41 猫又

「氷室さん、善子さん。ごめんなさい、巻き込んでしまって」


 改めて二人の背中に言葉をかけると、二人はすぐさまこちらを向いた。


「何言ってんの。友達に力を貸すのは当たり前。それに、晴香ちゃんを守りたいのは私だって同じだしね」


 気持ちの良い爽やかな笑みで善子さんはそう言って、ポンポンと私の頭を撫でてくれた。

 その力強さと心の広さが、堪らなく頼もしかった。


「花園さんの道が、私の道だから。あなたが守りたいものは、私も一緒に守るから」


 涼やかな表情で、氷室さんは静かにそう言った。

 その細い手が私の手をそっと握る。

 真っ直ぐ向けられるその透き通るような瞳からは、その気持ちの強さが伝わってきた。


「アリス、氷室さん、善子さん。私のために……ありがとう」


 そして晴香は、努めて笑顔を保って言った。

 そんな晴香を見て、氷室さんも善子さんも眉をむすんだ。


「晴香ちゃん。今は自分のことだけを考えて。晴香ちゃんのことは私たちが守ってあげるからさ。だから今は、今を生きるこの時間を自分のために使って」

「……はい、善子さん」


 善子さんも、晴香が人のことばかり考えることをよく知っている。

 そしてそんな晴香だからこそ、こうして力を貸してくれるんだ。

 人のことばかり考えて、自分の気持ちを押し殺して笑顔を作る晴香のために。

 そんな善子さんの言葉に、晴香は少しだけ笑みを解いて頷いた。


「雨宮さん」


 そして、氷室さんが私越しに晴香に目を向けた。

 晴香は少しだけ息を飲んで、氷室さんの目を見た。


「花園さんの側を、離れないで」

「…………」


 氷室さんはそれだけ言うと前に向き直ってしまった。

 晴香もまた、それに言葉を返しはしなかった。

 二人の間だけでわかるやりとりだったのかもしれない。


「私のわがままにつき合わせちゃってごめんね。でもやっぱり、ここで諦めるなんて私にはできないから」

「大丈夫。アリスと一緒なら、私は何があったって平気だよ。だからアリスは、自分が正しいと思ったことを貫いて」


 晴香は私の手をぎゅっと握ってそう言った。とても熱い、燃えるような手で。

 私が守ってあげようとしているのに、なんだか私が励まされているような気がする。

 やっぱり私は、ちょっぴり頼りないみたいだ。

 でも、私だって晴香の力になりたいから。こんな時くらい、彼女の支えでありたい。


「さて、準備が整ったようだけど、これは困ったなぁ。正面からやり合うのは面倒そうだ」


 私たちのやりとりをゆっくりと眺めてから、夜子さんはのんびりと言った。

 私たちに負けることなんて考えていない、どこかおどけるような言い草だった。


「よし千鳥ちゃん。ここは分断作戦だ。二人で手分けしようじゃないか」

「名案ね。アンタが厄介なのを引きつけてる間に、私があの子を殺すって算段?」

「千鳥ちゃん。君は霰ちゃんを引きつけておいてよ。後の相手は私がするからさ」

「ちょっと ! 霰の相手って、それ一番面倒なやつじゃない!」


 まるでいつも通りのやりとりを始める二人。

 自由気ままな夜子さんに千鳥ちゃんが踊らされている。


「ほらほらつべこべ言わない。ちゃんと仕事してよ仕事」

「あーもーわかったわよ ! やれば良いんでしょやれば!」


 夜子さんに促されて、千鳥ちゃんは喚きながら前に出た。

 バチバチと電気を弾けさせながら、氷室さんに向く。


「てわけだから霰。アンタの相手は私がするから」

「…………」


 少し不満げ、というか抵抗ありげに千鳥ちゃんが言ったけれど、氷室さんはじっとその姿を見て何も応えなかった。

 私の前に立って、庇うように腕を伸ばして動こうとしない。


 氷室さんはそもそも私たちを守ろうとしてくれているわけだから、自分から離れるようなことをしないんだ。

 確かに、わざわざ相手の分断作戦に乗る必要はない。


「やれやれ、霰ちゃんにも困ったものだよ。アリスちゃんが大好きなのはわかるけどさ。今は千鳥ちゃんとでも遊んでいてよ」


 眉を寄せて困り顔を作った夜子さんが、そう言いながら指をひょいと左に振った瞬間だった。

 氷室さんと千鳥ちゃんの体が何かに引っ張られるように宙に浮いて、横っ飛びで遠くへと放り投げられた。

 まるで念動力のような見えない力が働いたみたいに、二人は抵抗もできず私たちから離れた場所へと追いやられた。


「氷室さん!」


 思わず手を伸ばすも、当然ながら届かない。

 飛ばされながらこちらを見る氷室さんの顔には、苦悶の表情があった。

 けれど私に真っ直ぐその瞳を向けて、胸に手を当てた。


 わかってる。離れていても私と氷室さんは繋がっている。


「さてと、二人が向こうで遊んでいる間に、こっちはこっちで仲良くしようか」


 物凄く強引な手段で氷室さんを引き剥がした夜子さんは、にっこりと優しい笑顔でそう言った。

 正直、夜子さんの実力は計り知れない。

 夜子さんが魔法を使っているところを私は全然見たことがないけれど、話を聞く分にはとてつもない魔法の使い手を想像してしまう。


 魔法使いでも大変だという世界観移動の魔法を一人でやってしまうし、廃ビルに仕掛けている結界も相当強力なものらしい。

 レイくんたちワルプルギスも、なんだか夜子さんのことを気にしている雰囲気だったし。

 そして何より夜子さん自身から感じる只者ではない雰囲気が、私たちの警戒心を強めた。


「一応言っておくけどさ、私結構強いんだよね。降参するなら今のうちだけど」

「降参するくらいならはじめから抵抗しないですよ」

「それもそうだね」


 きっとその言葉に意味なんてなかったんだ。

 それで私たちが臆するなんて思っていない。ただ言っただけだ。


「確かアリスちゃんは戦えなかったよね? ここは私に任せて」

「でも、善子さん……」

「大丈夫。私だって少しは頼れるところ、見せないとね」


 善子さんは私たちににこっと微笑むと一歩前に出た。

 夜子さんはそんな善子さんを見て少しだけ目を細めた。


「善子ちゃん。君とは五年前、騒動に巻き込まれた後のフォローをしてあげて以来の仲だけれど、ちょっぴり意外だなぁ。君ならもしかしたらアリスちゃんに付かないんじゃないかと思ったけれど、そうでもなかったね。君は正義を重んじる子だから、それに則った判断をすると思ったんだけどなぁ」

「私が重んじるのは正義じゃなくて、私自身が正しいと思ったことです。それに、夜子さんだって自分が正義だなんて思ってないでしょう?」

「そうだね、その通りだ」


 夜子さんはその答えに満足したように頷いた。どこか面白そうにしている。

 どっちが正義かなんて誰にも決められないし、夜子さんだって思ってはいない。

 強引に正義を決め付けようとしたって、そこに意味なんてないんだ。

 さっき夜子さん自身が言っていた。正しさがぶつかったから、争いになるんだ。


「しかし時にこういう見方もできる。正義は必ず勝つ、という言葉があるだろう。つまり勝ったものが正義で、それは力あるものこそが正義になるということだ」

「それは……暴論です」

「確かにね。屁理屈とも言える。けれど全くの見当外れということでもない。この考え方から導き出される答えとは、正しさを貫くには力が必要だということさ」


 夜子さんの笑みが、不気味に揺らめいた。

 その言葉の意味が、重みがズシリとのしかかってきた。

 それはまるで、抵抗するのはいいけれど果たして勝てるのかな、と問いかけられているようだった。


 善子さんは顔を引き締めて夜子さんを力強く見据えた。

 私は晴香の肩を抱いて、強く引き寄せる。

 晴香はそんな私にすがるように身を縮めた。


「いまいち実感が湧いていないようだから、まずははっきりと力の差を見せてあげよう。善子ちゃんだけじゃない。アリスちゃんや晴香ちゃんも、今自分たちが誰を相手にしているのか、よーくその目に焼き付けることだ」


 夜子さんは優雅に微笑む。いつも通りのその笑みはけれどどこか妖しく見えた。

 そしてその言葉を合図にしたように、急激に大きな力が夜子さんを中心に渦巻いた。

 それはどこか気持ちの悪いような不気味な気配。

 私はこの感覚を知っていた。


 夜子さんが緩慢な動作でその乱雑な髪を掻き上げた。

 ふんわりと踊るその茶髪が手の動きに合わせて宙を舞い、はらりと揺らめいたその直後、その色が真っ黒に染まった。

 そんな唐突な変化に驚いた次の瞬間、私は見てしまった。夜子さんの頭の上に、髪の色と同じ黒いふわふわとした三角の突起が二つ現れた。

 よく見るとそれは、ぴくぴくと生きているように動いていた。

 それはどう見ても、猫の耳だ。


 まるで空想上の存在のような猫耳に目を奪われていると、今度はにゅるりと長いものが夜子さんの背後から伸びた。

 それは尻尾だった。すらっとひょろっとした、黒い猫の尻尾が二本。身長と同じくらいの長さのものが、夜子さんの腰のあたりから伸びてくねくねと宙を揺らいでいた。


「…………!」


 思わぬ光景に言葉を失う私たちを見て、夜子さんはニィッと意地悪く笑う。

 その口元からは、人ものとは思えない鋭い八重歯が覗いていた。


 その姿へと変貌を遂げた夜子さんからは、禍々しい黒い気配が漂っていた。

 こうして対面しているだけで息が詰まりそうになる、醜悪で恐ろしい圧力。


 私はこの感覚を知っていた。つい先日、私はこれと似た感覚に対面した。

 これはアゲハさんが蝶の羽を表した時ととても似た感覚。

 そして同時にこの感覚を前にして、先程から晴香から感じる気味の悪い圧力もこれと同様のものだとわかった。

 つまりこの気持ちの悪く恐ろしい気配は、力を強めているその存在感を増している『魔女ウィルス』の気配なんだ。


「転臨。アリスちゃんなら既に一度目にしただろう。魔女の次のステップだよ」

「夜子さん……あなたは一体……」


 転臨がワルプルギスの特権ではないだろうことはわかるけれど、でも夜子さんが既に転臨をしていたなんて。

 確かに自分のことを古参だと言うほどに、夜子さんは魔女歴が長いみたいだったけれど。

 でもまさか夜子さんまで既にその域にいただなんて。


「私は私だよ。姿形や在り方が変わろうと、それだけは変わらない。転臨なんてとっくの昔に済ませた私でも、今も昔も変わらず私だ。でもまぁ、これを他人に勧めるかといえば、なんとも言えないけどねぇ」


 黒く染まった髪はどこか重々しく、けれどぴくぴくと細かく動く耳や、ゆらゆらと呑気に漂う二本の尻尾はなんとも優雅だった。

 それらを携えても、確かに夜子さんは夜子さんに変わりはないように見えた。


 でも確かにこうして改めて転臨した姿を見せられると、この醜悪な在り方に晴香が辿り着いてしまうのは嫌だと思った。

 これが死を克服した姿だとしても、やっぱりこれは違うと思った。


「アリスちゃん。あれは……夜子さんなんだよね……?」

「……はい。私たちはあの人と、戦わないといけないんです」


 転臨した夜子さんを前にして、善子さんが少し震えているのがわかった。

 私だって、もう何度も言葉を交わした夜子さんだとわかっていても、今のその姿はとても恐ろしく感じた。

 敵うわけないと思ってしまいそうになるほどに、その醜悪な存在感には私たちを押し潰さんほどの威圧があった。


「さあみんな。お姉さんと遊ぼうよ」


 夜子さんは、猫撫で声で言った。

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