46 甘い囁き

「あぁ、髪が解けてしまっているね」


 握っている私の手に指を絡めながら、レイくんは頬を緩ませてサラリと言った。

 空いた方の手で、ただ下ろしているだけの髪を柔らかく撫でてくる。


「いつもの髪型も可愛くて好きだけれど、下ろしているのも可愛いね」

「…………」


 嬉しそうに微笑んで、まるで息をするように褒めてくるレイくんに、私はついムッとしてしまった。

 褒められるのは勿論嬉しいことだけれど、レイくんの発言はあまりにも自然すぎて、その軽やかさに素直になれない。


「どうせそんなこと、誰にでも言ってるんでしょ?」


 だからどうしても、つっけんどんに返してしまう。

 けれど、誰にでも言っていなかったとして、だからなんだっていうのだろう。

 自分の口から出た言葉なのに、自分でツッコミを入れてしまう。


「まぁ、うん。僕は思ったことは口にするタイプだからね。特に、女の子を褒める言葉は」

「…………」


 別に否定して欲しかったわけじゃない。

 けれどあっけらかんと答えるその姿に、少なからず苛立ちを覚えてしまった。

 別に自分だけを褒めて欲しいと思ったわけじゃない。

 でも、だけど。あれだけ私のことが一番と言っておきながら、そんなことを言うものだから多少なりとも気分は悪くなる。


 自分自身の矛盾した感情にも腹が立って、私は不機嫌さを隠すことなくレイくんを見返した。

 そんな私の顔色など気にすることなく、レイくんは軽やかに言葉を続ける。


「でも、紛れも無い僕の本心さ。今ここにいるアリスちゃんを、僕はとても可愛いと思ってる。それは純然たる事実で、それだけが重要だ。今の僕には、アリスちゃんが可愛いこと、それだけが全てだよ」


 取り繕うことのない純粋な笑みに、思わず溜息がこぼれる。

 そこに全く嘘がないように聞こえるのが、レイくんの狡いところだ。


 嘘や誤魔化し、取り繕うものを感じさせない。

 私に対して投げかけてくる甘い言葉には嘘偽りないと、そう感じてしまう。

 だからどうにも、対応に困るんだ。


「……まったく、よくもまぁ次から次へと色んな言葉が出てくるよね。そんな風に、いつも人を口説いてるの?」

「人聞きが悪いなぁ。僕が振り向いて欲しいのは、アリスちゃんだけよ」

「はいはい、そーですか」


 困ったように眉を寄せて微笑むレイくんに、私はぶっきらぼうに返した。

 出会った時からずっと、レイくんは私に対してこの調子だ。

 甘い言葉で囁いて、私の心を乱してくる。

 だからいちいちその言葉にまっすぐ耳を傾けて、間に受けていたらきりがない。


「あぁ、そういえば。クロアから聞いたよ」


 私がムッとしていても、レイくんは楽しそうにニコニコとしている。

 繋いだ手を引いて歩き出してから、レイくんは思い出したようにポツリと口を開いた。


「さっき、僕に会いに来てくれていたんだって? ごめんね、せっかく来てくれたのにいなくて」

「……うん」


 そもそも私は今日、レイくんから鍵を取り返すためにワルプルギスの住処に乗り込んだんだ。そして、レイくんと話をするために。

 色んなことがあって、すっかりその目的は霞んでしまっていたけれど。

 でも、こうしてレイくんと会えて二人きりになれたのだから、そのチャンスを逃すわけにもいかない。


 レイくんの甘言に惑わされて一喜一憂している場合じゃない。

 私が今一番しなければいけないことをしないと。


 小さく深呼吸をしてから、私は意を決してレイくんをまっすぐ見た。

 ニット帽を被っていないせいで、サラサラな黒髪が揺らめいていて、普段よりも少し色っぽく見える。

 その髪がなびく先にある瞳を、私はしっかりと見据えた。


「レイくん。私、鍵を返して欲しいの。晴香が、私の大切な親友が守っていた鍵を、返して。私、あれを持ち去ったレイくんのこと、正直怒ってるよ」

「そうだね。そのことだと思ったよ」


 強い眼差しを向けてみれば、レイくんは微笑みを少し抑えてキリッとした瞳を返してきた。

 優しさを保ちつつ、その表情は鋭さを持って私の言葉に頷いた。


「まずは謝るよ。ごめんね、アリスちゃん」


 迷うことなくペコリと頭を下げてくる。

 そう素直に謝られてしまうと、むやみやたらには怒れなくなってしまう。


「僕にも罪悪感はあったんだ。君の大切な友達が命をかけて解き放ったものを、僕は横からかっさらっていったんだからね」

「だったら────」

「うん。でも、あの場で君の封印を解かせるわけにはいかなかった。何も知らず、何の覚悟も持たず、そして何より心が乱れた状態の君が全てを取り戻せば、飲み込まれてしまっていただろうからね」


 思わず声を荒らげそうになる私だったけれど、レイくんは穏やかに言葉を続けた。

 そこには敵意も害意もなく、私を想ってのことだという気持ちが伝わってきた。


「飲み込まれるっていうのは、過去の記憶に? それとも……ドルミーレに?」

「その両方……まぁでもこの状況では前者かな」


 レイくんはニッコリと優しく微笑んで私の問いかけに答えてくれた。


「アリスちゃん。君が内に秘めている『始まりの魔女』ドルミーレの力は、知っての通り強大だ。そして、今よりも遥かにその力に触れ、そして運命に向き合っていた過去の記憶は、今の君を揺るがすほどの影響力を持っている。半端な気持ちでそれを解放すれば、きっと……」


 その先の言葉を聞かなくても、意味するところはわかった。

 それは、私自身が恐れていることだから。

 過去の大切な記憶を思い出した時、今の私の気持ちが塗り潰されて、今の私ではなくなってしまうかもしれない。

 レイくんは、それを恐れているんだ。


 きっと万全な状態でもその不安は付いて回る。

 自分のことも、ドルミーレのことも、何も知らず不用心にその封印を解けば、飲み込まれてしまうかもしれなかった。

 それがクロアさんの言っていた準備や心積り。

 そして、私自身の覚悟だ。


「でも、今はもう大丈夫だよ。前よりも私は色んなことを知ることができたし、覚悟も決めてきた。どんなに大切な過去を思い出しても、大きな力が押し寄せてきても。今の私を信じて必要としてくれる心の繋がりを頼りに、私は今を見失ったりなんかしないよ」


 レオやアリアとぶつかり、向かい合ったことで私は自分の本質の一端を知った。

 私を取り巻く事情も、少しずつわかってきた。

 今を共に歩む友達が私のことを必要だと言ってくれる。

 封印を解いた先にある当時の私の重みも、きっとわかっているはずだから。


 私が言うと、レイくんは静かに頷いた。


「確かに、アリスちゃんはほんの数日で大きく成長した。それは君の目を見ればわかるよ。アリスちゃんは、うんと魅力的な女の子になった」

「そういうの、今はいらないから」

「ごめんごめん」


 さらりと余計な言葉を挟むレイくんをジト目で睨むと、ニヤリとした笑みで返された。

 けれどすぐに真面目な顔に戻って、その澄んだ瞳を向けてくる。


「────まぁだから、今のアリスちゃんならもう封印を解放してもいいとは思うんだ」

「じゃあ……」

「けどね、僕にはまだ不安なことがあるのさ」


 私の手をぎゅっと握ってそう続けるレイくん。

 強く握っているのに、その手はどこか弱々しく感じた。

 普段自信たっぷりに凛としているレイくんにしては珍しいと思った。


「今のアリスちゃんなら、過去を受け入れることができると思う。飲み込まれることなく、今ここにいる君を保つことができるともね。ただ僕が気がかりなのは、アリスちゃんに取捨選択ができるかどうかなんだ」

「どういうこと……?」


 受け入れることができて、飲み込まれることがない。

 それならば何の問題もないはずなのに。

 その憂いがいまいちわからず首を傾げると、レイくんは困った顔をした。


 優しく薄い笑みを浮かべつつ、八の字に眉を寄せる。

 何かを言いあぐねるように迷いを見せて、瞳を僅かに泳がせる。

 それからゆっくりと私の目に視線を戻して、レイくんは噛み締めるように言った。


「過去に感じた君の気持ち。今感じている君の気持ち。それを全て一つの心に収めて、君は運命に向き合わなければいけない。自身の宿命と、その内に秘める力が行くべき道を、君は選ばないといけない。アリスちゃんには、それができるかな?」

「えっと、それはどういう……」


 戸惑う私の頰に、レイくんは優しく触れた。

 慈しむように、労わるように。

 まるで壊れ物を扱うように丁寧に。


「僕が思うにね、アリスちゃん。君には、大切なものが多過ぎる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る