81 虫唾が走る

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「────あぁっもう! あの性悪女め……」


 加賀見市駅から伸びる線路の先に、その下をくぐる架道橋かどうきょうがある。

 薄暗いオレンジ色の明かりにぼんやりと照らされたそこは、歩道の区分けもない小ぶりなトンネルの様。

 その中腹あたりで、一人の女が座り込んでいた。


 線路をかわすためだけのその地下通路は、寒さを凌ぐことに適しているとはいえない。

 右を見ても左を見ても、夜の闇に満ちた外の色が窺える。

 しかし、夜も深まった今となっては人通りなど当然なく、最低限の人払いの術をかけておけば、一晩を過ごすには申し分なかった。


「ちょっと、キッツイなぁ……」


 アゲハは壁に背を預けながら一人呻き声をあげた。

 全身から止めどなく汗を流し、その雫と濡れた白い肌はオレンジ色の光が反射して輝いている。

 汗に濡れたプラチナブロンドの髪は、ボリュームをなくし肌に張り付いていた。


 剥き出しの白い脚を無造作に地面に投げ出して、可能な限り楽な姿勢をとる。

 クロアの拘束から辛うじて逃げ延びた彼女だが、その消耗は激しかった。

 普段は身なりに気を使い、煌びやかであることを常としている彼女も、今は些事に気を割いている余裕はないようだった。


「クロアのやつ、ホンット良い性格してる。マジで笑えないわ……」


 大汗をかき、所々土汚れなども垣間見えるアゲハだが、その肉体は綺麗に保たれている。

 タンクトップから晒される大きな蝶のタトゥーが彫られた胸の谷間や、華奢な肩に細い腕。

 ショートパンツから伸びるもっちりと肉付きのいい太腿と、それに連なるやや筋肉質でしまりのあるふくらはぎ。


 彼女のどこを見ても外傷はなく、綺麗な姿のままだ。

 しかし、それは見かけだけの話。彼女の高度な再生能力で誤魔化しているに過ぎなかった。


 クロアの蛸の足によって拘束され、絞り上げあられた彼女の中身はボロボロだった。

 圧迫や捻り込みによって骨は粉砕し、肉は断裂していた。

 辛うじて動ける程度の再生はできているが、それでも万全とは言えない。


 完全に回復させるには相当の時間を要する。

 ただでさえ消耗している中、完璧な休息もできない現状では、一晩での完治は到底望めないだろう。


「……あんまり、時間はかけてらんない。早くしないと……そうしないと、意味ないよ……」


 荒い呼吸を繰り返しながらアゲハは独り言ちる。

 一呼吸するたびに大粒の汗が額から落ちる。荒く上下する豊満な胸の間に流れ落ちて、蝶のタトゥーをなぞった。

 苦しみ喘ぎなから汗にまみれたその姿は、健康的な白い肌と相まって、オレンジ色の照明の効果でとても扇情的な絵となっていた。


「やぁやぁ。だいぶ苦戦しているようだねぇ」


 突然、誰も訪れるはずのな架道橋に、低い男の声が響いた。

 アゲハは鉛のように重い体を瞬時に動かして声がした方に顔を向ける。


 出口の先の闇夜の中でよく目立つ、白いローブを無造作に羽織った男。

 縮れた黒髪を小粋に垂らし、悪戯っぽく伸ばした無精髭が妙な色気を思わせる。

 ロード・ケインが、オレンジ色のライトに照らされながら、億劫な足取りでアゲハの元に近づいてきた。


「ア、アンタは……! 一体何しにきたのよ! 私を笑い者にでもしに来たわけ!?」

「まさか、僕がそんなひどい男に見えるかい?」

「見えるわよ。アンタ、男としても人としても最低でしょーが」

「これはこれは、嫌われちゃってるねぇ」


 座り込んだまま噛み付くアゲハに、ケインはやれやれと肩をすくめた。

 余裕に満ちた柔和な笑みを浮かべる彼は、一見すれば人畜無害な男だ。

 しかし、アゲハは一ミリたりとも心を許す気などないようで、殺気に満ち溢れた視線を突き刺している。


 しかしそんなことなどまるで気にしていないように、ケインは微笑みながらアゲハへと近づく。

 アゲハは近くに寄られることすら不快であるという風に顔を歪めたが、動くことが厳しいのか甘んじてそれを受け入れていた。


 ケインはそれをいいことに彼女の間近まで歩み寄ると、隣に立って壁に背を預けた。


「調子はどうだい? って聞いたら、流石に嫌味かな?」

「おかげさまで絶好調よ! って言えば満足? バカにしてんの!?」

「ごめんごめん。怒らないでよ。これでも一応心配してるんだぜ? だって、ほら。君と僕の仲じゃないか」

「私たちが一体どんな仲だってのよ。気持ちワルッ」

「つれないねぇ。オジサンは悲しいよ」


 トホホと眉を下げるケイン。しかしそれほど傷心しているようにも見えない。

 それはアゲハの目から見ても明らかで、彼女はあからさまな舌打ちを返した。


「そう怒らないでよ。せっかくの美人が台無しだよ?」

「私基本的に褒められるの大好きだけど、アンタに言われると虫酸が走るからやめてくんない? ってか、ホントに何の用よ。まさかただ私を笑いに来ただけじゃないでしょうね」

「いやぁ、僕も流石にそこまで暇じゃないさ」


 ヘラヘラと笑ったケインはおもむろに腰を落とし、アゲハに視線を合わせた。

 相変わらず緩やかな笑みを浮かべたまま、しかし声色を落として言葉を続けた。


「なんていうかさ。お困りのようだから、僕も少し手を貸してあげようかなぁなんて」

「はぁあ!?」


 パチリと小気味にウィンクをしたケインに、アゲハなひっくり返るような声を上げた。


「アンタそれ、本末転倒ってやつじゃないの? アンタが自分で出張れるなら、わざわざ魔女を使う必要なんてないじゃないの!」

「だって、それとこれとは別だからね。僕は別に、自分で動けないから頼んだんじゃない。それで事が済めば楽そうだから頼んだだけだよ。別に僕が出張ったって、今更問題にはならないよ」


 訝しげに声を張り上げるアゲハに、ケインはニコニコ笑いながら答えた。

 その返答にアゲハは怒りを露わにしたが、歯を食いしばって飛びかかりたい気持ちを抑え込んだ。

 ただでさえ天敵である魔法使いの、それも君主ロード。そして彼女は大きな負傷をしている。

 不利どころではない。話にならないからだ。


「僕がワルプルギスにスパイを仕込んだのは、主に情報収拾だ。その点は大いに役にたった。僕としては、ナイトウォーカーと姫君の殺害は、あくまでプラスアルファのお願いなのさ」

「でも、アンタは……」

「ニュアンスの問題だよ。もちろんそっちも大切なお願いだ。でも、それは最悪僕自身でもいいし、他の誰かでも構わなかったわけだ。それは君もわかるだろう?」

「…………」


 含みを持った言い方にアゲハは無言で返した。

 。それを彼女はよく知っているからだ。

 だとしても、自分自身が出張れるのならそうすればいい、という思いは拭えない。


「だからさ、僕としては成功してもしなくても構わないのさ。勿論成功した方がいいに決まっているんだけど。でも君の奮闘を見て、このままも可哀想だなぁって思ってさ。だから、手を貸してあげようかって言ってるんだよ」

「……手を貸したんだから約束はなしとか、そういうことは言わないでしょうね」

「もちろんさ。僕は約束をちゃんと守る男だからね。特に可愛い女の子との約束は」

「うさんくさっ……」


 ニヤリとした笑みに対して発せられたアゲハの言葉に、ケインは眉を上げた。

 しかしそれもさらっと笑みで流し、ケインは言葉を続けた。


「安心してよ。約束はちゃんと守る。だって君との約束を破るメリットが僕にはないからね────まぁデメリットもないんだけれど────とにかく、君が仕事をこなせば望むものを与えるよ」

「……わかったわよ」


 アゲハは一言、ただ頷いた。頷かざるを得なかった。

 彼女にはもう、それ以外の道は残されていないからだ。


 同胞であるワルプルギスを裏切り、天敵である魔法使いに与し、他者の命を奪ってでも、彼女には成さねばならない事がある。

 その為ならば、他の何事も彼女にとってはどうでもいいことだ。

 人も環境も世界も秩序も、何もかもどうでもいい。


 彼女にとっては、その目的が全てだ。

 その為に誰が傷つき、誰が涙を流そうと構わない。

 それが、血を分けた姉妹であったとしても。


「…………ツバサお姉ちゃん。私を、許してね。ダメな妹で、ダメな姉の私を……」


 その言葉は口の中だけで溶け、誰の耳にも届かず消えた。




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