139 逃亡

「やっぱりアリスちゃんはすごいね。君の心を持ってすれば、不可能はないのかもしれない」


 私たちの光景を見て、レイくんが口を開いた。

 薄い笑みを浮かべたまま、穏やかな目で私を真っ直ぐ見つめてくる。


 そんなレイくんの言葉を受けて、私は咄嗟に千鳥ちゃんを抱き庇った。

 レイくんは、千鳥ちゃんは裏切り者だと制裁しようとしていた。

 私たちの中で問題が解決したとしても、ワルプルギスとしてはそうではない。


「待ってよアリスちゃん。僕はクイナをどうこうするつもりはないよ」

「で、でも……」


 張り詰めた私の顔を見て、レイくんは慌てて言った。


「確かにクイナは僕らを裏切った。明確にワルプルギスの意思に反った行動をとった。けれど結果としてアリスちゃんは生きている。真宵田 夜子のことも……まぁそれはそれでいいだろう。それになにより、アリスちゃんが許したクイナに手を出すなんて、僕には恐ろしくてできないよ」


 そう口にするレイくんの言葉は、確かに敵意を感じさせない。

 それはつまり、私に免じてということなのかな。

 千鳥ちゃんが脅かされないのならいいけれど、ワルプルギスとしてそれでいいんだろうか。


 訝しげな視線を向けると、レイくんは困ったように笑った。


「僕はアリスちゃんに嫌われたくないからね。今回は結果オーライということで不問にするよ。ただもちろん、君にもしものことがあったら、ただでは済まさなかったけどね」

「…………」


 レイくんは私に笑いかけてから、とても冷静な視線を千鳥ちゃんに向けた。

 それを受けた彼女は静かに息を飲んで視線を落とした。


 その様子を見たレイくんはもう追求をするつもりはないようで、緩やかな笑みを浮かべるだけだった。

 そしてその余裕に満ち溢れた笑みを浮かべたまま、後方に下がっていたロード・ケインへと視線を向けた。


「ま、そういうわけだよロード。君の目論見は潰えた。アリスちゃんを前に、その心情を乱す計画は意味をなさなかったね」


 まるで勝利を得たように、レイくんは強気な言葉を向けた。

 それを受けたロード・ケインは困ったように眉を上げて、やれやれと頭を掻いた。

 全員の視線が彼に突き刺さり、一気に場が引き締まる。


「参ったなぁ、やっぱりこうなっちゃったかぁ。流石は姫様ってことかねぇ」


 ニヘラと困り顔をするロード・ケイン。

 けれどやっぱり、それは切羽詰まったものではなかった。

 結果がどっちに転んでもよかった彼にとって、この状況もある意味想定通りなんだ。


「残念と言えば残念だよ。結構念入りにあの手この手を打っておいたからね。あくまで保険だったけれど、ちゃんと本気で取り組んだんだぜ?」


 本命のスパイを隠す為アゲハさんを焚き付け、アゲハさんをスパイだと思わせる為にカノンさんを組み込んで。

 自ら身を乗り出すことで私たちを翻弄して、最後の最後まで私たちにその真意を悟らせなかったロード・ケイン。


 保険とは言うけれど、どちらでも良いとは言うけれど。

 でも、その計画は酷く用意周到だった。

 どちらでもいいからこそ、どちらにでも転べるように最善を尽くしている。

 その彼の姿勢がやっぱり恐ろしい。


「まぁでも、失敗しちゃったんなら仕方ない。僕にできるのはここまでだ。そろそろ、大人しく失礼させてもらおうかな」

「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ!」


 あっさりと身を引こうとしたロード・ケインに、カノンさんが噛み付いた。

 木刀をぐっと握りしめ、一人前に出る。


「散々人のことをおちょくりやがって! このままおいそれと帰すか!」

「カノンちゃーん。穏便にいこうよ。結果としてみんな無事だったんだからいいじゃないか」

「よくねぇ! みんな無事なもんか! こいつの姉ちゃんが死んじまったのは、紛れもなくてめぇのせいだ!」


 口を尖らせてひらりとかわすロード・ケインに、カノンさんは声を荒げた。

 さっきまで命懸けで戦った相手の、その死を悼んでいる。

 敵だったとしても、アゲハさんは千鳥ちゃんのお姉さんだから。

 彼女は、その愛によって亡くなってしまったから。


「そう言われてもなぁ。もう君には言ったけど、彼女の行動は飽くまで独断なんだぜ? 僕は何も指示していないし、全て彼女自身の意思だ。僕に責任を問われてもなぁ」

「っ………………」


 やれやれと肩を竦めるロード・ケインに、千鳥ちゃんは息を飲んだ。

 私にしがみつきながら、悔しそうに唇を噛んで震えている。


 確かに、アゲハさんは自分の感情で自分の為、千鳥ちゃんの為に動いた。

 でもそれはロード・ケインが焚き付けたからだ。

 彼はアゲハさんの気持ちを利用して、自分の計画に組み込んだ。


 それは十分、アゲハさんを踏みにじる行為だ。


 ロード・ケインののらりくらりとした態度に私が立ち上がろうとした時、それよりも早くカノンさんが動いた。


「ふざけんな! やっぱりてめぇは、ここで叩き潰す!」


 大きく吠え、激しい脚力で飛び出した。

 たった一つの跳躍でロード・ケインとの距離を詰めたカノンさんは、突撃の勢いに合わせて木刀を振るった。


「勘弁してくれよぉ。君みたいな乱暴なタイプの相手は苦手だって言ったろう?」


 軽く溜息をついて、ロード・ケインは正面に障壁を張った。

 激突した木刀は鈍い軋んだ音を鳴らす。けれど同時に、彼が張った障壁にもヒビが入った。


「おー怖い。またボコボコにされないうちに、僕はさっさとお国に帰るよ」

「────まぁそう慌てるなよ、坊や」


 ヒビの入った障壁を見て目を見開いたロード・ケインは、そう言うが早いからそそくさと身を翻した。

 しかしそんな彼を、夜子さんが酷く落ち着いた口調で呼び止める。


 次の瞬間、暗雲に覆われた薄暗い中で、ロード・ケインの足元の薄い影から大量の黒い猫が沸き上がった。

 以前私が戦った時にも出てきた、闇をくりぬいたようなのっぺりとした黒塗りの猫だ。


「今回は結構みんながお世話になったからね。大人として、手ぶらで返すのは申し訳ない」


 足元より這い出してきた大量の黒猫は、ロード・ケインにかわす暇を与えずその身体にまとわりついた。

 すると途端に猫の姿を崩す。形ある影となって一つにまとまり、体をグルグル巻きにして動きを封じる。


「ざまあみやがれ!」


 その隙にカノンさんが障壁を叩き壊した。

 同時に砕け散った木刀を投げ捨て、その手に新しいものを握る。

 そんな彼女が迫るのを見て、流石のロード・ケインも僅かに顔を引きつらせた。


「これはまずい」

「人の痛みを、その身をもって知りやがれ!」


 ロード・ケインは咄嗟に何か魔法で対抗しようとしていたけれど、それよりもカノンさんが木刀を振り下ろす方が断然早かった。

 その場に固定されたロード・ケインの左腕に、鈍い音を立てて木刀が減り込んだ。


「っ…………!」


 木刀の一撃は、それだけで彼の骨を砕いているようだった。

 しかしそれだけでは終わらず、魔法による付加効果か、打撃点から衝撃が広がってその腕が暴れ狂った。


「これだけで済むと思うな!」

「いや、流石にこれ以上は勘弁だ」


 追撃を仕掛けようとしたカノンさんに、ロード・ケインは顔を歪めながら言った。

 すると、その周囲の空間がまるで陽炎のようにぐにゃりと歪んで見えた。


 そして、瞬きのうちに影の拘束の中からロード・ケインの姿が消えてしまった。

 目の前にいたカノンさんも、その姿を追いきれずに急いで辺りを見回している。


「いやぁホント、カノンちゃんはおっかないよね」


 そうやって私たちが辺りを見回していると、上からヘラヘラとした声が降ってきた。

 急いで空を見上げてみれば、ロード・ケインが左腕を庇いながら、少しぎこちない笑み作って空中にふわふわと浮かんでいた。


「左腕の骨、全部粉砕しちゃったよ。これは大怪我だぜ。僕も歳だからさ、怪我の治り遅いんだよねぇ」


 流石の彼も堪えたのか、その額には脂汗が滲んでいた。

 それでも笑みを浮かべているけれど、今までほどの余裕はない。


「でも本気でこれ以上は勘弁だ。オジサン死にたくないからね」

「てめぇ、逃げんのか!」

「逃げるさぁ。はじめから言ってるじゃないか。僕の今回の試みはここで終了。この先はまた、なるようになるだろうさ」


 吠えるカノンさんにロード・ケインは薄く微笑む。

 結局、こっちの感情は全く彼には届かない。

 全てはのらりくらりとかわされてしまう。


「最後にちょっぴりしてやられちゃったし、あんまり余裕をかましてちゃいけないと、この歳になっても学ばせてもらったよ。いやぁ、ホントに痛いなぁ」


 ハハハと笑っているけれど、腕の骨を尽く粉砕されて痛くないわけがない。

 大人の余裕を醸し出したいのか強がっているけれど、相当な激痛が走っているはずだ。


 ロード・ケインはカノンさんから私に視線を向けて、それでも薄く微笑んだ。


「それでは姫様、これにて失礼。また生きてお目にかかれる時を楽しみにしているよ」


 そう言ってささやかにウィンクをしてから、ロード・ケインはバサリと大仰に白いローブをはためかせた。

 そのローブが姿を覆い尽くしたかと思った次の瞬間、もう空に彼の姿はなかった。


 ロード・ケインは、私たちのことを引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、あっさりと消え去ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る