石を布く 2



 食事が終わってしまえば、後は片付けをして寝るだけだった。


 一応、少し前の時間までは、身体を洗うこととトイレの扱いについてソラに教えていた。


 身体については、基本的にはぼく達はこのアパートの風呂場に水桶を置いておき、その水で濡らしたタオルで拭くことによって済ませている。

 排水溝は虫が沸くので塞いでしまっているし、水が飛び散った場合はぬぐい取り、次の日に換気をする必要があるためかなり不便だ。


 人によっては、野外で普通に脱いで身体を洗う場合もある。まだ少数ではあるが、その内それが当たり前になる可能性もないとは言えない。

 本当に生存のみを考える場合、羞恥心やタブーなんて存在は真っ先に切り捨てられるものだ。


 もう1つの手段は共同浴場だが、人が運営している湯の出る所は金がかかるし、水を汲む手間や焚き木の費用などから、場所によっては水は何日も使い回しだし、水風呂どころかヘタすればただの汚れた水の入った大きな水槽としか思えない浴場もある。

 一応まだマシな環境の行きつけの場所はあるが、普段は日中に時間があるときは川に設置された浴場に行っている。


 トイレはアパートの便器を取り外した個室に、携帯トイレや仮設トイレと呼ばれるもの、いわゆるおまるを置いているだけだ。

 『磁気嵐』直後の避難生活ではトイレに適宜凝固剤を入れて悪臭を防ぐ、なんてことをしていたが、そんなしゃれたものはすぐに使い切られてしまった。

 今この部屋の住人は拾ってきた介護用の携帯トイレを使っており、夜中の『磁気嵐』が激しい時はそこで済ませている。


 難点は、次の日に川に洗いに行かなければならない点だろうか。だからこれはあくまで非常用のものだ、という取り決めがぼくとススキの間でなされている。


 『農家アグリ』の一部のグループでは肥料として回収している所もあるが、この近辺では通常、近くの指定された川の方にあるトイレを使う。

 流水は偉大だ。まともな水道設備の使えない今はしみじみとそう思える。


 ぼくはそれで問題ないのだが、ススキはたまに距離が遠すぎると愚痴っていることもある。

 あいつはあれで性別は一応ギリギリでかろうじて女であるはずだから、そういった意味での不便さが男よりも大きいのかもしれない。


 例によってソラはぼくの説明に対して、判ったと簡潔に答え、寝る前に僕たちに共立って川の方に行っていた。

 室内ではいつも半裸のススキも、その時ばかりは服を着ていた。

 最初から着ろと言いたい。


 風呂とトイレに関しては、まあそんなところだろう。


 昨日は警戒しつつの外での夜営だったため、それよりはこの部屋はマシな寝心地であると言えるだろう。

 屋根と床と頑丈な扉で外界と区切られているし、夜行性の野生動物に怯える必要もない。


 窓もちょっとした通気口以外の全てが鉄やアルミで分厚く保護され、『磁気嵐』による影響を和らげてくれているはずだ。


 ススキはいくらかのやり取りを経て、奥のあいつの部屋に押し込めた。その間のやり取りをあえて言及する必要はないだろう。


 一応ソラはここに来ての初日になるが、それでも既にかなりこちらの警戒度は下げても構わないように思う。

 会話などのやり取りを踏まえても、衝動的だったり反抗的であったりという様子はかけらも感じられなかったし、ここで今すぐぼくをナイフで刺すなどと言ったマネをするとは考えづらい。

 逆に、かなり理知的で聡い子だということが判明しつつある。『略奪者レイダー』の中で虐げられてきたことによって培われた処世術なのかもしれない。

 それならなおさら、自分の立場を不利にするようなことは避けるはずだ。


 だから、窓の方で横になっていたソラが夜中に立ち上がるのが見えた時は、おのずとその理由の察しがついた。


「ソラ、外か?」

「うん。けしき」

「そうか。そこの窓を開ける」


 雨戸などよりよっぽど頑丈な鉄板を音を立てないようにスライドして押しのけ、ベランダへの通路を確保する。


 ソラは外に出て、ぼくがその姿を眺める格好になった。

 帽子もサングラスも外したその子は、昨日と同じようにじっと上を向いている。


「そと、でる?」

「…………ぼくも出よう」


 やはりためらいはある。

 この夜の時間は『磁気嵐』の時間であり、そして人間にはあまり優しくないとされる時間帯だ。


 夜よりも昼のほうが『集合体コミュニティ』内での強盗・殺人の発生率が高い、なんて統計も『図書館ライブラリ』のやつらが出していた覚えがある。

 つまり物盗りですら、まともな神経をしていれば『磁気嵐』を忌避する傾向にあるのだ。


 ベランダに裸足で出れば、耳には『磁気嵐』発生時に特有の低い唸りのような音が入り、赤や青といった様々な色彩が入れ替わりで視界を染めてくる。

 世界を破壊した音と色が極光オーロラの空に広がっていた。


 だが、目の前の小さな子がいつも通りの平気そうな顔をしていると、それらがなんでもない普通のことに感じられた。


「けしき、きれい」

「うん。綺麗だ」


 街灯のような照明がない『集合体』は夜になると暗く、『軍』の高層ビルですら今はただの黒い影になっていた。

 その代わり、夜空はくっきりと見える。


 2人して揺れ動く極光を眺める。

 月や星よりも目立つオーロラ達は、それでもまだ足りないとばかりに思い思いに揺蕩たゆたい、色合いを好き勝手に変えていた。


「そら、きれい?」

「うん。綺麗だと思う」


 言ってから僅かにハッとして、いや、特に深い意味はないのだろうと思い直す。意味合いは直前になされた問いと同じだ。


 ソラの黒と赤の目を見ても、特に表情に変化はないように見える。ここで悪いのは、誤解するような名前を付けたぼくのほうだろう。

 名付け親がうろたえてどうするんだ。


 微妙に間が持たなくなったため、話す。


「ソラにとっては、これが習慣だったのか」

「うん、しゅうかん。まいにち」

「毎日か。間違いなく習慣だな」

「きょう」

「ん?」

「しゅうかん、ふえた」


 箸を使うことと、食事前の挨拶。


 まだ初日だが、言われてみれば確かにさっそく2つ増えている。


「生きていれば、習慣は増える」


 だからこの子の習慣は、これからもっと数を増やしていくのだろう。


 自分にしては、らしくない考え方だ。


 だが、そんな考え方も悪くないように思えた。

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