58 弱いから

 少しの間、千鳥ちゃんは顔を伏せたままになってしまって沈黙が流れた。

 頬を伝う涙を私に気付かれまいとしているんだとわかったから、私は黙って落ち着くのを待った。


 やがて何事もないように顔を前に向けた千鳥ちゃんが、ゆっくりと口を開いた。


「私たちは仲良しだった。アゲハだってツバサお姉ちゃんが大好きだったはずなのに。それなのに、その時のアイツの目には、かけらの罪悪感もなかった。その姿があまりにも恐ろしくて、私は立ち竦むことしかできなかった」


 ゆっくり、噛み締めるように千鳥ちゃんは言う。

 震える手を握りしめることで誤魔化して。

 今すぐにでも話すのをやめたそうなのに、それでも踏ん張って語り続ける。


「私が帰ってきたことに気付いたアイツは、その狂った笑みのまま私に言ったの。『私がお姉ちゃんを殺したのは、アンタのせいだ』って」

「え? どういこと……? だって、千鳥ちゃんは何にも……」

「……えぇ。責任転嫁もいいとこよ。自分の手でツバサお姉ちゃんを殺したくせに。自分の理由で、自分の意思でやったくせにさ」


 空いた方の手をぎゅっと握り込んで、千鳥ちゃんは絞り出すように言った。

 私の肩に頭を預けたまま、そっと目を伏せる。


「意味がわかんなかった。理解できなかった。でも、アイツは言うのよ。私がツバサお姉ちゃんにべったりだから、それがいけないんだって。私だってアンタのお姉ちゃんなんだからって」

「それは、つまり…………アゲハさんは、ツバサさんに嫉妬してたってこと……? 千鳥ちゃんがツバサさんにばかり懐くから、とか……?」

「わかんない、わかんないわ。確かに私はツバサお姉ちゃんにべったりだったけど、でもあの頃はアゲハとも仲良かったもの。それにアイツはそれまで、そんなことおくびにも出さなかったから」


 その言葉には、不思議と恨みはこもっていなかった。

 ただ、目一杯の悲しみに溢れていて、とても震えている。


「ただアイツはこうも言ったわ。『アンタが弱いから、臆病だから、甘ちゃんだから、お姉ちゃんは死ななきゃいけなかった』って。私がツバサお姉ちゃんに守ってもらって、ツバサお姉ちゃんが私を守って。そうやって私が依存して、ツバサお姉ちゃんを縛っていたのが、アイツは気に食わなかったかもしれない」

「ツバサさんに対する嫉妬とは別に、ツバサさんを独占する千鳥ちゃんにも嫉妬してたって、ことなのかな」


 三姉妹の次女だったアゲハさん。

 姉と妹が二人で守り守られ、縛り縛られていることは、彼女にとって居心地が悪かったのかもしれない。

 妹に甘えて欲しくても、上の姉の方に行ってしまう。

 自分が姉に甘えたくても、妹のことばかり気にかけている。


 私の勝手な憶測だけれど。

 そうやって間に立っていたアゲハさんは、一人孤独を感じていたのかもしれない。

 その感情の向け方が正しかったとは決して思わないけれど。


「アイツがそんな殊勝な気持ちで動いてたとは、思えないけどね。だったらいっそのこと、私のことも殺してくれればよかったのよ……」

「そんなこと……」

「そりゃ私だって死にたくはないけどさ。その方がどんなに楽だったかって、思ったわよ。アイツは、私のことを散々罵ってくれたからね」


 千鳥ちゃんはゆっくりと伏せていた目を開いて、暗く遠い空に目を向けた。

 どこか達観したような、力のない瞳。

 揺れる瞳は、その時の光景を映しているかのように遥か彼方に向けられていた。


「ツバサお姉ちゃんを殺したのはアゲハ。アイツが自分の手で、自分の理由で、自分の感情で殺したの。けれどアイツは、その原因を私だって言った。私が弱いから、守られてばかりだから、自分のことしか考えてないから。臆病で弱虫で、勇気なんてかけらもないから。自分の責任を、全部他人に押し付けてきたからだってさ」


 それはとても自分勝手な言葉だと、私は思った。

 それは、決してツバサさんを殺す理由にはならない。

 ツバサさんが千鳥ちゃんに対して怒るならまだわかる。

 けれどアゲハさんがそれを原因に上げてツバサさんを殺してしまうのは、あまりにも理不尽だ。


「正直、否定はできなかった。だって事実だもの。私は弱くて臆病で、いつもお姉ちゃんの陰に隠れてた。街から逃げ出す時も、放浪の生活の中でも、私はずっとずっと、お姉ちゃんに頼りっぱなしだったから。自分から何かをしようとか、そんなこと、考えてなかったもの」

「それは……」


 なんて言葉をかけていいのかわからなかった。

 誰しもが強くあれるわけじゃない。

 自分の力で困難に打ち勝っていければ確かにそれは素晴らしいことだけれど、でもみんながみんなそうできるわけじゃない。


 弱い人だっている。助けてもらわないとどうにもならないことだってある。

 弱いことに甘んじて、努力を怠ることはよくないけれど。

 ただ弱さを罪とするのは、私は違うと思った。


「でもアイツは言うのよ。『だから、これからは私がアンタを守ってあげる。そんなアンタを守ってやれるのは私だけだから。今度は私を頼りなさい』って。散々人のこと罵っておいて。私の、ツバサお姉ちゃんを殺しておいて、さ……」

「…………」


 意味がわからない。わけがわからない。

 けれど、それはアゲハさんらしいかもしれないと、思ってしまった。

 アゲハさんは終始千鳥ちゃんに対して酷い物言いをするけれど、節々に妹を想っている言葉を挟む。


 さっきだって、アゲハさんは千鳥ちゃんのために私を殺すと言っていた。

 それがどういう意味なのかはわからないけど。

 千鳥ちゃんのことを散々罵っていたのに、アゲハさんは千鳥ちゃんのためだと、言うんだ。


「私の弱さが人を傷付けるって、私に誰かといる資格なんてないって、アイツは言うの。それなのに、私のことを守るとか、わけわかんないことを言って……。私はアイツを見てるのが怖くなって、気が付いたら逃げ出してた」


 千鳥ちゃんは重い溜息をついた。


「その時点でもう、自分の弱さを否定なんかできないんだけどね。その時の私は、ツバサお姉ちゃんが死んでしまった悲しみや、殺したアゲハへの怒りや恐怖、それに自分への自己嫌悪でいっぱいで。とてもその場になんていられなかった。私は、ツバサお姉ちゃんを殺して私を貶す奴に立ち向かうことよりも、我が身可愛さに逃げることを選んだの」


 酷く自虐的な言葉を、吐き捨てるようにこぼす千鳥ちゃん。

 何か言葉をかけた方が良い、そう思う自分がいるのに、何一つとしてかけるべき言葉が出てこなかった。


 励ましも慰めも、今の千鳥ちゃんに必要だとは思えなかった。

 だって、千鳥ちゃんはもう全部わかっているんだから。

 自分の弱さをしっかりと理解して、過ちというか、すればよかったことをわかっている。


 そんな千鳥ちゃんに、私はかける言葉を見つけられなかった。


「自分が惨めだった。どうしようもなく惨めだった。大好きなお姉ちゃんを殺されたのに、仇を討とうとか、問い詰めようとか、反論しようとか。そういう考えよりも、恐怖に押し負けて逃げ出してしまう自分が嫌だった。きっとね、それはアイツに言われたことが全部本当のことだったからなのよ。ツバサお姉ちゃんを殺したのは確かにアゲハだけれど。でも、私の弱さがそのきっかけを作ったと言われたら、何にも否定できる要素がなかった。そんな私はただ、現実から目を背けて、逃げ出すことしかできなかったのよ」


 重い溜息をつく千鳥ちゃんの言葉は、自分に言い聞かせるようなものだった。

 自分の罪を、弱さを、現実を、自分自身に刻み込むような、そんな言い方だった。

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