21 蠢く闇

「姫様……! あぁ、そんな……!」


 一歩二歩と距離を取る私に、クロアさんはヒステリックな悲鳴を上げて手を伸ばす。

 私は身を引いてそれをかわし、クロアさんの手はくうを掻いた。

 クロアさんの表情が見る見るうちに絶望に染まり、ただでさえ白い顔は血の気を失って蝋のようになった。


「そんな、姫様……わたくしは……」

「ごめんなさい、クロアさん。でも私は今、あなたが……こわい」

「────────!!!」


 心に湧き上がる恐怖を素直に口にした。

 想ってくれることは、大切にしてくれることはありがたいことだ。

 けれど、その重すぎる愛は私には受け止めきれない。


 クロアさんは声にならない悲鳴を上げてその場にへたり込んでしまった。

 ドレスのスカートが乱れるのも構わず、地面にしゃがみ込む。

 悲哀に満ちた姿だったけれど、クロアさんから何かどす黒いものが滲み出ているのを感じた。

 重く冷たい、どろっとした暗い気配が。


「あぁ……わたくしは間違っているのでしょうか。こんなにお慕いしても、この想いは届かぬのでしょうか。あぁ……あぁ……! わたくしのこの身を焦がすような想いは、どうすればその御心に届くのでしょう……!」


 どばっと、クロアさんの体から黒い何かが噴き出した。

 闇としか形容しようのない、黒いもやのようなものが溢れ出す。

 まるでクロアさんの感情と連動しているかのように、悲痛な叫びに応えて勢いよく膨れ上がった。


「姫様……姫様、姫様ッ…………! わたくしの、姫様ァ!」


 クロアさんから噴き出した闇のもやは、触手のように唸りを上げて舞い上がる。

 うねうねと宙を這うように巻き上がったもやは、重なり合わさってまるで津波のように私に覆いかぶさってきた。


 咄嗟のことに、私はただ身を縮こませることしかできなかった。


「はーいストップストップ! そーこーまーで!」


 けれど、闇のもやが私を飲み込まんとした時、私たちの間にアゲハさんが割って入った。

 するとアゲハさんの目の前で一陣の風が吹き荒れ、迫る闇のもやを防ぎ搔き消してしまった。


「ちょっとちょっと。アリスに手出すとか何考えてんの? アンタ、アリスのこと大好きなんでしょ? 愛情の示し方、間違ってんじゃないのー?」

「姫様は、わたくしが……!」

「だからそーゆーとこがダメなんだってば。ま、ちょっと頭冷やしなよ。アリスのことは私に任せてさ」


 クロアさんは俯いたまま苦しげな声を上げた。

 未だ体の周りにうようよと闇を這わせたまま、ぐったりと項垂れて。

 その言葉には私に向けられた切実な想いが込められていて。

 でもそれは同時に、どうしようもない執念のようなものを感じた。


 アゲハさんはそんな様子にも構わず、陽気な声色で語りかけた。

 そして気遣う素振りを見せず、背を向けて私の手を取った。


「ほらアリス、行こっ。このままここいたらクロアに何されるかわかんないしねっ」

「で、でも……」


 これから遊びに行こうとでも言うような気軽さで、アゲハさんはにっこりと笑う。

 私はぐいぐいと手を引かれながら、項垂れるクロアさんに目を向けてしまった。


 クロアさんから感じたあまりにも重すぎる愛情。

 深く重く底の見えない、それこそ彼女がまとう闇のような愛。

 悲壮に染まったその姿は哀れに見えるけれど、彼女から滲み出す黒々とした怨念のような愛は、到底手を伸ばせるようなものではなかった。


 優しくて温かくて落ち着いているクロアさんの良い部分も知っているから、完全に気持ちを遮断することはできないけれど。

 でも彼女の深い愛が私に対してどう牙を剥くのかも、またわかってしまっているから。


 だからやっぱり、これ以上クロアさんとはいられないと思った。

 大事にされた結果、私が望まない結末にいざなわれたらたまらない。

 愛されるあまり籠の中に閉じ込められるようなことになってはたまらない。


 打ち拉がれるその姿に、罪悪感を覚えないと言ったら嘘になってしまう。

 私に嫌われたくないと流した涙は、確かに本物の気持ちだった。

 けれど、今クロアさんから吹き出した闇こそが、彼女のひたむきすぎる感情の濁りに思えた。

 それこそがクロアさんの本質なんだと。そう思うと、彼女の気持ちが怖くなってしまったんだ。


「ごめんなさい、クロアさん……」


 謝る義理なんて、ないのかもしれない。

 そもそもワルプルギスは今の私にとって、良い組織とはとても言えないんだから。

 でも、私を想ってくれる気持ちに応えられない以上、謝らずにはいられなかった。


「姫様……あなた様はやはり、私の手の中にはいてくださらないのですね……」


 弱々しく頭をもたげ、そっと手を伸ばしてくるクロアさん。

 それは縋り付くように、這い寄るように。それは何があっても私を求めるという執着だった。


 しかしその手は、アゲハさんによってパチンと振り払われた。


「そんじゃ、そういうことだからっ!」


 アゲハさんは軽快に言い放つと、私の手を取ったままパッと駆け出した。

 私はただ引かれるままその後についていくしかなかった。

 絶望に暮れているであろうクロアさんの方は、振り返らずに。

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