separatia
諏訪真
地球に帰るまでが旅行です 前編
週末の午後、取引先のオフィスを出るとカフェにも寄らず家に向かった。休日について別に予定も何もないのだが、寧ろ予定がないためにどうしようかと考えている時こそが週末の醍醐味だと思う。
実際は予定を立てるにしても何を考えてもしっくりこないので、同居人に任せてしまうのだが。
と、考えながら帰宅したときのことだ。
「おかえり」「ただいま」と同居人といつものやり取りを交わす。同居人、つまりアンドロイドで我がパートナーのミレディーである。
荷物を片付け、さて明日からどうしようかと相談しようとした時だ。
「今日晩から月に出かけるから」
突然そう言われた。唐突すぎて理解できなかった。
「よく聞こえなかったからもう一度お願い」
「だから、旅行に行くの」
「いつから?」
「これから」
「どこへ?」
「月。車中泊3日の旅」
突拍子がないにも程がある。確かに結局予定も何もないので決めてもらおうと思っていたが、ここまで予想外な予定が飛んでくるとは思わなかった。
「家の中で干からびるのが嫌だから外に連れ出せって言ったのあなたでしょう?」
こういう乱暴な形でも外に連れ出そうとするのは、かつて僕がそう命じたからだ。
家の中で朽ち果てるようなことにならないようにしてくれ、と。
チケットはもう押さえているので、このタイミングでなければ嫌だと強固に主張している。どうせこの連休はすることもないだろうが、と。確かにその通りで反論も出来ないから尚悔しい。だが正直なところ遠出の理由がほしかったのは事実だ。
支度はもう滞り無く終わっていた。後5分でタクシーも来るというから完璧な段取りに感心する。もう少し家主への根回しも気を利かせておいてくれれば完璧だったのに、と独りごちた。
山陰の夜は早い。8時を過ぎるともう大体の店は締まり始める。駅に向かう通りは、街灯以外に明かりはない。駅の最終便の2つ手前の便で大阪駅まで急行で向かう。大阪へはこんな風に週末の晩に突発的にミレディーと2人で行くことがある。何度も往復した路線だけにまだ遠出の途中という感覚が抜けない。戸締まりしたっけ? とか他愛のない会話をしていた。
ふと空を見上げると、銀色に光る月が目に入った。多分月齢12か13くらいのギリギリ真円に届かないくらいで、明日が満月なんだろうなとぼんやりと考えていたが、そういえば今そこに向かっているんだと気付いたのは、大阪に着いたあとだったくらい未だに実感に乏しい。
大阪駅に着き、ここからリニアで赤道の軌道エレベーター終端駅まで一直線に向かうことになる。アメリカまで向かうリニアには出張やカンファレンスで向かうことはあったが、赤道方面は実は初めてだったりする。
走り出す時の感覚は飛行機に似ていて、猛烈な加速の後に重力が足から下に離れていくような浮遊感は似ているのだが、その浮遊感が空まで向かわずに中途半端な高さでぶら下がっているようなところがリニアと飛行機の違うところだったりする。どうにも重力から完全に開放された感がなくてもどかしい。
リニアの社内からは外は見えないが、映像設備などが凝っているおかげで退屈することはない。VRデバイスで数々の映像作品を鑑賞することができる。リクライニングシートを倒し、2人で往年の名作を見ることにし、スカーレット・オハラがタラに戻ると宣言した時にはもう日付も変わる頃合いだった。旅の高揚感で気持ちも昂るが、眠気には勝てず僕は先に床についた。ミレディーは後で眠るというが、それにはきっと語弊がある。
翌朝、ミレディーに起こされて目が覚めた。そろそろ軌道エレベーターの終端駅に到着する頃合いだという。
駅から外に出ると咽るような熱気に包まれた。場所はシンガポール南のバタム島だそうだ。赤道直下に来たのは初めてで、周り全てが興味深い。まず面食らったのは駅が海の中にあり、外に出ると海の上に出たということだ。軌道エレベーターの終端駅へは桟橋を通って向かう。当たり前だが、日本海の色と全然違う。正直余裕を持って計画を立てて置けばよかったと少し後悔した。
ここからは上空8000kmまで登り続ける。空を見上げると薄い銀色の線が赤道に沿って東西に真っ直ぐに伸びている。あれが次の目的地のオービタルリングだ。
正直この道中まではまだ快適で、ここからが問題だった。格安なので観覧車のゴンドラより少し広いくらいの席にミレディーと二人で押し込まれた。この状態で7時間過ごすことになる。夕方には上方終端駅に到着予定だが、その間することもない。何かゲームをするにしても絶対に勝てないだろう。
窓から外の景色が見える。最初の数時間で雲の間を遥かに通り抜け、徐々に青さから群青へと変わる空の色は、昔海に潜ったときの光景を思い起こさせた。まるで深海へと向かうような、そんな錯覚を起こす。
成層圏、熱圏と過ぎ、もはや外は青一色から暗い水底のような色に変わると、今がもう宇宙と地球の狭間にいるのだと実感する。
今乗っているエレベーターを外から見ると、きっと前に博物館で見た古のピンボールマシンの中の、打ち出される銀色の弾丸のような姿をしているのだろうと連想した。
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