70 抱きしめて
「────アリスちゃん!」
意識が戻って真っ先に認識したのは、氷室さんのつんざくような叫びだった。
私を後ろから力の限りに抱きしめている氷室さんは、私が意識を取り戻したのを感じたのか、魂が抜けそうな勢いで安堵の息を吐いた。
腰砕けになってしまいそうに力が緩んだ体を、へなへなと私にもたれかけてきた。
「……氷室さん、ありがとう。氷室さんが呼んでくれたら私、ちゃんと戻ってこられたよ」
「…………えぇ」
私を締め付ける腕に手を添えて、私は背後の氷室さんに感謝の言葉をかけた。
氷室さんは私の肩に
大分心配を、怖い思いをさせてしまったみたいだった。
私が深い闇に落ちている間ドルミーレが何をしていたのかはわからないけれど、側から見て決して穏やかではなかっただろうということは確かだ。
「あれ、アリア……?」
包まれる温もりに安心と感謝を抱きながら、それでも今に目を向けようと前を見た。
そこにはさっきまでいなかったアリアの姿があって、私は思わずきょとんとしてしまった。
どうしてと尋ねそうになって、でもその肩に担がれているボロボロになったレオに目がいって、私は一瞬で血の気が引いた。
「────レオ! その傷っ……!」
氷室さんの腕を優しく解く余裕もなく飛び出して、『真理の
目の前の光景に頭が真っ白になりかけながら、私は血に塗れたレオに駆け寄った。
アリアに肩を借りながらも、膝をついて背中を丸めているレオ。
黒いコートは至る所が破けていて、刀傷がいくつも刻まれていた。
左腕は炎に飲まれたように爛れていて、右脚はこれでもかと真っ赤に染まっている。
見ているこちらがひっくり返ってしまいそうな惨状でも、レオは意識を保っていた。
「アリス……やっと、正気に戻りやがったか……」
「ごめんなさいレオ! こ、これ、私がやったんだよね!? ごめん……ごめんレオ!」
パニックになりそうな自分を必死で押さえつけて、私はレオの身体に手を当てて回復の魔法をかけた。
白く淡い光がレオの身体を包んで、みるみるうちに傷が塞がっていく。
「おいアリス……! お前何やったんだ。俺はお前の敵だぞ……!」
「敵じゃないよ────いや敵だけど、でも、私はレオを傷つけたいわけじゃないから……!」
「…………何を、甘っちょろいことを……」
レオは怒って声を張り上げるも、私の言葉に口をもごもごとさせた。
私の魔法をかわそうにも、身体に力が入らないみたいで抵抗はしなかった。
けれどぐんぐんと治っていくお陰で、アリアの肩を借りる必要はなくなって、一人で座り込んだ。
「よかった、アリス。ちゃんと戻ってこられて……」
レオを放したアリアが私の横にしゃがみ込んで、泣きそうな弱った声で言った。
私の腕をぎゅっと握るその手は、震えていた。
「アリアが彼女からレオを守ってくれたの?」
「……何もできなかったけどね。ほんの少し時間を遅らせることしかできなかったし、あのままだったら二人まとめて死んでたよ」
「それでもその少しの時間があったから、取り返しがつかなくなる前に戻ってこれたんだよ。ありがとうアリア」
私の身体を使ってレオを一方的に痛めつけたであろうドルミーレ。
私では歯が立たなかったレオだけれど、ドルミーレが手ずから力を振るえばひとたまりもなかっただろう。
あと少し遅ければ、私は私の手で親友を殺してしまっていたかもしれない。
そんなこと、今の私もそうだけど『お姫様』はもっと耐えられない。
お礼を言うと、けれどアリアは首を横に振った。
「ううん。私は何もできなかったよ、結局ね。頑張ったのは彼女だよ」
アリアはそう言って氷室さんの方に目を向けた。
私が二人といるのを複雑そうに見ながらも、やっぱりいつもの冷静なポーカーフェイスで控えていた。
「私もレオも、ドルミーレに押しのけられたあなたに声を届かせることはできなかった。けれど危険を顧みず飛び込んだ彼女の声は、ちゃんとあなたに届いた。だからこうして、戻ってこられたんだよ」
「アリア……」
ゆったりと笑みを浮かべてそう語るアリアの声は、どこか寂しそうだった。
自分たちでは声が届かなかった。そう認めた彼女は、私が今何を大切に想っているのかを悟ったような目をしていた。
「……アリス、もういい。治った」
レオがポツリと言ってガバッと立ち上がった。
確かに粗方の傷は塞がっているように見えるけれど、まだ少し顔色は悪いし完治したとは言い難かった。
けれど立ち上がったレオはしゃんと背筋を伸ばして、芯の通った目を向けてきた。
落ち着いた瞳の中に、重く深い意思がこもっていた。
まるで柱のようにそびえ立つ長身。そこから向けられる視線を受けて、私は気を引き締めた。
同じく立ち上がってまっすぐ視線を返すと、レオは溜息をついてから眉をぐっと寄せた。
「……アリス。わざわざ俺の傷を治して、その後どうなるかわかってんだろうな」
「……うん。完全にフェアにはならないだろうけど……ケリをつけないとね」
「ケリか。一丁前な口聞きやがって……」
こうなることはわかっていたし、それは私も望むところだから。
気持ち決めて頷くと、レオは呆れたように笑みを浮かべた。
私たち二人の戦いは全く終わっていない。
私たちはお互いの想いをぶつけ合うために、もう一度戦わないといけないんだ。
「ちょっと待ってよ! まだ戦う気!? 一旦落ち着いて、話し合おうよ……!」
「話し合うもクソもあるかよ。俺はアリスを殺す。アリスはそれに抗う。これはそれだけのことだ」
「大丈夫だよアリア。私絶対、負けたりなんてしないから」
アリアは納得できないというように首を振った。
それはただをこねる子供のようで。けれどそれは私たちのことを想ってのことだとわかる。
「アリスとレオが戦うなんて、私嫌だよ。アリスが死んでしまうのも、嫌。ねぇレオ。どうしてこうなっちゃったの……? 私たちはずっとアリスを……」
「どうしようもねぇっつったろ。俺にとって、大切なものはアリスだけじゃねぇんだよ……」
縋るような目を向けるアリアに、レオは視線を合わせようとはしなかった。
けれど浮かべた表情は苦しげで、それが容易ではない決断によるもだと伺えた。
レオはさっき、私のこともアリアのことも救うと言っていた。
そこには、どんな意味があるんだろう。
「アリア。レオはちょっとやそっとじゃ口を割らないよ。だから後はぶつかるしかないの。大丈夫だよ。どっちかが死ぬようなことには、絶対しないから」
「でも、アリス……」
「随分と余裕じゃねぇか。さっきは俺にやられてたくせによ」
アリアに笑いかける私に、レオが探るように言ってきた。
闘志を内側からフツフツと湧き上がらせているレオに、私はゆっくりと頷いた。
「うん、でももう負けないよ。私思い出したんだ────ううん、気がついた、かな。あの頃の私の気持ちを。私にできること、私だからできることを。だからきっと、さっきの私とは違うよ」
「……そうか。おもしれぇじゃねぇかよ」
戦う決意を向ける私に、レオは静かに応えた。
アリアは未だ納得していなさそうに私たちを交互に見ていた。
けれどもう口を出してもどうにもならないと思ったのか、震える手を強く握りしめて堪えていた。
「ねぇレオ。ちょっとだけ待ってくれる?」
後ろで静かに控えている氷室さんの方を伺いながら尋ねると、レオは難しい顔のまま顎をクイッと振った。
それを了承と受けた私は小走りで氷室さんに駆け寄った。
「ごめんね氷室さん。私もう一回、一人でレオと戦う」
「……花園、さん……」
手を取ってまっすぐ目を見て言うと、氷室さんは僅かに心配そうに瞳を揺らした。
けれど多くは口にせずに、私の言葉に耳を傾けてくれている。
「普通ダメって言うよね。私が氷室さんだったら、きっと死ぬ気で止める。でもね、お願い。やらせて欲しいの。勝手なこと言って、ごめんなさい」
「…………」
これは避けてはいけない戦いだ。
そして避けられない戦いでもある。
何が何でも私を殺したいレオから、いつまでも逃げることなんてできはしない。
今ここでレオと正面からぶつかり合ったからって、それで私たちのわだかまりが全て解消されるわけじゃないと思う。
過去のことを全く覚えていなくて、今の日々を大切にしている私。
かつての日々を大切に想って、昔の私を取り戻したい二人。
私たちの気持ちは、簡単に一致するものじゃないから。
でもレオが、そしてアリアも、私のことを想ってくれていることは確かで。
そして私の中にいる『お姫様』もまた、二人のことを大切に想っている。
だから必ず、わかり合える道を見つけることはできるはずなんだ。
そしてそのためには、今この戦いに向き合わないといけない。
レオが何を抱え、何のために私に刃を向けるのか。
その意味と想いを受け止めないと、きっと私たちは先に進めないから。
「絶対に死なない。自分を見失ったりしない。必ず生きて氷室さんの所に戻るって、約束するから……!」
ぎゅっと華奢な身体を強く抱きしめる。
私の腕の中に収まった体は、不安からか少し震えていた。
けれど氷室さんは私を跳ね除けることなく、気持ちを汲んでくれるかのように身を委ねてくれた。
「…………約束を破ったら……私は、あなたを許さない」
「……うん」
「必ず、私の所に…………また、こうやって、抱き、しめて…………」
「約束するよ。絶対」
控えめに恥ずかしそうに。けれど明確な意思を持った言葉は、弱々しさの中に力強さを感じた。
身体の震えを必死で堪えている氷室さんを一度ぎゅっと抱きしめてから、私はそっと腕を放した。
いつも通りのポーカーフェイス。けれど俯いて長めの前髪で隠す目元は、泣き出しそうに潤んでいるように思えた。
「じゃあ、行ってくるね」
「っ…………」
安心させようとニコッと笑顔を向けて手を振ると、氷室さんは名残惜しそうに手を伸ばした。
その手に触れたい気持ちをぐっと抑えて、私は歩みを進めた。
氷室さんに背を向けて、大きく息を吸いながらレオの元に戻る。
「お待たせ。ちゃんと待っててくれてありがと」
「俺も鬼じゃねぇ。最期の別れの挨拶くらいさせてやるさ。ちゃんとしてきたか?」
「まかさ。私がしてきたのは、ちゃんと戻るよっていう約束だよ」
皮肉たっぷりに言葉を放つレオに、私は笑顔に覚悟を織り交ぜて答える。
それにレオは少しだけ眉を寄せて、それから困ったように口元を緩めた。
そして小さく溜息をついてから、新しい煙草を取り出して火をつける。
ゆっくりと、たっぷりとそれを吸い込んで、ゆったりと白い煙を吐く。
そして煙草を唇の端に引っ掛けると、静かな目を私に向けてきた。
その視線を受けて、私は深呼吸をして心を落ち着けた。
「それじゃあもう一度しようか、レオ。私たちの喧嘩を」
私の決意の言葉に呼応するように、手の中に純白の『真理の
そこには、レオのことを想う『お姫様』の気持ちがこもっているように感じた。
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