45 影の猫

 夜子さんは自由人で自分勝手でのらりくらりとしていて、でもなんだかんだと色々なことを教えてくれたり、手を貸してくれたり助けてくれたり。

 柔らかな口調で厳しいことを言ったり、当たり前のように意地悪を言ったり。

 でも話す言葉に嘘はなくて、遠回しだったりわかりにくいことだってあるけれど、知るべきことはちゃんと教えてくれる。


 癖が強くてとっつきにくくて何を考えてるかなんてさっぱりわからないけれど、でも私にとって夜子さんは頼れるお姉さんだった。

 信頼できる大人かと言われるとちょっと困るけれど、それでも夜子さんは先を行く者として私たちに助言をしてくれる人ではあった。


 そんな夜子さんが、今私たちに立ちはだかっている。

 人間を辞めた姿。魔女としての次のステージ、転臨の力を解放して。

 ふわりと、でも乱雑とした茶髪は艶やかな重い黒に染まって、そのてっぺんには本物の猫の耳が生えている。

 同じく黒毛の猫の尻尾はにょろりと二本伸びていて、やはりその姿は人間からかけ離れている。


 沈みかけの赤い夕日に照らされて、その姿はどこか邪悪にすら感じた。

 妖しく照らされ揺らめく様は、どこか化け物じみたものを思わせる。


 呑気に微笑むその緩やかな表情はいつも通りだけれど、夜子さんから感じるこの禍々しい気配は、やっぱり人間のものとは思えない。

 どこか神々しく、美しくも感じられるその優美な姿は、それでもやはり気持ち悪さが先行する。

 これはきっと、人間が理解できる範疇を逸脱した概念の感覚なんだ。


 でも、私がそう感じてしまうだけで夜子さんが何か変わったわけじゃない。

 転臨の力を表に出すことでその姿を少し変えただけで、夜子さんはずっと夜子さんで私が知る人と何にも変わりはしない。

 こうして向かい合っていたとしても、私たちは憎み合っているわけでも嫌い合っているわけでもない。

 姿形が違っても、立場が違って衝突しても、だからといってその人が変わってしまったわけじゃない。


 今私たちは戦わざるを得ない。

 正しさが違って考え方が違う私たちは、もう戦って解決するしかない。

 けれどきっと、だからって私たちが敵同士になるわけじゃないんだ。私たちの関係性が変わるわけじゃない。

 けれど、どうしようもなく避けられないぶつかり合いであることは確かだ。


「先に宣言しておくよ。私はアリスちゃんと善子ちゃんを殺すつもりはない。私は大人だからね、若気のいたりでやんちゃをしてる子供を躾けるような気分なのさ。だから必要以上の乱暴はしない。だから君たちは安心してぶつかっておいで。お姉さんが優しく受け止めてあげよう」


 夜子さんは呑気にそう言った。

 ナメられている、と一瞬思ったけれど、でも実力差が天と地の差ほどもあるのはきっと事実だ。

 実際のところはわからないけれど、魔女としての長年の経験と、転臨に至るほどまでの適正の高さを考えれば、相当の実力者であることは想像に難くない。

 そしてこうして目の前に立てば嫌でもわかる重圧。ナメられて当然だ。


「アリスちゃん……晴香ちゃんのことは頼んだよ」

「善子さん、でも一人じゃ……」

「相手があれじゃ、晴香ちゃんを一人にしてた方が危ないよ。アリスちゃんは晴香ちゃんを守ってあげて」


 きっと怖いはずなのに、善子さんはそんな感情はおくびにも出さずにニカッと笑った。

 確かに晴香を一人にして裏をかかれたらそれでおしまいだ。

 夜子さんの目的はあくまで晴香を殺すことなんだから。

 圧倒的な実力差があれば、私たちのことなんて無視して晴香を殺すことだってできる。

 だったら今は、役割分担をするしかないのかもしれない。


 私が頷くと、善子さんは満足そうな顔をして夜子さんに向き直った。

 夜子さんは余裕な面持ちで私たちを呑気に眺めている。


「さあ、どこからでもかかっておいで」

「じゃあ遠慮なく!」


 震える脚は踏みしめることで誤魔化して、善子さんは夜子さんの言葉に合わせて地面を踏み抜いた。

 光をまとって、まるでレーザーのように光速で突撃する。

 その手には既に光を束ねた剣が握られていた。


「おー元気いいね。元気良すぎて眩しいや」


 夜子さんは目の前に手をかざして呑気に言った。

 しかしそんなことを言っている間に、既に善子さんは眼前に迫って光の剣を振り抜いていた。

 気付いているのかいないのか。夜子さんはそれに対して全く反応しない。

 光速に対応できなかったなんてことは、夜子さんに限ってはないだろう。


「若さの輝きが眩しすぎて、お姉さんに影が差しちゃったじゃないか。善子ちゃんは悪い子だなぁ」


 夜子さんの影がとても大きく伸びていた。

 それは夕日に照らされてできたものではなくて、善子さんから発せられる強い光によるものだった。

 長く長く、身長の倍ほどに伸びた影。シルエットだけ見れば猫耳と長い尻尾で猫のように見えた。

 そんなことを思っていた瞬間、その間延びした影が突如地面から剥がれた。


 紙から切り取ったような平面の黒い影が地面から剥がれ、夜子さんの足元を離れて独立した。

 そしてそれはライオンほどの大きさの巨大な猫の形になると、今まさに斬りかかろうとしていた善子さんに飛びついた。


 善子さんは咄嗟に剣を消して、代わりに手から光線を放った。

 しかしその光線は、闇を切り取ったように黒々としたその影の猫に飲み込まれただけだった。


「なんだこれ!」


 光線が通用しなかったとわかるや否や、魔法で強引に体を引いて距離を取る善子さん。

 善子さんが離れると、その影の猫は大人しく夜子さんの元に戻って、ライオン大だったその大きさは普通の猫と変わらないサイズに縮んだ。

 しかしその印象は変わらない。闇からくり抜いてきたように底の見えない平面な闇。

 猫の形を象っているだけの影。


 あれには見覚えがあった。

 私が『まほうつかいの国』に連れ去られて氷室さんが迎えにきてくれた時、帰り道として探していたのがあの黒い猫だ。

 あれが私たちを飲み込んで、気がついたらこっちの世界に戻ってきていたんだ。

 あの時と同じような黒い猫が、夜子さんの足元で静かに佇んでいた。


「びっくりしたかい? ごめんごめん。これが私の魔法だよ。アリスちゃんは一度見たことあるだろう? ちなみに、もっといっぱい出せるよ」


 楽しそうに微笑んで、相変わらずの緩い口調でそう言う夜子さん。

 気が付けば、夜子さんの脚からは普通の影が何の変哲もなく伸びていた。

 しかしその影がまるで水面の様に波打って、そこから同じような平面の影の猫が何匹も這い出してきた。


 何匹いるかなんて数えられないほどに、沢山の影の猫が現れた。

 夜子さんの周囲に佇む闇の様な影の猫たち。

 夜子さん本人の醜悪さも含めて、その光景はどうしても気持ちが悪かった。


「アリス……」

「大丈夫、だから……」


 晴香が顔を引きつらせて掠れた声で呻いた。

 私は自分が震えるのを感じながら強く晴香を抱きしめた。


「さあ善子ちゃん。君はどこまで善戦できるかな?」


 影の猫は鳴いたりしない。静かなものだ。

 それはただ闇を、影を猫の形にくり抜いただけの様なもので、きっと猫であることに意味はない。

 けれどあるはずのない双眼が、一斉に善子さんに向けられる様に顔の部分が動いた。


 闇に染まる静寂の中で、存在しない無数の視線が善子さんに降り注いでいる。

 それでも尚、善子さんは強く脚を踏みしめていた。

 ほんの僅か、後ろにいる私たちに視線を向けて、それで覚悟を決めた様に拳を握りしめた。


「善戦も何も、可愛い後輩を私が守らなくて誰が守るって言うんですか!」


 自分を鼓舞する様なその言葉に、夜子さんはにんまりと微笑んだ。

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