44 複雑な気持ち
「逃げ場がないのは、あなたの方」
「────!」
間違った選択をしたのは千鳥の方だった。完全に誘い込まれていた。
彼女は自らの突撃をもってドーム全体を崩落させる気でいたが、実際打ち砕いたのはその天井のみ。
ドーム全体はその形を保っており、そして今開けた穴も再び凍てついて塞がっていく。
千鳥は現実主義で合理性を重んじるが、それはあくまで考える時間がある場合の話。
基本的に彼女は感情的で突発的で短気な性格だ。
特に事戦闘においては、冷静な分析より激情に身を任せてしまう。
それはつまり挑発による気の高ぶりであったり、勝ちを見出しての優越であったり。
そんな千鳥の短絡さを、氷室は冷静に見抜いていた。
氷を扱う魔法を得意とする氷室と対峙して、氷に覆われた状況は極めて危険だった。
周囲の全てが敵であり、氷室の武器だからだ。
自ら死地に飛び込んでしまった千鳥に逃げ場はなかった。
「ナメんじゃ、ないわよ……!」
しかし千鳥は諦めなかった。
歯を食いしばってまとっていた電撃を炎に変えた。
狭い空間で燃え上がる炎は急激に氷のドームを解かす。
解けて水に還ったそれは熱で更に蒸発していく。
しかしその炎は、氷室だけには届いていなかった。
「ナメているのも、あなたの方」
周囲に満遍なく炎を放っていたはずなのに、氷室にだけは火の手が及んでいなかった。
まるで氷室を避けるように脇を通り抜けていく。
千鳥が放った炎のはずが、千鳥の意思に反した動きをしていた。
その意味に千鳥が気づいた時には、もう遅すぎた。
魔法による現象は物理法則とはかけ離れた事象だ。
つまり術者の思惑が反映された結果の産物であり、その延長線上で偶発的に起きた現象を除いて、術者の意のままに行われる。
したがって千鳥が放った炎は、彼女の意思に沿って周囲すべてを埋め尽くしているはずだった。
しかしその意思に反し、氷室を避けて炎が広がった。
それはつまり、魔法によって起こされた炎が、より強力な魔法によって操作されたことに他ならない。
術者である千鳥よりも、氷室の方が炎を操る術に長けていたということだ。
「しまっ────」
「ごめんなさい。加減は、するから……」
千鳥の放った炎はその手を離れ、氷室の意思によって蠢いた。
そして瞬く間に千鳥を舐めるように取り囲む。
そこから彼女がなんとか脱出を図ろうとした時だった。
炎の中であるはずなのに、唐突にその熱が引いていった。
それは炎の中だけではなく、周囲一帯の熱が一瞬にして奪われた。
そしてその結果、氷のドームを解かし尽くしたことで立ち込めていた蒸気が瞬時に凝結し、そして炎さえも凍てついた。
その身を炎に舐められていた千鳥は、無形であるはずの炎が凍てつくと同時にその中に封じ込められた。
そして周囲の水蒸気の凝結もまた、彼女の身動きを封じる。
まるで彫刻で作り上げられたような凍てつく炎。その中にがんじがらめにされる千鳥。
そして凍てついた周囲の空気が、完全に千鳥を押さえ込んでいた。
千鳥自身をギリギリ凍りつかせない紙一重の技。
しかし凍てついた空間の中、氷の狭間に封じ込められて、千鳥の体は凍りついているのも同然に固まっていた。
氷結し、夕日にギラギラと輝く氷の空間の中で、波打つ氷の炎に囚われる千鳥。
それは決定的な敗北だった。完全に動きを封じられ、凍てつく寸前の彼女には魔法による反撃も難しかった。
「なによ。これ……アンタ、めちゃくちゃじゃない」
辛うじて動く口をゆっくりと動かして、千鳥は悪態をついた。
魔女は基本、実力が伴えば想像次第であらゆる魔法を扱うことができる。
しかし物事には向き不向きがあり、大抵は得意な分野があり、それに偏る。
千鳥は電気、氷室は氷。その得意分野をもってして圧倒されるのならまだしも、炎の魔法でそのコントロールを奪い取られるなんて、千鳥には信じられなかった。
「何者なのよ、アンタ……」
「……私は氷室 霰。ずっと、ずっとそう」
普段通り表情を動かさず答える氷室。
しかし千鳥には、自分と同年代のこの少女の圧倒的な実力が信じられなかった。
これは、『庇護』や『寵愛』などという恩恵の問題ではないように思えた。
しかし、そんなことは気にしても仕方のなことだった。
「……よくわかんないけど、まぁ……いいわ。私はちゃんとやることやったし、文句は言われないでしょ。いや、文句は言われるか。でもまぁお咎めはないでしょ」
「…………」
眉を寄せて薄く微笑む千鳥を、氷室は静かに見つめた。
負けたにも関わらず、千鳥はそれを気に留めている様子はなかった。
「やることはやった。私なりに手を抜かずに全力でね。それで負けたんだから仕方ないでしょ。そう、思わない?」
「あなたは……」
ニヤッと微笑む千鳥を見て、氷室は僅かに息を飲んだ。
千鳥ははじめから氷室に勝てるとなど思っていなかった。
自分の役割、立場から戦いは避けられなかったが、しかし彼女もまたアリスを友達と想う者だから。
時に現実や正しさよりも、アリスという友達の想いに手を差し伸べたいと思うこともある。
「早くアリスのとこ行きなさいよ。やっぱり私はそれが正しいとは思わないし、今回ばかりはあの子の味方はしてあげられないけど、アンタたちがそうしたいなら好きにすればいいんじゃないの?」
晴香を殺すべきだと思っていることは事実。しかしアリスがそれを望まないのなら、それに添ってやりたい気持ちもある。
決してその胸の内は明かさない。しかし、千鳥がアリスのことを気にかけているという想いは、氷室にも伝わった。
「…………」
戦意を消して緩く微笑む千鳥を見て、氷室は無言で頷いた。
千鳥もまたアリスのことを想ってくれているのであれば、アリスの元に向かうことにもう躊躇いはない。
氷室は少しだけ千鳥の目にその澄んだ瞳を向けてから、迷いなく背を向けて駆け出した。
「あ、ちょっと! 待ちなさいよ!」
千鳥は氷の空間の中、凍てついた炎にがんじがらめにされたまま、一人取り残された。
慌てて声を掛けるも、氷室は既に遠く駆けていた。
「……このままじゃ寒いじゃないの。解いていきなさいよぉ」
自分で氷を解く力の残っていない千鳥の寂しい呟きが、静止した氷の空間の中で虚しく消え入った。
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