこいしょと体を持ち上げた。
そしてわたしの目の前でベッドの上にあぐらをかいて、ひざにひじをついて前のめりになる。
「こわい、か。それはとっても当たり前の感情だ。それを感じることは弱さではないし、恥じることじゃない。生き物ならみんな抱く感情だ。生きるためにね。けれど君は、それを他人のために感じるんだね。私はそんな君に、素直に敬意を表するよ」
ニッコリと笑って、夜子さんは優しい声で言った。
その言葉はいつもよりもちょっぴり真面目な感じで、わたしは顔を持ち上げてしっかりと夜子さんの顔を見た。
夜子さんの目が、しっかりまっすぐとわたしを見ている。
「君が彼女に対して抱いている感情は、とても正当なものだよ。そして普通なら、それに押し負けてしまうものだ。その力の大きさに、その感情の重さに、その存在の次元の違いに。それでも君は友を思う心を持って彼女になんとか立ち向かおうとしている。それは、誰にだってできることじゃない。アリスちゃんの心だからこそ、できる生き方だ」
「そんな、すごいものじゃないよ、わたしは。今だって、ドルミーレに敵わなくて、負けそうで……。結局わたしは、この力がなかったらただの普通の女の子だもん」
「そんなことはないよ。確かに君は、『始まりの力』がなければお姫様にはならなかったかもしれない。けれど君の心には元来英雄の素質のようなものがあったのさ。だからきっと、君は力なんてなくたって友達のために戦う勇気を持ってたはずさ」
ニヤニヤしていない夜子さんの言葉は、いつもよりもわたしにまっすぐ届いてくるような気がした。
わたしが今までやってきたこと、今必要とされていること。ぜんぶぜんぶ『始まりの力』があるからこそって思ってたけど。
わたしは、わたしだからこそ、今こうしてここにいられるのかもしれない。
わたしだから出会えた友達。わたしだから力を貸してくれた人たち。わたしだから信じてくれたみんな。
わたしの力だけを見ている人もいるけれど、わたしそのものを見てくれてる人だっている。
わたしだから、好きだって言ってくれる人がいる。
そう思うと、ほんの少しだけ気持ちが楽になった。
わたしは、わたしだからわたしでいいんだって。
わたしの顔を見て、夜子さんはゆるく微笑む。
「私はね、ある親友のために生きている。親友の願いを叶えるため、その想いを成すために。だから私は何事においてもその想いを最優先してきた。でもね、アリスちゃん。私は存外君のことが好きなんだよ。君のことを友達と思ってる。だから、君の助けにはなれないけれど、知恵を貸すくらいはしてあげようと思う」
夜子さんはそう言うと、ひょいっとベッドから飛び降りた。
あぐらをかいた姿勢のまま後ろ向きに転がって、猫みたいに空中でひらりと身体をひねって着地する。
そして何事もないようにベッドのすぐ脇に立って、ダボダボのズボンのポケットに手を突っ込みながら、優しい目でわたしを見下ろした。
「今の君は確かに、ドルミーレに対抗するにはあまりに幼い。当たり前だ。だってアリスちゃんは、たかだか十一才の女の子なんだから。その小さい体と心に、この国の二千年の歴史と怨念を背負うのはあまりにも酷というものだ。それでも、君が運命に向かい合いたいと、その胸に抱く願いを叶えたいと思うのなら。ただがむしゃらに立ち向かうだけじゃなく、引き際も肝心だといことを理解するべきだ」
「どういう、こと……? ドルミーレから、逃げるろってこと? あの人は、わたしの中にいるのに……」
「いいや、違う。逃げるんじゃない。問題を先延ばしにするのさ」
夜子さんは眉毛をハの字にして首を横に振りながら言った。
意味がわからなかったわたしは、ただただ夜子さんの顔を見つめるしかなくて。
いつになく真剣で、でも優しげな夜子さんの顔が、ロウソクの明かりでチラチラゆれる。
「先延ばしは……言い方が悪いね。保留にする、と言った方がいいか。アリスちゃんが彼女とその力、そして自らの運命に向き合えるようになるまで、問題を保留する。相応しき心の強さと、覚悟を持てるようになるまでね。これは決して逃げではなく、賢い戦い方だ。だってこれは言わば、
「保留……問題を保留するって、そんなことできるの? ドルミーレの存在は、日に日にわたしの中で大きくなってるのに、そんなこと……」
「できるよ。簡単なことではないけれど、手段はある。ただまぁ、相応のハンデは伴うけどね」
ハンデという言葉に、なんだかとっても重たいものを感じた。
息を飲むわたしに、夜子さんは小さくうなずく。
「大切なものを守るためには、同時にその大切なものを失う覚悟も必要ということさ。デメリットもなくリスクもなく、大きなことは成せない。『始まりの魔女』を打倒したいと願うのなら、それ相応のものを対価にかけないと。ドルミーレほどの問題を押し込めるのなら、君には全てを失うくらいの覚悟が必要だ」
「っ…………」
思わず悲鳴が出そうになって、がまんして、でも小さく声が喉からこぼれちゃって。
そんなわたしを見て夜子さんは『あわれむ』ような顔をして、わたしの頭をくしゃっと雑になでた。
「ごめんね。別に君を怖がらせたいわけじゃないんだ。でも、君がお友達やこの国や、大切なものを本気で守りたと願うのなら、今のままじゃダメだよ。アリスちゃんはとっても強くて優しい女の子だけれど、君の幼い心では、まだ『始まりの魔女』の前には立てないだろうから」
そう言ってわたしの頭をなでてくれる夜子さんの手は、なんだかとってもあらくて。
雑というか、なれていないというか。確かに、夜子さんにこんなことをされるのは初めてだった。
髪がぐしゃぐしゃってなるし、頭はぐわんぐわんするけど。でも、優しさは伝わってきた。
「まぁ、強要はしない。最終的に道を決めるのは君だ。このまま頑張り続けるのだってきっと間違っていないし、それはそれで道だ。だからまぁ、無責任なお姉さんからの無責任な助言だと、余計なお世話だと聞き流してくれても構わないよ」
「う、ううん。そんなことないよ。夜子さんの言ってること、なんとなくだけど、わかる気がするから……」
今のわたしとドルミーレでは、いろんなことのスケールがちがいすぎる。
今のわたしがこのままでいても、きっとドルミーレの存在に負けてしまう気がするから。
無理をしてがんばって、それが逆に良くない結果を起こしちゃう可能性もある。
もし問題を保留にした先で、ドルミーレに向き合えるだけの力を持てるのなら。
その方がきっと安全で、確実なんだ。今の、まだまだ子供なわたしが無理をするより、きっとずっと。
ただ、そのハンデっていうのがとっても気になっちゃうけれど……。
「ありがと。ま、そういう選択肢もあるということを、頭の片隅にでも置いておいてよ」
夜子さんはそう言うと、あっさりわたしの頭から手を引っ込めた。
それからくるっと身をひるがえして、スタスタとドアの方に行ってしまう。
「私は君の肩を持つことはできない。それは不義理になってしまうだろうからね。だから私にできることは、こんなたわいもないお喋りだけさ。だから私は側から見ながら、君が君らしく、思うままの道を歩めることを、お友達として心から願っているよ」
夜子さんは最後にニコッと笑ってそう言うと、おやすみも言わずにシュルッと部屋から出て行ってしまった。
一人取り残されたわたしは、ベッドの上でポツンと座りながら夜子さんが出て行った扉を見つめた。
そして、夜子さんから聞いた話を何度も何度も頭の中でぐるぐるさせなら、わたしは布団にくるまって目を閉じた。
眠れたのは、ずっとずっと後のこと。
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